第五話「満月祭」
外へ出てもよいと言われたのは、それからさらに三日後だった。
医者がもう一度やってきて、瞼を裏返し、脈を取り、腹を押した。
ひと通り診察を済ませると、「少しなら」と言い残して帰っていった。
昼を過ぎたころ、リーゼが着替えを抱えて部屋へ入ってきた。
「歩けますか、坊ちゃま」
「歩ける」
「では、運動がてら市場へ参りましょう。馬を用意しましたので、お乗りください」
歩けると答えたのに、乗れと言われた。この家の会話は、ときどき途中の工程を飛ばす。
着替えて中庭へ出る。石材を扱う家だけあって、足元まで隙間なく石が敷かれていた。
高い塀と分厚い門に囲まれ、何も知らずに見れば、商家より小さな砦に見える。
その中庭に、一頭の馬がいた。
黒い。そして、大きい。
帳場へ向かう途中にも何度か見ていたはずなのに、間近で見上げると寸法の感覚がまるで違った。
肩までの高さは、今の俺の背丈をゆうに越えている。脚は丸太のように太く、いちばん細い足首でさえ、俺の首より太そうだった。
冬毛が生えかけているのか、全身がふわりと毛羽立っている。
首筋へ触れると、厚い絨毯のような毛の奥から、ゆっくりとした脈が掌へ伝わってきた。
生き物というより、毛皮に包まれた炉でも撫でている気分になる。
馬がこちらを見た。
しばらく俺の顔を眺めたあと、口元をゆるめる。
へらへら笑われたように見えた。たぶん気のせいだ。気のせいであってほしい。
十歳の身体に入ったとはいえ、中身まで子供になったわけではない。
家畜に舐められているという事実は、なるべく認めたくなかった。
リーゼは肩から布袋を下げていた。袋の口から、俺の外套がのぞいている。
「それ、俺のだろ。持つよ」
「わたくしが持ちます」
「持てるって」
「わたくしは坊ちゃまより背が高いですから」
背の高さと荷物に、どんな関係があるのだろう。
訊く前に、リーゼは俺の脇へ手を入れ、荷物と同じ要領で鞍へ載せた。
持ち上げる側は、何の苦もなさそうだった。
それから馬の横へ回り、手綱を取る。
「落ちないでくださいね、坊ちゃま」
「……この馬、走るのか」
「走りません。荷運びに使う、ばん馬ですから」
出たのは人の門ではなく、荷車が通る広いほうの門だった。
あの巨体に、人用の門は狭すぎる。
新しい世界へ来て初めて屋敷の外へ出るのに、俺は荷物と同じ側から運び出された。
◇
屋敷は小高い丘の上にあり、馬は緩やかな坂を下りて街へと向かう。
急ぐ気などまるでない足取りで、手綱を引くリーゼも馬を急かそうとはしない。
馬上は思った以上に高い。道を歩く人の頭が、俺の膝のあたりに見えた。
街は暗い灰色をして見えた。前世の資料で見たゴシック建築とも似ているが、どちらかといえばスコットランドあたりの建物群に近い気がする。
建物も道も、似た色の石でできている。屋根はどれも急勾配で、暗い石板が葺かれ、煙突が何本も突き出していた。
石畳には荷車の轍が深い溝を作り、その溝の上を、また別の荷車が通っていく。
市場は、人と荷で埋まっていた。
収穫祭が近いのだと、リーゼが教えてくれた。
「税を納め終えた者から、祭りの支度を始めます」
「ハインから聞いた。農民や町の者は、祭りの前までだったな」
「ええ。大抵は金子で納めます。畑や現場の方は銅貨や鉄貨で。お屋敷は春に、銀貨でまとめて納めます」
「金貨は使わないのか」
「大きな商いがあった年には使うそうですが……一度、見てみたいものですわね。金貨」
最後だけ、声に妙な熱が入った。
帳場で聞いた話が、目の前の人出と金の動きにつながった。
同じ街に住んでいても、税を納める時期も、使う貨幣も違う。
店先の板にも文字が並んでいたが、ハインに見せられた紙と同じで、一文字も読めなかった。値札なのか、店の名なのかさえ分からない。
そのとき、後ろの店から男の声が聞こえた。
「前の満月祭の年に漬けたやつだ。あの年は、ここ最近で一番の出来だったからな」
満月祭。
背骨のあたりが、ひとつ跳ねた。
「今、満月祭って言ったか」
「言っておりましたね」
「何の祭りだ?」
リーゼは呆れたように息を吐いたが、すぐに答えてくれた。
「二つの月が、どちらも満月になる日のお祭りです。四年に一度ございます」
「どっちの月の祭りなんだ」
「どっちもです」
「どうして四年に一度なんだ?」
「二つとも満月になる日だからです」
「いや、そうじゃなくて。なぜ、その日でないと駄目なんだ」
「二つとも満月になる日だからです」
同じ答えが、同じ調子で返ってきた。
はぐらかしているわけでも、何かを隠しているわけでもないらしい。
リーゼは、こちらの質問のほうがおかしいとでも言いたげに首を傾げた。
