第八話「三枚のクッキー」
心臓が、一度だけ大きく脈打った。
振り返ると、扉を背にしてリーゼが寄りかかるように立っていた。
指先には、俺のものと同じ大きさで、少しだけ明るい光が浮かんでいる。
「……いつからだ」
「坊ちゃまが、鍵穴にお顔をつけていたあたりから」
最初からだった。
つまりこの娘は、俺が半刻ものあいだ扉へ頬を押しつけ、うんうんと唸りながら錠をいじっているところを、階段の上から見ていたことになる。
前世より一回り小さくなった脳みそをフル回転させ、それらしい言い訳を探す。
だが、混乱した頭では何も浮かばなかった。
まずい。非常にまずい。
リーゼには、魔法が使えること自体はすでに知られている。
問題は、その魔法で立入禁止の錠を開けたところまで見られたことだった。
むち打ち、股裂き、石抱き、磔、火炙り。
神殿にまで話が回り、異端と見なされたら、子供といえど何をされるか分かったものではない。
リーゼは隙間から身体を滑り込ませ、後ろ手に扉を押した。
重い鉄扉が、大きな音も立てずに閉じられる。
「鍵は、ハインさんがお持ちのはずですけれど」
「……開いて、ました、です」
「まあ」
どうやって開けたのかとは訊かれなかった。
「旦那様に知れたら、坊ちゃまといえど、ただ叱られるだけでは済まないでしょう。半年ほどの謹慎、といったところでしょうか」
よかった。火炙りも石抱きもないらしい。
とはいえ、半年も地下室へ下りられないのは困る。
せっかく見つけた手がかりを、扉の向こうへ置いたまま取り上げられるなど、むち打ちの次くらいに嫌だった。
「黙っててくれ」
「なぜです」
「頼む」
「何をくださいます?」
「……何がいる」
「そうですね」
考える顔をしていたが、答えは最初から決まっていたらしい。
「クッキーでは買収されませんわ。三枚からなら考えますが」
クッキー三枚。
収穫祭でもらった三枚のうち、一枚はその日に食べてしまった。
残りは台所の棚に二枚ある。何枚残っているかは、屋敷の全員が知っていた。
誤魔化せる数ではない。つまり、払えない額を吹っかけられている。
値切るという考えは浮かばなかった。
昔から、払えない額を出されたとき、俺は額を下げようとはしなかった。
期限を延ばすか、支払いを分けるか。そのどちらかで通してきた。
「今日中に、二枚渡す」
「二枚では足りません」
「残りの一枚は、年明けの祭りに払う」
リーゼは黙った。
「例年どおりなら、マーゴがまた焼くだろう。俺の取り分から渡す」
「……年明けまで、待てと」
「待たせるぶんは上乗せする」
「上乗せですか」
「二枚だ」
リーゼは腕を組み、考えるしぐさをした。
「……坊ちゃま」
「なんだ」
「今、いくつと仰いました」
「今日二枚。年明けに一枚。上乗せが二枚」
指を折って数える。
「締めて五枚だ」
指先の動きに合わせて光が少し下がり、照らされていた棚が暗くなる。
明るいのは二人の足元だけになり、リーゼの顔は闇に溶けて表情が読めなくなった。
「……三枚と申し上げたのですが」
「三枚じゃ足りないだろ。二枚しか手元にないのに、年明けまで待たせるんだ」
リーゼは小さく息を吐き、顔が見える位置まで光を上げ直した。
「……承知しました」
「証文を作ります」
「証文?」
「口だけの約束では、契約とは申しません」
十五の娘が言う台詞ではない。
彼女は腰に下げていた手拭いを取り出し、端へ歯を立て、まっすぐ縦に裂いた。
二枚の布を机の上へ広げ、裂いた縁を元の形へ戻すように、ぴたりと合わせる。
「インクと羽ペンを。そちらの机の脇にあります」
用具を受け取ると、リーゼは二枚の布へ跨がるように三行書いた。
一行目に、クッキー五枚。
二行目に、うち二枚を本日、残る三枚を年明けの祭りまでに支払うこと。
三行目に、資料室への侵入を口外しないこと。
「年明けの祭りまで、と書きました」
「日付は」
「祭りが日付です。年明けの日は、年によって前後しますから」
「坊ちゃまも、お書きください」
「何をだ?」
「お名前を。割符の形にしますので、二枚の境目へ記してください」
羽ペンを受け取り、合わせた布の上へ自分の名前を書いた。
字は丸く、大きかった。お世辞にも達筆とは言えない。
この手はまだ十歳のもので、俺の書きたい形には動いてくれなかった。
