第九話「王命」
王命が下ったのは、川の氷が抜けてすぐだった。
朝、帳場に人が多かった。多いだけなら祭りの前にもある。違ったのは、誰も座っていないことだった。
ハインが二度、俺の前を通った。二度とも、こちらを見なかった。
手習いは、その日から三日止まった。
四日目に、ハインが呼びに来た。
「若旦那様。石材置場までご一緒願います」
「何かあったのですか」
「王命です」
王命、と言われても、こちらには何も浮かばない。王がいることは習った。王が何か言うと街の全部が動くのだということは、習っていない。
石材置場は、坂の下にあった。秋に一度、リーゼと来ている。あのときは、石が積んであるだけの場所に見えた。
今日は、人がいた。
積んである石の列が、去年より高くなっていた。
冬のあいだ、荷は止まっていた。止まっていたぶんが、そのままここに残っている。それが春になって、一斉に動き出す。
石は、大きいものほど下に積んである。
上の段は俺の膝ほどの切石で、下へ行くほど背が高くなる。いちばん下の列は、俺の背丈を越えていた。あれを一つ動かすのに何人と何頭が要るのかは、知らない。
人が多いだけではない。同じ場所に立っている男たちが、同じ動き方をしていなかった。
紐を張って地面を測っている者。
石の面に指を当てて、爪で叩いている者。
板に何か書きつけている者。
荷車の脇で数を数えている者。
何もせずに、それを見ている者。
俺はこれまで、全部まとめて職人だと思っていた。街の人間も、そう呼ぶ。石を切る者も、担ぐ者も、土を叩く者も、職人だ。
違うらしい。
「あちらが積算です」
ハインが顎で示した。
「石の数と、人の数と、日数を出す者たちで。わたしの仕事の半分は、あの者たちと喧嘩することです」
「半分」
「残りの半分は、荷役と喧嘩することです」
この番頭は、たまにこういうことを言う。冗談なのかどうか、いまだに判断がつかない。
王の使いが来たのは、三日前の朝だという。街の組合の頭が集められ、同じ紙を読まされ、同じ日に帰された。どの街にも、同じ使いが回っている。
王が、いくつもの街へ同じ命令を出したのだという。
町外れの小川に、石の橋を架けろ。
それだけだった。
「どのくらいの川ですか」
「艜は通りません。夏なら、歩いて越えられます」
拍子抜けした。王命と聞いて、俺は大河を想像していた。想像したというより、そういう話だと決めてかかっていた。
「そんな川に、王様がわざわざ命令するのですか」
「小さいから命令するのです」
ハインは足を止めなかった。
「同じ大きさの橋を、いくつもの街に架けさせます。速さと、費えと、出来を並べて比べる」
「比べて、どうするのです」
「勝った街が、次に本物を任されます」
試験だ。しかも、規模を揃えた試験だ。条件を揃えなければ比べられないから、小さい。
なるほど、と思った。思ってから、少しぞっとした。前の世界で、何度も見た形だった。
同じ大きさのものを、同じ日から、いくつもの街に作らせる。出来上がったものを並べて、一つだけ選ぶ。
選ばれなかった街の費えは、その街が被る。命じた側は、一つも損をしない。
置場の中ほどで、大きな声がしていた。父だった。
相手は大柄な男で、秋に一度会っている。リーゼの父親だった。
「三つだと、迫石が大きくなる」
「なります」
「切れるか」
「旦那が出せるなら、切ります」
「出せるかと訊いてるんじゃない」
父の声が一段低くなった。
「切れるかと訊いてる」
「切ります」
喧嘩に見えた。
喧嘩ではなかった。どちらも、相手ができると思って話している。
「父上は、降りられないのですか」
俺が訊くと、ハインは板の数字を見たまま答えた。
「降りれば、石座の序列が下がります」
「下がると、どうなるのです」
「次から、こういう話が回ってきません」
それだけだった。
得をするために出ているのではない。抜けたときに失うもののほうが大きいから、出ている。前の世界にも、そういう仕事が山ほどあった。
◇
昼を過ぎて、置場の隅に台が出された。板を四枚並べただけの、間に合わせの台だ。その上に、大きな紙が広げられた。
人が寄っていく。俺は寄れなかった。十一歳の背丈では、囲みの外から見上げる形になる。
