第六話「想像した通りに」
雪が降った。
朝、板戸を開けると、中庭が白くなっていた。
物見台では、マーゴが洗い物を抱えたまま立ち尽くしている。
早すぎる、とリーゼは言った。この時期に積もるのは何年かに一度で、たいてい昼には消えてしまうらしい。
小さな窓から見える外は、縦長に切り取られている。
その狭い景色の中に、黒い塊が立っていた。中庭の馬、ドナーだった。
厩へ入れないのかと訊くと、リーゼは妙な顔をした。
冬毛が厚いので、この程度の雪なら風のない外を好むのだという。
ドナーは動かなかった。ときどき背中から湯気だけが上がる。
雪が降っていることに、まだ気づいていないようにも見えた。
屋敷の中は、朝から慌ただしい。
収穫祭まで、あと三日。厨房ではマーゴが粉と砂糖の勘定をしている。
リーゼも階段を何度も往復し、そのたびに違うものを抱えていた。
雪を珍しがっているのは、この家では俺だけらしい。
「降っても降らなくても、祭りは祭りですから」
リーゼは籠を抱え直し、そのまま行ってしまった。
◇◇◇
読み書きと算盤を習い始めたのも、その日からだった。
雪で午前の荷が止まり、珍しくハインの手が空いたらしい。
ひと月待っても何一つ思い出さない俺を見て、とうとう一から教えることにしたようだ。
文字は、思っていたより早く身についた。
当然といえば当然だ。
前の人生では、十年以上も文字を読んで暮らしていた。
覚え直すのは形と並べ方の決まりだけで、読むという行為そのものは、もう頭に入っている。
算盤も似たようなものだった。数の扱い方は分かっている。珠をどこへ動かせばいいのか、それさえ覚えれば済んだ。
「……若旦那様。前は、こうではありませんでしたな」
「熱を出しましたから」
「なるほど。熱で頭が冴えることもあるのですな」
ハインは頷いた。納得したというより、そういうことに決めたように見えた。
俺も曖昧に頷いておく。病のせいにすれば、たいていのことは通った。便利だった。
熱が下がったばかりの頃には、その便利さを少し気味悪く思ったはずなのに、ひと月も経てば、この魔法の呪文を使うのに慣れ切っていた。
◇◇◇
その日の夕方、リーゼが地階へ下りるというので、ついていった。
祭りまでは客の出入りが多く、産地ごとの石見本を上へ運ぶ必要があるらしい。
地下室にはもちろん窓はない。階段を三段も下りると、足元さえ見えなくなった。
リーゼが立ち止まり、短い言葉を一つ口にした。
「タァヴ・マァン」
音は聞き取れたが、文としての意味は分からない。
次の瞬間、指先に光がともった。小さい。蝋燭の炎ほどの明るさもない。
しかし、暗闇に慣れた目と組み合わせれば、地下室を照らすのには十分だ。
リーゼはその小さな光を器用に使う。棚へ寄るときは低くし、通路を歩くときは肩の高さへ上げる。
箱書きを読むときは手首を返し、影が文字へかからない位置に置いた。
「それ、魔法か」
「……魔法。まあ、そう言う人もおりますけれど」
「みんな使えるのか」
「儀で力があると分かった人なら。わたくしは第一力ですから、これだけです」
これだけ、とリーゼは言った。悲しそうでも、悔しそうでもない。
鍬は土を掘る道具です、とでも言うような口調だった。
魔法だ。
女神が与えると言ったものと、同じ力のはずだった。
それが今、窓のない地下室で箱を探すために使われている。
この世界へ来てからひと月あまり、俺は一度も魔法を試していなかった。
子供が勝手に使えば、何をされるか分からないと思っていた。うっかり火炙りにされたくはなかった。
だが、使用人の娘が荷物探しに使っている。
少なくとも、使っただけで捕まるものではないらしい。
さっそく俺は指を伸ばし、光れ、と念じる。
何も起きなかった。
もう一度、今度は強く念じてみる。やはり何も起きない。
――具体的に。
白い部屋で、女神はそう言っていた。
望む結果を具体的に思い描いてください。それだけで足ります。
あのときは聞き流した一語だった。
目を閉じる。指先から、指一本ぶん上。大きさは豆粒ほど。
明るさは、リーゼのものと同じくらい。動かずに留まる。
目を開けると、指先の少し上あたりが光っていた。