俺に続いてリーゼも名を記し、証文の片割れを渡してくる。
二人の名前は裂け目を跨いでいた。合わせなければ、どちらも読めない。
「これで契約は成立です」
リーゼはもう片方を懐へしまうと、部屋全体へ光が行き渡る高さまで指先を上げた。
「では、坊ちゃま」
「何をお探しですか?」
◇
棚は天井まで続き、紙の束が奥行きいっぱいに詰まっていた。
背に題のついたものもあれば、紐で括っただけのものもある。
端から順に見ていく。
手近な束へ伸ばした俺の手を、リーゼが先に押さえた。
「そちらは証文です」
「読んでは駄目なのか」
「触りません。触ったら、本当に泥棒ですから」
「今も似たようなものだろ」
「違います。罪の重さは、法によって決められています」
リーゼは手を離さないまま続けた。
「証文を盗めば、軽くてむち打ち。重ければ、両手の指をすべて落とされます」
「坊ちゃまは叱責で済むかもしれませんが、わたくしは問答無用で詰め所へ突き出されるでしょうね」
「そんなにか。なら、なんで協力してくれたんだ?」
「……マーゴさんのクッキーには、それだけの価値がありますから」
意外と食い意地が張っている。
材料が揃えば、いつか前世の菓子を作って渡そう。もちろん、貸しにはする。
証文の棚を避け、反対側を調べた。
業者への発注書。どの現場に、どこの誰が、いくらの賃金で入ったか。
報告書。買い手とどのような約束を交わし、どう仕事を終えたか。
石の納品控え、破損の報告、建物の修繕記録。
隣の棚には、古い証文、担保の証書、顧客からの訴えの記録まで並んでいた。
そちらは見なかったことにした。
手当たり次第に書類の束を開き、資料らしい本の背を確かめる。
だが、小説に出てくるような魔導書も、魔術の仕組みを説明した本も見つからなかった。
一冊だけ、題の読める古い帳面があった。
背には『十力の支払目安』と記されている。
開いてみると、中は鏡へ映したような筆記体で埋まっていた。リーゼも首を横に振ったため、そのまま棚へ戻した。
「がっかりなさいましたか」
「……少し」
「わたくしは、面白いと思いますけれど」
リーゼは紐で括られた束を一つ引き出し、光を近づけていた。
埃を払う手つきが丁寧だった。本や書付に触れ慣れた人間の手つきだ。
「ヴァルデン家は、この国でも名のある商家です。けれど、石屋であることに変わりはありません」
「坊ちゃまがおっしゃるような、十力の使い方や歴史を扱った本をわざわざ買いつけなくとも、必要なときに専門の術者へ頼めば済みますから」
分かっていた。分かってはいたが、落胆は隠せなかった。
独学に限界があるとしても、十力の儀を受ける前に、できるだけ予習をしておきたかった。
今度の人生では、使える時間を使わないまま捨てたくなかった。
ここにある資料から、魔法の仕組みまでは分からない。
それでも、どのような場面で使われているかくらいは拾えるかもしれない。
そこで、一つ思いついた。
「工事に十力を使うことはあるのか?」
「ありますよ」
「どんな作業に使われるか、分かるか?」
「さあ。報告書や工事の計画書には、書いてあるかもしれませんが」
「それだ」
工事に関する記録を集めるようリーゼへ頼み、俺は読むことに徹した。
しばらくして、それらしい記述を見つけた。
『街道補修工事。作業員二十名、うち第六力三名。日給、銅貨六枚』
『第六力の術者一名を、石畳の荷下ろしに配置。石畳一枚の重量は、およそ四百キログラム』
「……待て。キログラム?」
「ええ。ここに書いてあるではないですか」
リーゼの指した場所は、確かに俺が読んだ行と重なっていた。
読み間違えているわけではない。
「ちなみに、一キログラムは、水にするとどのくらいだ?」
「一リットルの升へ、なみなみ注いで一杯ぶんです」
「もしかして、メートルにも聞き覚えが?」
「ありますよ。長さの単位でしょう?」
リーゼは、何を今さらという顔をした。
「この間の収穫祭で演じられていた狂王が、まだ賢王と呼ばれていた時代に、自ら定めて周辺国へ広めたそうです」
なんということだ。
前世の国際単位系、そのままだった。
おそらく狂王も、転生か転移によってこの世界へ来た人間だったのだろう。
俺は、女神の仕事ぶりに初めて感激した。