それでも、見えた。
線が引いてある。寸法が書いてある。同じ符号が、いくつも繰り返されている。
字は、去年の冬にようやく覚えた。いまでも、書付を読むときは指で追う。
この紙は、追わなくても読めた。
橋だ。
脚が二本。脚と脚のあいだが、三つ。弧が三つ並んでいて、その上に、まっすぐな線が一本走っている。
弧の頂点に、小さな三角の印があった。同じ印が、脚の中心線にもある。高さを取る基点だ。
そこから下へ、寸法が枝分かれしている。枝の末端に、石が一つずつ並んでいた。
弧の下には、細い線が格子に組んである。石ではない。木だ。
石の弧は、最後の一つがはまるまで、自分では立たない。立つまでのあいだ、下から支えておく組みが要る。その組み方まで、この紙には描いてあった。
弧は、両端から順に積み上げて、最後に真ん中の一つを落とす。
その一つがはまるまで、弧はただの傾いた石の列でしかない。はまった瞬間に、はじめて自分の重さで立つ。
まっすぐな線。俺は、そこをしばらく見ていた。
「平らなんです」
隣でリーゼが言った。
「今までの橋は、上が丸いでしょう」
「丸いと、どうなるんだ」
「ドナーが登れません」
中庭の馬を思い出した。一トンある。ソリに石を積んで、坂を押し上げるための馬だ。
「登れないのか。あの馬が」
「馬は登ります。荷が登りません」
リーゼは指で弧を描いた。
「橋の手前で降ろして、担いで、向こうでまた積むんです。毎回」
平らなら、積んだまま渡れる。
それだけのことだ。それだけのことで、石を運ぶ街の何もかもが変わる。
「若旦那様」
ハインが横に来ていた。
「弧を三つにすると、一つあたりが広くなります」
「広いと、何が要るのです」
「大きい石が要ります」
彼は台の上を指した。
「この橋は、大きい石を出せる家でなければ試せません。だから旦那様が出ます」
設計と、商売が、同じ一つの賭けになっている。うまくできている。
脚を減らせば、川の中の障害物が減る。流木も、春の氷も、詰まらずに抜けていく。
さっき棟梁が言い返していたのは、たぶんそのことだ。
俺はもう一度、紙を見た。弧のあたりは、線と数字で真っ黒だった。
迫石の形。
支保工の組み方。
石の目の向き。
橋脚の上のほうまで、びっしり書いてある。
その下が、白かった。
数字は読めない。この距離では、線が引いてあるかどうかしか分からない。分かるのは、そこだけ紙が白いということだけだ。
囲みが少し崩れたとき、俺は近づいた。大柄な男が、紙の端を押さえていた。
「棟梁」
ヨナスが顔を上げた。
「お久しぶりでございます、若旦那」
「あの、下のほうですが」
「下」
「川の底です。何も書いていないように見えます」
ヨナスは紙を見た。見て、それから俺を見た。馬鹿にした顔ではなかった。
「測ってあります」
「そうですか」
「今年の春に。手前が見ております」
嘘ではないと分かった。この男は、測ったのだろう。自分の目で見て、承認したのだろう。
「別の紙に書いてあるのですか」
「そうです」
ヨナスは紙の端を指で撫でた。
「橋の絵に、川の絵は載せません」
それも道理だった。道理だったので、俺は引き下がった。引き下がったが、白いところだけが目に残った。
ヨナスは紙を巻き始めた。巻きながら、ついでのように言った。
「若旦那。娘は、元気にしておりますか」
「……はい」
「仕事は、上手くやれておりますか」
上手くやれている。
冬のあいだ、あの娘は俺のために灯りを持った。読めない字を読んだ。鍵のかかった部屋の中で、俺と一緒に埃をかぶっていた。
全部、父が禁じたことだ。
「上手くやれています」
嘘ではなかった。全部でもなかった。
この人が、娘の行き先を決めた片方だ。三年前、儀のあとで、俺の父とこの人が話をつけた。本人は、聞かされただけだと言っていた。
ヨナスは頷いた。
「そうですか」
それだけだった。
娘には訊かないのだろうか、とは思った。思ったが、訊かなかった。
ヨナスは紙を抱えて、石のほうへ戻っていった。戻り際に、寸法の話を三つ、後ろの男へ投げていた。
◇
帰りは、置場の裏の道を通った。
塀の外に、荷車が一台停まっていた。石ではない。布をかけた木箱が、いくつか積んである。