「ほかに、いつがあるんです?」
彼女にとっては、問いそのものが成立していないのだろう。
俺は口を閉じた。今は、そういうものだと受け入れるしかない。
◇
白い石を積んだ荷車と、何度もすれ違った。どれも街の外へ向かっている。
市場を抜けかけたところで、石材置場の職人が手を止めた。俺ではなく、馬へ声をかける。
「ドナー。まだ生きてたか」
馬は返事をしなかった。職人はそれで満足したらしく、荷を担ぎ直して仕事へ戻った。
「……ドナーっていうのか」
「そう呼ばれております」
その先でも同じだった。通りかかった職人が足を止め、馬へひと言かけて去っていく。
「昔、祭りの競技で勝ち続けた馬なんです」
「それはすごいな」
「ええ。それと、この街で働いている馬の半分は、ドナーの子です」
半分。
馬の功績を、そんな単位で数えるとは思わなかった。
褒められたのが分かったのか、ドナーが小刻みに首を揺らした。口角まで嫌味ったらしく上がって見える。
もちろん、自慢げに笑っているわけではない。たぶん。
石材置場の奥から、大柄な男が出てきた。手綱を引いていたリーゼの背筋が伸びる。
「わたくしの父です。ヨナス・ケルナーと申します」
男は俺たちの前で足を止め、軽く頭を下げた。
「若旦那。ヨナスです。こうしてきちんとご挨拶するのは、これが初めてですな」
続けて、自分は俺の父とともに石座を預かり、職人たちの棟梁を務めていると名乗った。
「高熱を出されたと聞きましたが、もう外へお出になってよろしいので?」
「医者が、少しならと」
「そうですか」
それで話は終わった。
素っ気ないくらいだったが、俺にはかえって好ましかった。
生前、TRPGで使うキャラクターも、熟練の戦士や土方のおじさんのような男ばかりだった。
不器用で、腕が立つ。自分にはなれなかった生き方を、そのまま形にしたような連中だ。
そんな男が、いま目の前に立っている。それだけで妙にうれしかった。
「リーゼ。日が落ちる前には屋敷へ戻りなさい。若旦那の体に障るといけない」
「はい」
去り際、ヨナスはドナーの首へ手を伸ばした。
節くれだった指に、古い傷がいくつもある。父とよく似た手だった。
石を売る家の主人と、石を切る職人の頭が、同じ形の手をしている。
父も昔は、現場で長く働いていたのだろうか。
ヨナスは馬の首を数度撫でると、人に対するように声をかけた。
「シュヴァルドナー。ずいぶん白髪が増えたな」
シュヴァルドナー。
音は聞こえたが、いつものようには意味が浮かばない。
名前とはそういうものなのだろうと思いかけたところで、一拍遅れて、頭の中へ意味が落ちてきた。
黒い雷。
前世で競馬中継を見ていた頭が、勝手に形を整える。
ブラックサンダー号。
ずいぶん立派な名を付けたものだ。
その名で菓子でも作れば、よく売れそうな気がする。
笑いそうになるのをこらえると、腹が何度か小さく震えた。
そこで、ふと引っかかった。
テオドールという名の由来は、ハインから聞いた。
祖父から継いだ名前。それでも、音そのものには意味が来ない。
何日経っても、ただの音のままだ。なのに、この馬の名は、一拍遅れながらも意味が分かった。
この差は何なのだろう。
考えかけたところで、ヨナスは手を引き、仕事へ戻っていった。
「ドナーの名前は、父が付けたんです」
「……あの人が?」
「子馬のころに。ずいぶん考えたそうですよ」
あの顔と、あの手で、子馬に黒い雷と名付けたらしい。
また少しだけ、笑いそうになった。
◇
満月祭についてもう少し知りたいと言うと、リーゼは神殿へ寄ってくれた。
神殿は白かった。わずかに灰と黄を帯びた石で造られ、黒と灰の街並みの中に浮かび上がって見える。
おそらく大理石か、それに近い石だろう。
「ドナーは中へ連れて入れません。わたくしはここで見ておりますから、坊ちゃまはどうぞ」
リーゼに鞍から下ろしてもらい、彼女とドナーを入口に残して、一人で中へ入った。
扉は開け放たれている。
白い髭も金の杖も持たない、ごく普通の男が床を拭いていた。
装束は着ているが、袖を肘までまくっている。俺に気づくと、布を置いて立ち上がった。
「……どうも。お邪魔します」
「はい、遠慮なくどうぞ。たしか、ヴァルデン家のご子息でしたね。今日はどうされましたか?」
子供が一人で訪ねても、特に驚かれなかった。珍しいことではないらしい。
「満月祭のことが知りたいのですが」
男は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
それから何かに納得したように微笑み、俺の前へしゃがんで目線を合わせた。