ヤード・ポンド法ではなく国際単位系を採用する人物を選んだ。その一点だけで、神として崇めてもいい気がした。
単位が同じなら、十力がどの程度のものかも推測できる。
この記録から確実に分かるのは、第六力の術者一人を加えれば、四百キログラム級の石材を荷下ろしできるということだ。
術者だけで浮かせたのか、人足や橇と組み合わせたのかまでは書かれていない。
それでも、力の大きさを測る目安にはなる。
大きな進展だった。計画書や報告書を読めば、ほかにも多くの事例を拾える。
「工事へ十力を使う話がお知りになりたいなら、こちらはいかがでしょう」
リーゼが、新旧入り混じった紙束を差し出した。
「この街にいる術者の台帳です。仕事を頼むための名簿のようなものですね」
個人情報保護法のない世界らしく、遠慮のない項目が並んでいた。
名前、生まれ年、十力の儀での判定、得意な作業。
重いものを浮かせるのが得意な者。火を起こすのが得意な者。水をせき止めるのが得意な者。
鉄が溶けるほど物を熱する者。硬い岩盤の掘削を得意とする者。
台帳の末尾には、術者を雇う際の日当表があった。
第一力から第十力まで、十の欄が縦に並び、その横に仕事の内容と一日あたりの賃金が記されている。
隣に積まれた古い台帳にも、同じ十の欄があった。
そこに書かれた内容は、俺にとって魔導書に等しかった。
◇
資料室を出たその日のうちに、台所の棚に残っていた二枚のクッキーをリーゼへ渡した。
それから、冬が終わるまで資料室へ通った。
昼食のあと、屋敷がいちばん静かになる時間がある。
父は寄合か現場へ出ている。ハインは帳場から動けず、マーゴは物見台か厨房の奥にいる。
使えるのは、半刻ほどだった。
最初は半刻かかった錠も、二度目にはその半分で開いた。
何度か繰り返すうちに、百を数え終える前には掛け金を外せるようになった。
出るときは、開けたときと逆の順に板を戻す。扉を引いて動かないことを確かめてから、地下室を離れた。
資料室へ入るたび、リーゼは同じ一言から始めた。
「タァヴ・マァン」
何度聞いても、意味は取れなかった。俺の光は、何も言わなくても出る。
灯りはリーゼに任せた。
俺の光より少し明るく、読んでいる行に合わせて位置を動かしてくれる。
おかげで俺は、両手で紙を扱えた。
触れるのは、証文棚の反対側だけだった。
資料のかなりの部分は、ハインに見せられた古い書体で書かれている。
諦めて置いた紙を、リーゼが拾った。
「これは、川の名前ですね」
「読めるのか」
「これでも棟梁の娘ですわ」
図面と書付は、幼い頃から見てきたのだという。
古い資料も読めなければ、現場では困るらしい。
棟梁の娘なら、職人のあいだで伝わる話にも詳しいかもしれない。
そこで、前世で耳にした噂を思い出した。
現場の年寄りか、酒の席か、ネットで見たものだったかもしれない。
「なあ。モルタルに卵を混ぜると、強くなるというのは本当なのか?」
リーゼの手が止まり、ものすごい勢いで振り返った。
「なんですかそれ?! 卵は高級品ですよ?!」
「いや、どこかで聞いたような気がして」
「壁に卵を塗るんですか?! 塗るんですか?!」
「塗るというか、混ぜるらしいと……」
「坊ちゃま、やっぱり高熱で頭が……およよ……」
袖で顔を覆いながら、指の隙間からこちらを見ている。
少なくとも、この街の職人にはない話らしい。
棟梁の娘へ職人の知恵を訊いたつもりが、こちらには存在しない迷信を披露してしまった。
病のせいだとは、何度も言われてきた。
冗談として返されたのは、これが初めてだった。
ハインもマーゴも、病の話には触れない。
リーゼだけが平然と笑いものにする。
その雑さが、かえってありがたかった。
◇
古い図面まで難なく読みこなすリーゼを見ていて、ふと疑問が浮かんだ。
俺は、彼女がなぜこの屋敷で働いているのかを知らなかった。
棟梁は、前世でいう現場監督と管理職を合わせたような立場だ。
リーゼの父ヨナスは働き盛りで、暮らしに困っている様子もない。
「なぜ、ここで使用人をすることになったんだ?」
リーゼは、俺が読み終えた書類を元の棚へ戻しながら、淡々と話し始めた。
「わたくしがここへ雇われたのは、三年前です。儀を終えて、すぐのことでした。わたくしは第一力でしたから」
