第十話「渇き年」
橋の工事が始まってから、帳場に届く書付が目に見えて増えた。
石材の出荷、荷車の手配、人足の賃金、縄や木材の買い付け。
父とハインは朝から現場と屋敷を行き来し、昼まで戻らない日も珍しくない。
そのぶん、俺にも仕事が回ってきた。
数を写し、届いた書付を日付ごとに分け、穴を開けて紐で綴じる。
手習いは続いている。ただ最近は、習っているのか手伝わされているのか、その境目が怪しくなっていた。
毎朝決まって届く紙も、その一つだった。
川岸に立てた水位標の数字と、前日に降った雨の量。
それを年ごとの帳面へ書き写す。
今日も昨日も、似たような数字が並んでいる。
半ば惰性で筆を動かしていると、通りかかったハインが足を止めた。
「若旦那様、そこの記載が違っております」
指されたところを見ると、一段上の数字をそのまま写していた。
前世の仕事で表計算ソフトに慣れ切っていた俺にとって、この手の作業はなかなかにつらい。
以前ならショートカットキーとドラッグで済んだことを、今では羽ペンへインクをつけ、和紙に似た繊維の粗い紙へ一つずつ書き写さなければならない。
「お気をつけください。その数字で、明日の積み荷が変わります」
「積み荷?」
「艜ですよ。水が浅ければ、それだけ積む石を減らさねばなりません」
艜は、川運に使う平底船だ。
ラウテルの周辺には大小の川が多く、街道だけでなく水路にも荷が流れている。
「減らしたぶんは次の便ですか」
「ええ。船の数が増えれば、運び賃も増えます」
書き直した数字へ目を戻す。
「今年は、去年よりずっと低くないですか」
「低いですな。今年は渇き年ですから」
「渇き年?」
「水の少ない年を、そう呼びます」
統合歴一四七四年。
この世界で初めて迎える夏は、どうやら水の少ない年に当たったらしい。
そこでハインが、ふとこちらを見た。
「しかし、よく去年の水位をご存じですね。去年の帳面なら、もう地下へしまってあるはずですが」
「熱のせいです」
「なるほど。熱のせいですか」
口元をわずかに緩め、それ以上は追及しなかった。
ちょうど別の机から声がかかり、ハインはそちらへ歩いていく。
危なかった。
しかし、最後のあの笑い方は何だったのだろう。
もしかすると、最近の俺は「熱」に頼りすぎているかもしれない。
◇
その晩も、リーゼと資料室へ入った。
冬のころは、扉を開けるたびに何か面白いものが出てくる気がしていた。
実際に並んでいるのは、請求書や証文、誰かが誰かへ送りつけた苦情ばかりだ。
春に見つけた橋の記録も、その一つだった。
統合歴一四四二年に架けられた石橋。
五年後に橋脚が傾き、修繕の費えを巡って依頼主と施工側が揉めている。
あれから暇を見つけては、似た記録を探していた。
橋、修繕、傾き、ひび、崩れ。
読める字を拾い、古い書体に当たればリーゼへ渡す。
同じような記録は、さらに二件見つかった。
一件は統合歴一四一一年。
もう一件は一三八〇年。
どちらも別の街で架けられた石橋で、完成から数年後に橋脚が傾いている。
「水位の帳面を見たい」
「何年のものです?」
「一四四二年。一四一一年。それと一三八〇年」
リーゼは頷き、奥の棚へ向かった。
水位の記録だけで、棚二つをほとんど埋めている。
一年につき一冊。いちばん古いものは、四百年近く前のものだった。
初めてそれを知ったときは驚いたが、よく見れば水位だけではない。
石の仕入れも、人足の賃金も、工事の記録も、似たような年月ぶん残されている。
この家は、ずいぶん昔から紙を捨てない。
しばらくして、リーゼが三冊を抱えて戻ってきた。
「まず一四四二年から頼む」
「何をお探しで?」
「欄外だ。何か書いてないか」
リーゼは指先の光を近づけ、頁をめくった。
「……渇き年、とあります」
「次は?」
一四一一年。
「こちらもです」
一三八〇年。
リーゼは少し長く頁を追ったあと、同じところで指を止めた。
「こちらにもございます」
三件ともだった。
俺は橋の年を書き留めた紙を引き寄せる。
一四四二年。
一四一一年。
一三八〇年。
「三十一年ずつか」
「何がです?」
「橋を架けた年だ。どれも渇き年で、その間が三十一年ある」
偶然かもしれない。
だが、ここには四百年ぶんある。
「一三五〇年より少し前を見たい」
「どの年でしょう」
「まだ分からない。渇き年を探してくれ」