「いいですよ。何から聞きたいですか?」
「満月祭には、何をするのですか?」
「月におられる女神様へ、お願いごとをするのが習わしです。もっとも、あなたくらいの年頃なら、屋台の水飴や焼き串に目が行くものでしょうが。祭りの由来に興味を持つとは、賢いのですね」
「それほどでも……。願い方に作法はありますか?」
「二つの月がどちらも空にある間に、ご自身の名を告げてから願います。それから、願い事は決して他人に教えてはなりません」
願い事を他人に教えるなというのは、前の世界にもよくあった。
誕生日の蝋燭や流れ星も、たしか似たようなものだった気がする。
「なぜ、名前を告げるのですか?」
「告げなければ、どなたの願いか分かりませんでしょう」
もっともだったので、それ以上は訊かなかった。
「なぜ、四年に一度なのですか?」
「二つの月が、そろって満ちる夜だからです」
「その夜でなければ、願いは届かないのですか?」
「いいえ。そういうわけではありません。ただ、その夜に皆で祈りを捧げれば、女神様をより身近に感じられるからではないでしょうか。由来には諸説ありますが、あいにく私も詳しくは知らないのです」
困っている様子も、何かを隠している様子もなかった。
「次の満月祭は、いつですか?」
男は少しも考えず、日付を答えた。
二年後の秋だった。
「毎回、同じ日なのですか?」
「いいえ。月は少しずつずれてまいりますので、こちらで数えて定めます」
「数える?」
「星を見る者がおります。四年に一度のことですから、間違えれば大事です」
なぜその夜に祈るのかは、誰もよく知らない。
それでも、いつその夜が来るかは正確に数えられている。
妙な話だった。
「ここは、ほかに何をするところなのですか?」
「月に数回、皆で祈りを捧げます。それから年に一度、十力の儀を執り行います」
十力の儀。
ハインが口にした十力の才は、この儀式で確かめるものなのだろう。
詳しく聞きたかったが、今日の目当ては満月祭だ。いずれ関わるなら、そのとき覚えればいい。
礼を言い、白い床を踏んで外へ出た。
◇
神殿を出ると、リーゼは少し遠回りをした。
城壁を出てすぐのところに広い空き地があり、大勢の人が土を運び、盛り、叩いていた。
二頭の馬が、横倒しにした太い丸太を曳いて地面をならしている。
「収穫祭の競技場です」
「競技場?」
「ばん馬に、重りを積んだソリを曳かせて坂を登らせるんです。どれだけ早く登り切れるかで順位が決まります」
川のほうから荷ソリが上がってきた。積まれているのは砂だった。
「砂は川から取ります。走路に敷くんですよ」
「毎年作るのか」
「毎年です。祭りが終われば、また平らに戻します」
何人かの職人が作業の手を止め、こちらを見た。
正確には、馬を見ていた。
「おーい、シュヴァルドナー!」
「長生きしろよ!」
声援に応えるように、ブラックサンダー号――もとい、ドナーが高くいなないた。
もう競技には出ない馬が、祭りの走路の脇を、ひどく誇らしげに歩いていく。
本当に馬なのか、少し怪しくなってきた。
空き地を抜けると、なだらかな丘が見えた。
稜線には、四角い影がいくつも並んでいる。
「あれは何だ?」
「砦です。ずいぶん昔からあるそうです」
「誰が建てたんだ?」
「さあ。昔の方々でしょう」
千年ほど前からあるらしい、とリーゼは付け足した。
それ以上は、リーゼも知らないようだった。
「あの丘に名前はあるのか?」
「カーンモアと呼ばれています」
「どういう意味だ?」
リーゼは、そんなことを訊かれたのは初めてだという顔をした。
「……カーンモアは、カーンモアですよ」
そういうものらしい。
千年残る砦と、来月には崩される坂が、同じ景色の中に並んでいる。
夕日は丘と砦の向こうへ沈みかけていた。
◇
日が落ち切る前に、帰路へ就いた。
途中、リーゼが夕日とは反対の空を指さす。月が二つ出ていた。
大きいほうは半分より少し膨らみ、淡い黄色をしている。
小さいほうは爪ほどの細さで、白く光っていた。
「大きいほうが暦の月です。小さいほうが女神様の月」
どちらも満ちていない。
次に二つがそろうのは二年後。前にそろったのも二年前だった。
指折り数えるまでもない。
ふと思い出す。
どっちの満月祭だ、と俺は女神に訊いた。
答えは「どっちも」だった。この街では、子供でも知っていることだった。
「満月祭は、ずいぶん先ですねえ、坊ちゃま」
リーゼが呑気に言った。彼女にとっては、ただの遠い日付なのだろう。
実際、今はそれ以上のものではない。
二年。 待つだけで潰すには、長すぎる。
幸い、暇を潰す道具なら一つだけ渡されていた。
まだ一度も、使っていなかった。