「儀の前までは、いずれ父の跡を継ぐことになっていました。それが、その日のうちになくなりました。跡を継いでも、誰も使ってくれませんから」
「石座の仕事は、職人を貸し借りして回します。第一力の棟梁のもとへは、誰も人を出したがりません」
「『豪商ヴァルデン家で行儀見習いを務めた娘』という経歴があれば、使用人として箔がつきます」
何も言えずにいると、リーゼはクスクスと意地悪そうに笑った。
「悪い話ではありません。ここは居心地がいいですし、皆さんも優しくしてくださいます」
「……そうか」
「坊ちゃまがそんなお顔をなさるほうが、妙なのです」
本当に不思議そうだった。
◇
その晩、資料室で見た日当表を思い返した。
第一力や第六力という言葉は、使える魔法の種類を示すものではなかった。
十力とは、術者の力を第一から第十までに分けた、十段階の等級だった。
女神が言ったのは「十の位」だ。火や水に分かれた十種類の力がある、とは言っていない。
そこまで勝手に条件を足し、あれこれ考察したのは俺のほうだった。
とはいえ、俺は光も水も出せて、物も動かせる。
なら、少なくとも下のほうではないだろう。
本人の意向や努力にかかわらず、一度の判定が、その後の一生まで決めてしまう。
十力の才とは、そういうものらしかった。
◇
冬が明けると、この国では年も明ける。
統合歴一四七四年。俺がこの世界で迎える、初めての年明けだった。
春が来ると、屋敷が急に騒がしくなり始めた。
石の門が開き、荷車が入る。
地下室の階段にも、外套を着た男たちの足音が戻ってきた。
冬のあいだ誰も用のなかった地下室へ、見本を確かめる客が下り、灯りがいくつも点く。
人が下りてくれば、資料室へ入るところを見られるかもしれない。
困った。まだ調べたいことは山ほどあるのだが。
年明けの祭りの日、マーゴが菓子を焼いた。
厨房から甘い匂いが流れ、屋敷じゅうに充満していた。
俺の取り分は、三枚だった。
棚へ置かれる前に皿ごと持ち出し、白い布巾をかけて自分の部屋へ運んだ。
いつか同じものを、同じ運び方で持ってきてもらったことを思い出す。
部屋の前では、リーゼが先に待っていた。
「約束の三枚だ」
皿を差し出すと、リーゼは二枚だけ取った。
クッキーをきれいにハンカチへ包み、前掛けの下へ入れる。
「いいえ。今日は二枚で十分です」
二枚しか取らない理由が分からなかった。
「年明けに一枚。上乗せが二枚。合わせて三枚の約束だっただろう?」
「最初に二枚。今日、二枚。三枚で売った秘密ですから、わたくしはもう一枚ぶん儲けています」
「では、残りの一枚は」
「ひとまず、次の収穫祭までお預けしておきます」
リーゼは片手を俺の前へ出し、折った小指だけを何度か動かしてみせた。
「これから菓子が手に入るたびに、わたくしへ一枚ください。期限は決めません」
「決めないのか」
「一枚くださるたび、次の祭りまで契約を更新したものとします」
「そのかわり、坊ちゃまが必要だとお考えになる、お屋敷の中での段取りはすべて引き受けます」
「マーゴがいつ物見台へ上がるか。ハインさんがいつ帳場を離れるか。旦那様の寄合がいつあるか」
「継続契約、ということだな」
「そういうことです」
屋敷の人間が、いつ、どこにいるのか。
使用人だけあって、リーゼはすべて知っているのだろう。断る理由はなかった。
「分かった」
「では、割符をお持ちください」
「まだ書くのか」
「口だけの約束では、契約とは申しませんので」
机の引き出しから、冬に受け取った証文の片割れを出した。
リーゼも自分の一枚を取り出し、裂け目を合わせる。
古い約束の下へ、これまでに四枚を受け取り、残る一枚は預けたままとすること。
菓子を一枚受け取るたびに次の祭りまで契約を更新し、その間、屋敷の中で必要になる段取りをリーゼが引き受けること。
二行を書き足すと、彼女は境目へ名を記した。
俺も、その隣へ丸い字を書き添える。
「これで契約は成立です」
二枚の布を再び分け、それぞれの手元へ戻した。
春になれば終わるはずだったものが、終わらないことになった。
商家の息子として、良い取引相手との縁は大切にするべきだろう。
俺はそう考えながら、彼女と固く握手を交わした。
「これからも共犯者として、よろしく頼む。リーゼ」
「こちらこそ。今後ともよろしくお願いいたします、テオドール坊ちゃま」




