第1話:お役目、ご苦労様でした
「――コリンナ・オルデンブルク! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄とする!」
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ王宮の大広間に、よく通る男の声が響き渡った。
オーケストラの演奏はピタリと止まり、色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、息を呑んで一斉に視線を向けてくる。
広間の中央、一段高くなった壇上には、王太子アウグスト殿下。
その隣には、守ってやりたくなるような小鹿の瞳を潤ませ、殿下の腕にすがりつく可憐な男爵令嬢――この世界の『正統なヒロイン』であるリリィの姿があった。
「聞こえなかったのか、コリンナ! 貴様のその冷酷極まりない態度、そしてリリィへの陰湿な嫌がらせの数々……我が国の王妃となるべき器ではない。今すぐこの場から立ち去るがいい!」
アウグスト殿下は、正義を執行する英雄のような顔をして私を指弾している。
殿下の取り巻きや、面白半分に騒ぎへ乗った貴族たちから、嘲笑と蔑みのささやきが漏れ聞こえてきた。
(……ああ)
私は、扇を握る指先にわずかに力を込めた。
胸を突いたのは、怒りでも、悲しみでも、恥辱でもなかった。
(やっと……終わったのね)
それは、十年間ずっと張り詰めていた細い糸が、ぷつりと心地よい音を立てて切れた瞬間だった。
私が前世の記憶を取り戻したのは、八歳の冬のことだ。
高熱を出して倒れた際、自分が前世で夢中になって遊んでいた乙女ゲームの世界に、よりによって主人公の恋路を邪魔する『悪役令嬢』として転生したのだと気づいてしまった。
ゲームの中のコリンナは、王太子への執着から暴走し、最後は断罪されて処刑されるか、暗い地下牢で生涯を終える。
幼かった私は震え上がった。死にたくない。誰かを本気で憎みたくもない。
けれど、歴史の修正力なのか、名門公爵家のしがらみなのか、王太子との婚約はあっさりと結ばれてしまった。
逃げ出す道を探して、私はひとつの結論に達した。
――シナリオを無理に壊そうとすれば、どんな歪みが出るかわからない。
ならば、誰ひとり怪我人を出すことなく、完璧に『お役目』を果たして舞台を降りよう。
それからの十年間は、息の詰まるような綱渡りだった。
殿下が傲慢になれば諫言し、彼がサボった公務の書類を夜中にこっそり添削して辻褄を合わせ、社交界での地盤を整え……そしてヒロインが現れてからは、「口うるさく冷たい悪役」を過不足なく演じきった。
階段から突き落としたり毒を盛ったりするような犯罪には手を染めず、ただ「立場を弁えなさい」「殿下の公務の邪魔をしてはなりません」と、正論という名の嫌われ役を引き受け続けた。
すべては、この夜のため。
「コリンナ、何か申し開きはあるか! ないはずだな! 貴様の傲慢さに付き合うのも今日が最後だ!」
殿下が勝ち誇った笑みを浮かべて私を見下ろしている。
隣のリリィ嬢は、勝ち誇ったような視線を隠しもせず、殿下の胸元に顔を埋めた。
きっと彼らは、私がみっともなく泣き叫び、殿下にすがりつき、あるいは怒りに狂って醜態を晒すことを期待しているのだろう。
殿下に近い者たちもまた、高慢だった公爵令嬢が泥をすする瞬間を、今か今かと待ちわびている。
けれど、ごめんなさいね。
私の心には、もう一滴の未練も残っていないの。
私はゆっくりと、背筋を伸ばした。
扇を静かに閉じ、両手でドレスの裾を優美に持ち上げる。
そして、亡き母から教え込まれた、オルデンブルク公爵家に伝わる最も格式の高いカーテシーを披露した。
つま先から頭のてっぺんまで、一片の乱れもない、完璧な最敬礼。
広間が、しんと静まり返る。
あまりに淀みのない私の所作に、野次を飛ばそうとしていた貴族たちが言葉を失った。
顔を上げると、アウグスト殿下が眉をひそめ、居心地悪そうに身じろぎした。
「……な、なんだ。潔く罪を認めるというのか?」
「はい、殿下」
私は、人生で一番澄み切った微笑みを浮かべた。
作り笑いでも、皮肉でもない。心の底から湧き上がる、解放の笑み。
「謹んで、婚約破棄をお受けいたします」
「な……っ」
「これまで至らぬ私を婚約者として遇していただき、心より感謝申し上げます。アウグスト殿下、そしてリリィ男爵令嬢。お二人の未来が光に満ちたものとなりますよう、陰ながら祝福申し上げておりますわ」
「お、おい……コリンナ……?」
殿下の顔から、勝利の笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、気味の悪いものを見るような、明らかな動揺と戸惑いだった。
もっと激昂するはずの女が、聖女のような穏やかな顔で自分を祝福している。その異常さに、殿下の喉が引きつったように上下した。
「それでは皆様、これにて失礼いたします。どうぞ、今宵の宴の続きをお楽しみくださいませ」
私はもう一度、小さく会釈をした。
そして、一度も振り返ることなく、踵を返した。
カツン、カツンと、静まり返った大理石の床に私の靴音だけが響く。
誰一人として、私を呼び止める声はなかった。
ただ呆然と割れていく人の波を抜け、私は夜風が吹き込むバルコニーへと向かう。
大広間の重い扉を抜けた瞬間、肌を撫でた夜風の冷たさが、たまらなく愛おしかった。
「……ふふ」
思わず、小さな笑いが零れ落ちる。
中庭の裏手、事前に手配しておいた小さな辻馬車が、明かりを消して待機していた。
御者台の老人が、私を見て無言で頷く。
私は重たい宝石のティアラを外し、馬車の座席へ投げ出した。
窮屈なドレスの背の紐を少しだけ緩めると、肺の奥まで夜の空気が入ってくる。
「お疲れ様、私」
誰もいない馬車の中で、私はそっと呟いた。
公爵家の実家には、家名と相続権を返上するための署名済み書類を残してきた。
王家から贈られた宝石も、身分も、王妃の座も、すべて置いてきた。
手元にあるのは、何年もかけて自分名義で蓄えたわずかな生活費と、小さな森の小屋の権利書だけ。
馬車が静かに軋み、夜の王都を離れていく。
目指すは、王国の境界線――地図にも名前の載っていない、深い深い森の奥。
悪役令嬢のお役目は、これで全部おしまい。
明日からは、世界で一番静かな場所で、私だけの朝を迎えるのだ。