外套の男が三人、箱の脇に立っていた。旅の恰好だ。置場の人間とは、履いているものが違った。
箱の一つが開いていた。中で、何かが光った。
拳ほどの石だ。濁った赤で、割れ目の奥だけが明るい。
「魔石ですよ」
リーゼが言った。
「討伐に出た方が、売りに来るんです」
男の一人が、番の者へ紙を渡した。番の者はそれを台へ広げ、数を数え始めた。
俺は横から見た。見えたのは、上のほうだけだ。数と、地名と、それから短い語が並んでいた。
集落。
幼体。
去年の冬まで、俺はこの紙を眺めても、線の集まりだと思っただけだろう。いまは読める。
読めたところで、意味は分からなかった。
「行きましょう、坊ちゃま」
リーゼは箱のほうを見ていなかった。番の者も、荷役の男も、誰も手を止めていない。止めていないので、俺も歩いた。
屋敷へ戻ると、帳場に神殿の者が来ていた。白と灰の服を着た男が二人。一人が話し、一人が書いている。
起工の日と、竣工の日が示されるのだという。紙には、日付が二つ書いてあるらしかった。一つ目から二つ目までのあいだが、そのまま工期になる。
示された。
誰も異議を唱えなかった。父も、ハインも、頷いただけだった。
工期が、神託で決まった。
俺は口を開きかけて、やめた。やめてから、考え直した。
同じ日に始めて、同じ日を目指す。どの街も、そうする。比べるためなら、これでいい。
いいのだが、動かせないということでもある。
工期が動かないということは、遅れたときに削れる場所が一つしかないということだ。
削れるのは、一日の長さだけになる。
その日は、春にしては暖かかった。どのくらい暖かいのかは、分からなかった。この街に、暑さを数で言う道具はない。
水位を測る標はある。雨を溜める壺もある。石を積んだ艜が沈むかどうかは、金の話だからだ。
◇
その晩、地下室へ下りた。もう手順は要らない。
寄合の日と、帳場の空く時刻は、リーゼが押さえている。灯りも、彼女が持つ。
俺は錠に麦粒の光を入れて、板を四枚、順に上げるだけだ。半刻かかったのは、最初の一度きりだった。
「今日は何をお探しですか」
「橋」
「橋の作り方の本は、ないと思いますけれど」
「作り方じゃない」
棚は、去年より小さく見えた。小さくはなっていない。どこに何があるかが、分かっただけだ。
俺は棚の端から灯りを追った。
「壊れた話を探す」
リーゼが光を少し上げた。
「……縁起でもありませんわね」
「うまくいった話は、誰も紙に残さない」
金を出した側が紙を残すのは、揉めたときだけだ。払え、いや払わない。直せ、いや直った。
そういうものしか、この部屋には残っていない。冬のあいだに、それだけは分かった。
二人で、束を端から解いた。
束は紐で括ってあって、括り方が年代でばらばらだった。
新しいものは麻紐で、古いものは革の細帯で括ってある。どちらも埃をかぶっていて、解くと指が黒くなった。リーゼは古い書き方の分を引き受けた。俺は新しいほうを見た。
線が繋がっている紙は、いまだに一字も読めない。
三つ目の棚で、リーゼの手が止まった。
「坊ちゃま」
「なんだ」
「これ、橋です」
束は薄かった。二枚だけだ。
一枚目は、請求書だった。修繕にかかった費えが並んでいる。
石の数。
人の数。
日数。
二枚目は、返事だった。
払わない、と書いてある。こちらの落ち度ではない、とも書いてある。どちらの紙にも、なぜ壊れたのかは書いていない。
「どこの街だ」
「読めますか」
「読めない」
「ここです」
リーゼが指した名前を、俺は覚えられなかった。この街ではない、ということだけ分かった。
「なんて書いてある」
「橋の脚が、傾いたそうです」
「いつだ」
「架けてから、五年」
五年。石の橋だ。千年立っている砦がある街で、石の橋が、五年で傾いた。
束を戻して、灯りを下げた。一件では、何も言えない。
傾いた橋は、たまたま傾いたのかもしれない。どこかの街の、どこかの職人が、下手だっただけかもしれない。だとしたら、それきりだ。
「もう一件、同じのが出てくると思うか」
「さあ」
リーゼは束の埃を払っていた。
「出てきたら、面白いですわね」
面白い、と彼女は言った。
俺は面白いとは思っていなかった。紙の白いところが、まだ目の裏に残っていた。