それからは橋の記録を探すのをやめ、水位帳だけを開いた。
一三四八年。渇き年。
一三一七年。渇き年。
一二八五年にも、同じ記述がある。
さらに遡る。
二十九年。
三十二年。
三十年。
三十一年。
ぴたりとは揃わないものの、二十年で来ることはなく、四十年も空かない。
俺は見つけた年を、順番に紙へ書き写していった。
四百年ぶんを確かめ終えるころには、紙の上に十を超える年が並んでいた。
だいたい三十年に一度。
その間隔だけは、見間違えようがなかった。
「今年の帳面は?」
「今年のものなら、まだこちらへは下りてきませんよ」
言われてから気づいた。
今年の帳面なら、毎日俺が書いている。
◇
三日後、朝食を終えたところで父に呼び止められた。
「テオ」
「はい」
「今日はハインと現場へ行け」
父はパンをちぎりながら、それだけ言った。
「作業の様子をよく見ておけ」
「……はい」
理由を訊く前に、父はマーゴへ昼の荷について話し始めていた。
昼前、ハインと屋敷を出た。
リーゼも一緒だ。彼女がドナーの手綱を引き、俺はいつものように鞍の上に載せられている。
城壁を出ると、道は白く乾いていた。
雨が少ないせいか、春には泥だった轍が、そのまま硬く固まっている。
ドナーの蹄が地面を叩く音を聞きながら、しばらく街道を進んだ。
川を見たとき、最初に思ったのは、広い、だった。
流れる水は少ない。そのぶん、川床が広くむき出しになっている。
川の真ん中だけを、膝ほどの深さの水が流れていた。
両側には白く乾いた石と砂が広がり、荷車まで川へ下りている。
乾いた川床には、何十人もの人がいた。
二基の橋脚は、どちらも俺の背丈を軽く越えている。
その周りには太い木材が組まれ、アーチを支える支保工も形を作り始めていた。
春に紙の上で見た格子が、そのまま川の中に立っている。
大きい。図面では指二本ぶんほどだった線の中を、人が歩いていた。
石を運ぶ者。
縄を扱う者。
木材を削る者。
水を運ぶ者。
あちこちから声が飛び、そのたびに人や荷が動いていく。
ヨナスは片方の橋脚の根元にいた。
据えたばかりらしい石の前へしゃがみ、掌を面へ当てる。
そのまま少し滑らせてから、立ち上がった。
「右へ、指半分」
男が二人、石へ掛けた縄を引く。
俺には、動いたかどうかも分からなかった。
ヨナスはまたしゃがみ、同じところへ手を当てる。
「よし、止めろ」
今度は糸を張り、端から覗き込む。
反対へ回り、もう一度見る。
直す前も、直したあとも、俺には同じ石にしか見えない。
前世でも、こういう職人はいた。
定規を当てる前に、触っただけでずれを言い当てるような人間だ。
ただ、俺が知っていたのは、もっと年季の入った連中ばかりだった。
そんなことを考えていると、ヨナスがこちらに気づいた。
「若旦那! よく来られましたな」
「見せていただきます」
「どうぞ。ただ、その縄より内へは入らんでください」
地面に張られた縄を指す。
「分かりました」
リーゼが俺の横へ来ると、ヨナスは娘の顔を一度だけ見た。
「お前も下がってろ」
「はい」
リーゼは何も言わず、俺と一緒に縄の外へ下がった。
以前見かけた父親の顔とは、ずいぶん違う。
リーゼのほうは慣れているらしく、特に気にした様子もなかった。
俺は縄の外から橋脚を見上げる。
石の面は揃っている。
縦の線も曲がっていない。
積み方も、春に見た図面どおりだった。
少なくとも、俺の目で分かるような粗はない。
「ハインさん」
「はい」
少し離れたところで帳面を確認していたハインが顔を上げた。
「あの橋脚の下には、何があります?」
「下?」
「石の下です」
「川床ですな」
「そのまま置くのですか?」
「もちろん掘ります。底を出して、均してから据えます」
「どのくらい?」
ハインは少し考えた。
「場所によりますな。固いところが出るまで、としか」
「岩まで?」
「岩が出れば、そうするでしょうな」
それ以上は訊かなかった。
ハインも理由を尋ねず、帳面へ視線を戻す。
ちょうど荷を運んできた男に声をかけられ、そのまま仕事の話を始めた。
俺はもう一度、川を見る。
白く乾いた川床の真ん中を、細い水が流れている。
そのすぐ脇では、人が立ったまま石を積んでいた。
橋を架けるには、ずいぶん都合のいい年だった。
◇
帰りは本流の川原へ回った。