注文どおりの光の点が目の前に浮いている。
リーゼが振り返り、目を丸くしたが、驚いていたのは一拍程度だった。
「……坊ちゃまでも、光くらい出ますわね」
「驚かないのか」
「驚きましたよ。けれど、儀の前の子が見よう見まねで一度だけ出すことも、ごくまれにあるそうですから」
俺の指先を見て、自分の光を見て、それで終わりだった。
笑いそうになるのをこらえる。
出た。
思い描いた通りのものが、本当に出た。
ひと月あまりぶりに、あの白い部屋が現実だったのだと世界が認めてくれた気がした。
「なあ。さっき、何か言ってただろ」
「型です」
「型」
「教わったとおりに言わないと、うまく出ませんから。間違えると、出なかったり、変なところに出たりします」
「どこで教わるんだ」
「儀のあとです。等級が分かってからでないと、教えても無駄ですから」
俺は一瞬フリーズしたように固まった。
型は要らない、と女神は言っていた。
長い呪文も、決まった型も、あちらの魔法使いには必要ですが、あなたには必要ありません。
必要ありません、という言い方は、必要な人間がいるという意味だった。
その程度のことにも、あのときの俺は気づかなかった。
まずいかもしれない。何がどうまずいのかは分からない。分からないものは、とりあえず伏せておくに限る。
リーゼを見ると、もう箱を抱えて階段へ向かっていた。俺の指先については、とっくに終わった話になっている。
理由は分かっていた。
リーゼは、俺が型を見よう見まねで唱え、まぐれで出したと思っている。しかも、出た光は自分と同じ程度だった。
もし天井まで届くような光だったら、今頃は階段を駆け上がっていたかもしれない。
情けない話だが、助かった。
第一力というのは、一番目という意味だろう。
火や水や光が順番に並んでいて、その最初に当たるのかもしれない。
では、俺はいくつの力を使えるのか。今の流れで訊けば、さっきの光と結びつけられる。日を改めたほうがいい。
「坊ちゃま。行きますよ」
「ああ」
黙っておこうと決めた。口止めはしなかった。
する必要がなかった。俺だけが隠していて、リーゼは隠してすらいない。
子供の秘密にはそれで十分だろう。
◇◇◇
その晩の食卓は、いつもと変わらなかった。
父とハインは祭りの荷について話している。
雪は夜のうちに止むだろう。根雪になるのは祭りが済んでからだろうな、と父が言った。
話題は、凍結期に止まる現場と、春の注文をいつ受けるかへ移っていく。
父が俺に言ったのは二つだけだった。字を覚えているそうだな。それから、よく食え。
マーゴは俺の皿を見ていた。残せば何か言われる。残さなければ、何も言われない。
誰も地階のことを訊かなかった。当然だった。訊くほどのことだと思っているのは、俺だけなのだから。
うまくやれている。そう思った。
◇◇◇
部屋へ戻ると、寝台に座ってもう一度試した。
指先から、指一本ぶん上。豆粒。明るさは、さっきと同じ。
すぐに出た。手を離しても、そこに浮かんでいる。
息を吹きかけても揺れなかった。
指定した場所に、指定したものがある。
少し明るくと思えば明るくなり、少し下へと思えば下がった。
消えろ、と念じる。消えなかった。いや、消えた。思ってから、一拍遅れた。
もう一度やってみる。出すのは早い。考えた瞬間にともる。
消すときだけ、わずかにテンポが遅れている。
建て付けの悪い戸に似ている。押せば開くが、動き出す前に一度だけ抵抗がある。
慣れの問題だろう。初めて握った道具が、まだ指へ馴染んでいないだけだ。
女神は、想像した現象をそのまま実現する力だと言った。
たしかに実現している。文句のつけようはない。
ただし、豆粒だった。
考えてみれば、最初に「光れ」とだけ念じたときには何も出なかった。
大きさと位置と明るさを決めて、初めて出た。足りなかったのは力ではない。注文の細かさだ。
ならば、大きなものも同じだろう。大きさと場所を決め、もっと細かく注文すればいい。
その仮定が正しいかどうか、すぐ試したかったが、部屋で大きな光を出せば窓から見える。
試すなら、地下室しかない。
◇◇◇
収穫祭は一週間続いた。
