第2話:世界で一番静かな場所
王都を出て、乗り合い馬車と徒歩を乗り継ぐこと丸三日。
道が途切れ、木々の梢が青空を覆い隠すほど深くなったあたりで、私は足を止めた。
見渡す限りの緑、湿った土と木々の匂い、そして遠くで鳴く名前も知らない小鳥の声。
ここには、舗装された石畳も、行き交う豪華な馬車の車輪の音も、貴婦人たちのひそひそ話も届かない。
王国の東の境界線――魔獣が出ると恐れられ、今ではほとんど人の寄りつかない、地図の上ではただ白く塗りつぶされているだけの『名もなき森』だ。
「……うん、いい空気」
私は大きく背伸びをして、肺の底まで森の清冽な空気を吸い込んだ。
身にまとっているのは、王都を出る前の宿場で買った粗末な麻のワンピースと、革のエプロン。
足元には頑丈な編み上げの靴。
きつく締め上げていたコルセットも、肌を刺すような宝石のネックレスも、もうどこにもない。
風が吹くたび、さらりと揺れる淡い金色の髪が、頬をくすぐっていく。
髪を夜会用に固めるポマードの匂いではなく、草木の青い香りがした。
背負った革の背嚢を少し持ち上げ、木々の間を縫うように歩く。
踏み固められた獣道をしばらく進むと、開けた小さな丘の上に、目的の建物が見えてきた。
古い石造りの平屋の小屋。
屋根には青々とした苔が乗り、壁には蔦が絡まっているけれど、基礎は驚くほどしっかりしている。
前世の記憶を取り戻してからというもの、古い狩猟小屋として残っていたこの建物の権利を、身銭を切って裏街道の商人から密かに買い取り、少しずつ手入れをしておいた。私の『終の棲家』だ。
小屋の周囲には、私が数年がかりで設置しておいた簡易な魔導具が埋め込まれている。
王太子妃教育で学んだ結界術を応用した、大型の魔獣や害獣が本能的にこの一帯を避ける結界石だ。
この結界さえ維持しておけば、少なくとも街道から迷い込む獣や魔獣に怯えずに暮らせる。
錆びついた鉄の鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
――カチリ、と心地よい金属音が響いた。
「ただいま、私の家」
軋んだ音を立てて木製の扉を開けると、少し埃っぽい、けれど乾いた木の匂いが鼻腔をくすぐった。
室内は、一室だけの素朴な作りだ。
石造りの頑丈な暖炉、使い込まれた木のテーブルと椅子が一脚。奥には藁を詰めたマットレスのベッド。
華麗な天蓋も、シルクのシーツもない。
けれど、誰かが私の眠りを監視することもない、正真正銘、私だけの城。
「よし。まずは掃除からね」
私は袖をまくり上げ、作業を始めた。
裏庭へ出て、古い手押しポンプの井戸を漕ぐ。
キイキイと鈍い音を立てた後、冷たく澄んだ地下水が勢いよく噴き出してきた。
両手ですくい、顔を洗う。
冷たさに思わず息を呑んだけれど、徹夜で揺られていた旅の疲れが、一瞬で吹き飛んでいくようだった。
バケツに水を汲み、持ってきた古布で窓を拭き、床を掃く。
暖炉の灰を掻き出し、薪棚に積んでおいた乾いた薪をくべる。
火打ち石を打ち鳴らし、小さな火種を息で吹き育てると、パチパチと薪が爆ぜる心地よい音が部屋に満ちていった。
窓を開け放つと、風が通り抜け、部屋の中に溜まっていた湿気をさらっていく。
時計を見る必要すらない。
午後の公務の時間を気にする必要も、誰かの失言を取り繕うために根回しをする必要もない。
自分が動いた分だけ、部屋が綺麗になり、生活が整っていく。
その当たり前の手触りが、砂漠で水を飲んだ時のように、私の心を満たしていく。
「さて……お茶にしましょうか」
庭の片隅へ出ると、放置されていた土の上に、小さな白い花を咲かせたカモミールと、野生のスペアミントが群生していた。王太子妃教育では救護院の運営に備えて薬草学や応急手当まで叩き込まれたから、見慣れた草なら扱いに迷うこともない。
指先で葉を軽く摘むと、爽やかな甘い香りが立ち上る。
摘みたての柔らかな若葉と花を水で洗い、小さな鉄鍋に井戸水と一緒に放り込む。
暖炉の火にかけ、じっくりと湯気を立たせる。
お湯が沸くにつれ、素朴な部屋の中が、カモミール特有のリンゴに似た優しい香りで満たされていった。
木製のマグカップに注ぐと、透き通った淡い黄金色の液体が揺れる。
高価な東方産の紅茶ではないし、銀のティーセットでもない。
けれど、私にとってはどんな宮廷の晩餐よりも贅沢な一杯だ。
カップを両手で包み、外の木製の張り出しの段差に腰掛けた。
ふう、と息を吹きかけ、一口含む。
染み渡るような温もりと、清涼なハーブの香りが、喉を通って胃の奥へと落ちていく。
強張っていた肩の筋肉が、すとんと落ちた。
「……美味しい」
声に出してみても、誰も咎める人はいない。
『淑女たるもの、独り言を口にしてはなりません』と叱責してくる家庭教師もいない。
『お前はいつも不愛想だな』と鼻で笑う婚約者もいない。
森の木々が、サワサワと風に揺れている。
木漏れ日がポーチの足元に落ちて、柔らかな光の斑点を作っていた。
「悪役令嬢、終了。お疲れ様でした、私」
もう一度、カップに口をつけながら、私は微笑んだ。
私はもう、オルデンブルク公爵令嬢でも、王太子の婚約者でもない。
誰の物語の脇役でも、誰かを輝かせるための悪役でもない。
ただこの森で、自分のためにお茶を淹れて、朝日に目覚め、夕暮れに眠る、名もなき人間だ。
これ以上の幸福が、この世界のどこにあるというのだろう。
空を見上げると、どこまでも澄んだ青空が広がっていた。
風の匂いが、かすかに変わり始めている。
遠くの山並みの上に、重たげな灰色の雲が、ゆっくりと湧き上がりつつあった。
――明日は、雨になるかもしれない。
そんな他愛のない天気のことだけを考えながら、私は冷めないうちに最後の一口を飲み干した。
この静かな楽園に、嵐とともに『招かれざる客』が落ちてくるのは、それからわずか数日後のことだった。