来た道は荷車が何度も往復したせいで、ところどころ轍が深くなっているらしい。
ドナーは足元の悪い道を嫌う、とリーゼが言った。
川沿いをしばらく進んだところで、大きな穴が見えた。
幅は荷車が二台ほど。深さは、人の背丈くらいある。
「なんだ、あれ」
「去年、砂を取った跡ですよ」
「砂?」
「収穫祭です」
そこで思い出した。ばん馬に橇を引かせた坂だ。
毎年、競技のために砂を敷き、祭りが終われば片づけると聞いた。
「あそこから取ったのか」
「全部ではありませんけれど。近いですから」
ドナーから降り、穴の縁まで歩いていく。
「坊ちゃま」
「見るだけだ」
「その台詞を言ったあと、本当に見るだけで終わったことがありましたか?」
覚えがなかったので答えなかった。
斜面になったところから底へ下りる。
靴の下で砂がさらさらと崩れた。
掘った跡が、そのまま壁になっている。
一番上には薄く土があり、その下に砂。
さらに下には拳ほどの丸い石が帯のように並び、その下にもまた砂が続いていた。
底まで下り、壁へ指を押し込んでみる。
砂がぱらぱらと落ちた。
「……岩じゃないな」
人の背丈ほど掘ってあるのに、まだ砂と石だ。
もちろん、ここは本流で、橋を架けているのは支流だ。
同じ地面が続いているとは限らない。
壁から丸い石を一つ抜き、手のひらで転がす。
角はすっかり取れ、表面も滑らかだった。
水に運ばれ、転がされてきた石だ。
さっき見た橋が頭に浮かぶ。
今は二本の橋脚の横を、細い水が流れているだけだ。
だが、雨が降れば、あの白く乾いた川床にも水が戻る。
そこに今度は、大きな石の柱が二本立っている。
前世で見た図が浮かんだ。
橋脚の根元だけ、川底が丸く抉れている。洗掘。
橋脚に当たった流れが、その周りの砂や石を持っていく。
橋そのものが丈夫でも、足元を削られれば傾く。
もし、あの橋の下もこんな地面だったら。
そこで、少し引っかかった。
ヨナスほどの職人が、それを知らないのだろうか。
橋脚には水を左右へ逃がす形が使われている。
川の流れが石を傷めることくらい、あの連中だって知っているはずだ。
だが、今日の現場で橋脚の下について訊いたとき、ハインが言ったのは「固いところまで掘る」だけだった。
水が戻ったあと、その周囲がどうなるのかという話は出なかった。
俺は手の中の石を眺めた。
橋を架けている川も、今年は人が歩けるほど水が少ない。
過去に壊れた三つの橋も、すべて渇き年に作られていた。
もしかすると、大きな石橋というのは、こういう年でなければ造れないのかもしれない。
水が少ないうちに川へ入り、基礎を掘って石を積む。
完成するころには水が戻る。
そのあと大雨が来て、橋脚の足元が削られる。
次に同じような渇き年が来るのは、およそ三十年後だ。
三十年。
今の棟梁が引退し、若手が棟梁になるには十分な時間だ。
橋が傾いても、その橋を架けた人間が現場に残っているとは限らない。
足元が削られたとしても、水が引いたころにはまた砂や石が流れ込んでいるかもしれない。
川に削られた。地盤が悪かった。基礎が沈んだ。
そうやって一件ずつ別の事故として片づけられていたら。
「……いや」
考えすぎか。ここは橋のある支流ですらない。
三件の橋が、本当に同じ理由で傾いたという証拠もない。
それでも、妙に気になった。
「坊ちゃま? どうかなさいました?」
丸い石を元の場所へ戻す。
「もう少し見てから戻る」
◇
その晩、机に紙を広げた。
最初に、
『橋の工事を止めてください』
と書いた。
読み返して、線を引く。いきなり止めろと言っても、理由が足りない。
新しい紙を出し、今度は分かっていることだけを書いた。
完成から数年で橋脚が傾いた橋の記録を、三件見つけたこと。
その三件が、どれも渇き年に架けられていたこと。
水位の帳面を遡ると、渇き年はおよそ三十年ごとに繰り返していた。
そして今年も、その時期に当たる。
さらに、本流の砂採り場では、人の背丈ほど掘っても岩が出ず、砂と丸石の層が続いていた。
橋を架けている支流も同じ地面だとは限らない。
それでも、水が戻ったときに橋脚の周りが削られる可能性はないのか。
基礎の周囲だけでも、もう一度確かめてほしい。
そこまで書いてから、もう一枚紙を出した。
三件の橋が架けられた年と、破損が記録された年。
その横に、それぞれの年の水位帳から拾った数字を書き並べる。