初日の昼過ぎ、リーゼと街へ出ると、以前見た市場とはまるで違っていた。
通りの両側には布張りの屋台が並び、焼いた肉や香辛料、甘い菓子の匂いが混ざっている。
呼び込み、笑い声、値段をまけろと騒ぐ声。
普段は荷車が通る石畳を、人が埋め尽くしていた。
リーゼは俺の手首をつかんだ。手をつなぐというより、逃げる荷物を確保する持ち方だった。
「離れないでくださいね」
「子供じゃないんだから」
「子供です」
そうだった。
最初に食べたのは、串に刺した肉だ。
表面を炙っただけに見えたが、中まで火は通っている。脂が多く、塩と潰した香草が振ってあった。
歩きながら食べるのかと思えば、皆、屋台の脇に立ったまま食べている。俺もそれに倣った。
「坊ちゃま、口の横についています」
「分かってる」
「分かっている人は、そのままにしません」
布で拭かれた。中身が何歳だろうと、周囲から見れば十歳の子供だ。祭りの日くらいは、抵抗しても仕方がない。
次に買ったのは、神殿の男が話していた水飴だった。薄い木の棒に、透明な飴を巻きつけただけのものだ。
甘い。ただ甘い。それなのに、祭りの通りで食べると妙にうまかった。
◇◇◇
広場には、木組みの舞台が作られていた。舞台の裏と両袖には、芝居をしない人間が何人も控えている。
筒を抱えた者、浅い鉢を提げた者、目を閉じて口だけを動かしている者。その手前には、太鼓と笛、それに二人の弦楽器奏者からなる楽隊がいた。
役者より、裏方のほうが多い。
袖のほうから、低い声がいくつも重なって流れてきた。
「アァヴ・パフシュ・マァン」
最初の一音と同時に、舞台の床から霧が出た。白い霧は足首の高さで広がり、それより上へは来ない。
次に風が来た。役者の外套が後ろへ流れ、霧が舞台の奥へ掃けていく。
送風機だ、と思った。
もちろん、この世界にそんなものはない。
風が止むと、楽隊は二拍待ってから次の節へ入った。袖の男が口を動かすのと、太鼓の音がぴたりと重なる。
合っているのではない。合わせてあるのだ。
耳を澄ますと、いくつもの声が重なっていた。
それぞれが違う節を、違う高さで唱えている。それでも音は濁らず、大きなうねりのような心地よい音を奏でていた。
前の世界の教会で聞いた合唱に似ている。あるいは、名前も知らない土地の、幾重にも声を重ねる歌に。
詠唱なのに、音楽として成立していた。
リーゼの説明をまとめれば、型は決められた現象をきちんと出すためのものらしい。
きちんと出せるなら、いつ出すかも決められる。時機が決まれば、拍へ乗せられる。
この舞台は、そうして組まれているのだろう。
金を取れる劇だと思った。前の世界でチケットを買って入ったアリーナの舞台にも、勝るとも劣らない。
演目は、古い時代の王を描いたものだ。
王は幼い頃から聡明で、神童、神の使い、賢者と呼ばれていた。若くして王位を継いだあとも、正しい裁きと優れた知恵で国を治め、民から深く慕われたという。
だが、最愛の妻が病で亡くなると、王は妻を取り戻すため、禁じられた魔法へ手を出した。
やがて宮殿の奥へ閉じこもり、民から財産を取り上げ、兵士や罪人を実験に使うようになる。それでも妻は戻らなかった。
晩年には、人の断末魔を聞けばよく眠れると言い出し、夜の鐘が鳴るたび、民を一人ずつ生きたまま焼き殺した。
舞台の端で鐘が鳴った。兵士役の男たちが一人を磔にし、足元の薪に火をくべる。
絶叫が響く中、王役の男が大きな欠伸をした。
「今宵も、よく眠れそうだ」
客席の子供たちが息を呑む。
王は、もう賢王とは呼ばれなかった。人々は彼を狂王と呼んだ。
その蛮行を見かねた女神は、異なる世界から一人の勇者を召喚する。
勇者役の男は、見慣れない形の服を着ていた。異界人らしさを表した衣装なのだろうが、俺には少し派手な旅芸人か道化師にしか見えない。
女神役の女が、その前へ進み出る。
「異界より来たりし勇者よ。狂王を討ち、苦しむ民を救うのです」
そう告げると、女神は勇者へ光る剣を授けた。
「あなたに、真なる十力を授けましょう」
舞台の袖で、誰かが短く言った。
「タァヴ・マァン」
大仰な台詞とともに渡された剣には、柄から切っ先まで白い光が通っていた。