さらに四百年ぶんの帳面から見つけた渇き年を、古いものから順番に書き写した。
文章だけより、こっちのほうが分かりやすい。
手紙とメモを重ねて読み返す。
内容より先に、字が気になった。
一年前よりはずいぶんましになったが、まだ丸い。大人の書付へ混ぜれば、一枚だけ明らかに浮くだろう。
これでは、最後まで読む前に子供の手紙だと分かる。
翌朝、リーゼに二枚まとめて渡した。
「これを写してくれ」
「……二枚もございますけれど」
「両方だ」
「また何か始めるおつもりで?」
そう言いながら受け取る。
最初はいつもの調子で読んでいたが、三件目の橋へ差しかかったあたりで目の動きが遅くなった。
続けて、年と数字ばかりのメモへ目を通す。
「……坊ちゃま」
「なんだ」
「こちらは、どなたへ?」
「父上」
「旦那様へ」
リーゼはもう一度、二枚の紙へ目を落とした。
「お名前は?」
「書かない」
「なぜです?」
「俺の名前があったら、信用されないかもだろ」
十一歳の息子が石座の仕事へ口を出している。
それだけで、書類の信用性に色眼鏡が付くかもしれない。
リーゼはしばらく紙を持ったままだった。
「……そんなことは……」
「何が?」
「なんでもありません」
机へ座り、新しい紙を二枚取る。
手紙のほうは、俺の文章をそのまま写すのではなく、ときどき言葉を変えていた。
もう一枚には、俺が拾った年と数字を見やすいように並べ直していく。
出来上がったものは、同じ内容なのに俺のものよりずっと書付らしい。
悔しいが、任せて正解だった。
「できました」
差し出された二枚を受け取り、数字をもう一度確かめる。
間違いはない。
「これは一緒にしておいてくれ」
「承知しました」
リーゼは手紙の後ろへメモを重ねた。
「どうやって渡す?」
「帳場に、旦那様へお見せする書付を置く箱があります」
「そこへ入れられるか?」
「できます」
即答だった。
「俺が入れるのは?」
「おやめください。坊ちゃまは紙の揃え方が下手ですので」
「そんなところで分かるのか」
「分かります」
妙に自信ありげに言う。
帳場には、父の判断を仰ぐ書付をまとめておく浅い木箱がある。
値段を決めるもの、支払いの許しを求めるもの、父でなければ返事のできないもの。
帳場の者がそこへ入れておくと、父が何枚かまとめて書斎へ持っていく。
リーゼなら、そこへ二枚ほど紛れ込ませるくらい難しくないらしい。
翌朝、俺は自分の机で帳面を開きながら、その箱を気にしていた。
しばらくして父が帳場へ入ってくる。
ハインと言葉を二、三交わし、いつものように木箱から書付を何枚か取った。
そのまま書斎へ向かう。
歩きながら一枚目に目を通し、後ろへ回す。二枚目も同じだった。
次の紙をめくったところで、父の足が止まった。
俺は反射的に帳面へ目を落とした。
少し待ってから、顔を上げる。
父はまだ同じ場所に立っていた。
手紙を顔の前まで上げ、最初から読み直している。
最後まで読むと、今度は後ろに重ねてあったメモを抜き出した。
父の目が、上から下へゆっくり動く。
途中で一度、手紙へ戻る。
それからまた、数字の並んだ紙を見る。
俺のほうを見ることはなかった。
何も言わず、二枚をほかの書付と重ねる。
そのまま書斎へ入り、扉を閉めた。
◇
それから四日、父からは何も言われなかった。
橋の工事も続いている。
朝になれば石を積んだ荷車が屋敷を出て、夕方には現場から書付が届く。
俺の机にも、いつも通り水位の数字が回ってきた。
手紙を読んだことは間違いない。あのメモも見ていた。
それでも、何も変わらなかった。
やはり、あの程度の根拠では足りなかったのか。
それとも、俺の考えが見当違いだったのか。
もう一度、資料室を探したほうがいいかもしれない。
橋そのものの記録がなくても、修繕や石材の出荷を辿れば何か……
「若旦那様」
顔を上げると、ハインが机の前に立っていた。
「はい」
「旦那様がお呼びです」
「父上が?」
「書斎へ来るように、と」
手にしていた羽ペンを置く。
「……今ですか」
「今です」
ハインの顔からは、何も読み取れなかった。
椅子を降り、帳場の奥を見る。
閉じた書斎の扉を見た瞬間、前世で突然、人事部から「ちょっと話があります」と呼び出されたときのことを思い出した。
大抵、ろくな話ではなかった。