布を巻いたのでも、裏から松明を当てているのでもない。
地下室で俺の指先へ出たものと、同じ光だった。違うのは、大きさだけ。
勇者役の男が剣を掲げる。光は剣の形を保ったまま動いた。
揺れず、ぶれず、振り回しても刃からはみ出さない。一幕のあいだ、明るさも変わらなかった。
「なあ。あれ、どうやってるんだ」
「舞台の裏に、ちゃんとした術者を入れているんですよ」
リーゼは舞台を見たまま答えた。
「祭りですから。神殿からお呼びすることもあります」
ちゃんとした術者。つまり、習えばああなるということだ。
こちらは型が要らないと言われている。それなのに、型を習った人間より小さいというのは、どうにも道理に合わなかった。
勇者は十の力を操り、炎を消し、城壁を砕き、空を駆けた。
城壁が砕ける場面では、太鼓に合わせて数人の声が一つになった。
「アァタシュ・バァラァ・ラハァ」
人の背丈ほどの火柱が上がる。
一人で出せないものを、複数人で出しているのだ。
最後の戦いで、王は妻の姿をした影を呼び出した。勇者は一度だけ剣を下ろす。その隙に王が襲いかかり、客席から悲鳴が上がった。
だが、勇者は身を翻し、華麗にかわす。
「人を犠牲にして得た力に、救えるものなどない!」
剣が振り下ろされ、王は倒れた。
舞台に鐘の音が響く。国には平和が戻った。
めでたし、めでたし。
筋書きは単純だった。賢い王が狂い、異界から来た勇者に倒される。
話の先は、途中ですべて読めた。
それでも狂王が倒れると、子供たちは一斉に歓声を上げた。リーゼも笑っていた。
俺も笑った。ただ、「異界の勇者」という言葉だけは、しばらく頭から離れなかった。
◇◇◇
祭りの後半には、城壁の外でばん馬の競技が行われた。
この前まで作っていた坂には砂が敷かれ、両側を人垣が囲んでいる。橇には石が積まれ、馬が駆けるたび、土と砂が後ろへ飛んだ。
ドナーは出ない。もう競技を引退しているからだ。
それでも会場へ連れてこられ、柵の外から走る馬を眺めていた。通りかかる者が、次々に首を撫でていく。
「今年はどれが勝つんだ」
「さあ。父は赤毛の馬だと言っていました」
「じゃあ、それにするか」
「お金を賭けてはいけませんよ」
「分かってる」
子供は賭けに参加できないらしい。その代わり、大人たちは盛大に参加していた。
一頭の馬が坂の途中で止まると、人垣の向こうから悲鳴が上がる。
「畜生! あと三歩だったじゃねえか!」
「冬の酒代が!」
馬は気にする様子もなく、荒い鼻息と白い蒸気を上げていた。
次の馬が登り切ると、今度は別の場所から歓声と悲鳴が同時に上がる。
勝った馬より、負けた大人たちを眺めているほうが面白かった。
呆れ顔だったリーゼも、途中から声を上げて笑っていた。
祭りのあいだ、屋敷にも大勢の人が出入りした。
最後の日に帳が締まるので、職人も運送屋も一度は顔を出す。
父は奥からほとんど出てこず、ハインが表と奥を往復するたび、抱えていた書付の束が薄くなった。
街へ出ない日は、俺も屋敷を手伝わされた。紙を運び、数字を書き写し、来客へ水を出す。
一人になれる時間は、ほとんどなかった。
魔法を試すのは、祭りが済んでからだと決めた。
最後の日の夕方、マーゴが菓子を焼いた。
厨房の戸を開けると、甘い匂いが廊下まで流れ出し、台所には布巾をかけた盆が、いくつも並んでいる。
配る先は、毎年同じらしかった。
使用人に一枚ずつ。棟梁に一枚。
父と親しい職人にも一枚ずつ。
父は受け取らなかった。甘いものを口にしない人らしい。
俺の取り分は三枚だった。家の中で一番多い。
その場で一枚食べ、残りは台所の棚へ置かれた。
自室へ持っていくものではないらしい。この家では、俺の菓子まで家の勘定に入っている。
残りが何枚かは、たぶん屋敷の全員が知っている。
その晩、また雪が降った。
今度は、消えなかった。
朝になっても中庭は白いままで、ドナーの背中からは前と同じように湯気が上がっていた。
祭りが終わり、荷が止まった。客も来なくなった。
統合歴一四七三年の冬が、そこから始まった。
地下室には、誰も用がなくなる。
明日から試そう。
もう少し、大きいものを。




