第四話「しばらくすれば思い出す」
朝食から、下で食べることになった。
迎えに来たリーゼは廊下を先に歩きながら、扉を一つずつ指していった。
昨日より足取りは軽い。壁に手をつかなくても歩けた。
「こちらが旦那様の書斎。こちらは納戸です」
「きちんと覚え直してくださいね。ご案内するのは今日までですから」
姉のような言い方だった。実際には他人の家の娘だが、今の俺にはありがたかった。
突き当たりの少し手前にも、扉が一つあった。
「そこは?」
「……」
「開けたら駄目な部屋か」
「開けてはいけないお部屋ではありません」
では、何なのだろう。
「ただ、誰も開けません」
誰の部屋とも、何のための部屋とも言わなかった。
禁じられてはいないのに、誰も開けない。
どういう区分だ。
「お食事が冷めますよ」
リーゼはもう歩き出していた。俺は閉じた扉を一度だけ振り返り、そのあとを追った。
◇◇◇
階段は広かった。石の手すりに木の段を組み、途中の踊り場で折り返す作りになっている。
その踊り場の壁に、一枚の絵が掛かっていた。
足が止まる。
描かれているのは三人だった。立っている男は、今よりずっと若い。
それでも、父だと分かった。肩幅と、節の太い手と、何より顔つきが同じだ。
ただ、絵の中の父は笑っていた。あの人が笑うところを、俺はまだ見たことがない。
隣では、椅子に腰掛けた女が赤ん坊を抱いている。
明るい色の髪は、水盆で見た俺の髪とよく似ていた。
誰なのかは、考えるまでもない。
母親は、俺を産んだときに亡くなっている。白い部屋で、女神はそう言った。
だとすれば、この絵の光景は一度もなかったはずだ。
「坊ちゃま?」
下からリーゼの声がした。
「……今行く」
◇◇◇
台所は一階の奥にあった。
石の竈が二つ。梁には銅鍋と束ねた香草、燻した肉が吊られている。
湯気の向こうで、マーゴが振り向いた。
「まあ、テオドール様。今朝はご自分で……」
昨日と同じ大声を上げかけ、途中で飲み込んだ。驚くぶんは、昨日のうちに使い切ったらしい。
代わりに手にした布巾で、汚れてもいない卓を拭き始める。
朝食は、台所の隅に置かれた小さな卓で取った。
麦の粥をひと匙口へ運ぶと、マーゴはようやく息をついた。
「レナーテ様にも、お見せしたかったですねえ……」
口にした途端、彼女は黙り込み、鍋へ戻った。
レナーテ。
おそらく、踊り場の絵にいた女の人――俺の母親だ。
彼女について訊きたいことが、粥の表面に次々と浮かんだ。
けれど俺は、それらを匙ですくい、粥と一緒に飲み込んだ。
◇◇◇
粥を半分ほど食べたところで、廊下の向こうから戸の開く音がした。
冷たい空気とともに、足音が近づいてくる。
現れたのは、あの晩、父が間もなく戻ると知らせに来た痩せた年寄りだった。
白いものの混じった髪をきっちり後ろへ撫でつけ、背筋をまっすぐ伸ばしている。
指先が薄く黒ずんでいる。おそらく長年のインク染みだろう。
男は卓の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「若旦那様。お加減はいかがですか」
若旦那様。
テオ。テオドール様。坊ちゃま。若旦那様。
同じ子供を呼ぶのに、この家には四通りの呼び方があるようだ。
「……もう平気だ、です」
「それは何よりです」
「では、本日より始めましょう」
「始める? 何を、ですか?」
「お家のことを一通り。旦那様のお言いつけにございます」
父からは何も聞いていない。俺の知らないところで、俺の予定が決まっていた。
まあ、子供とはそういうものなのだろう。
「ハインさん」
マーゴが掃除から戻ってきた。さっきまでとは声色が違う。
喉からではなく、腹から出るような真剣な声だ。
「テオドール様は、昨日ようやく下まで歩けるようになったばかりなのですよ。そんな病み上がりの体で帳場に座らせるおつもりですか」
「座っていただくだけです。石を担がせるわけではありません」
「あなたはいつもそう。人を帳面の数字か何かだと思って」
「思っていませんよ。思っていたら、寝ずに番をしていた誰かさんの様子を見に、二階まで上がったりはしません」
「……あれは旦那様にご用があって、書斎へいらしたのでしょう」
「旦那様への用は、ついでです」
その後もしばらく応酬が続いた。
はじめは俺の授業の話だったはずが、いつの間にか十年前の荷積みや、誰かの祝いの席について言い争っている。
匙を持ったまま隣を見ると、リーゼは呆れた顔で俺の椀にチーズを足した。
「始まりましたね」
「……何がだ」
「ああなると長いんです。昔から、くっついたり離れたりしていますから」
「くっついたり?」
「今は離れている時期ですわ」
まったく分からなかった。中身がおっさんの俺に分からないことを、十五の娘が分かっている。
言い争いは、マーゴがいくつか条件を出して終わった。
「昼に一度休ませること。座らせたきりにしないこと。……あと、白湯を出すこと」
「承知しました」
ハインは、どれもあっさり呑んだ。その呑み方が妙に慣れていた。
台所を出るとき、マーゴは洗濯物の籠を抱え、裏手の段を上っていった。
物見台で干すのだとリーゼが教えてくれる。あの人の持ち場は、台所と屋根の上らしい。
◇◇◇
台所の戸口で、リーゼに厚手の外套を着せられた。
ハインが向かったのは、屋敷の奥にある中庭だった。
「帳場は、庭を挟んだ向こうの別館にございます。その前に、この家が何を売っているのか、ご覧いただきましょう」
中庭には、窓から眺めたときよりも多くの石が並んでいた。
切り揃えられた灰色の角材。人の背丈ほどある白い石板。木枠へ立てかけられた、薄紅や黒に近い緑の板石。
同じ種類のものが幾つも重ねられ、縄を掛けられたまま、荷車へ積まれるのを待っている。
石の門の前では、三脚から下げた滑車を使い、男たちが大きな石材を持ち上げていた。
別の一角では、外套姿の客が板石を覗き込み、向かいの職人がその表面へ水をかけている。乾いていた石の色が濃くなり、埋もれていた模様が浮かび上がった。
客が何かを指す。職人が首を振る。
その隣では、別の男が荷車何台ぶんになるのかを数えていた。
普段使う石も、まとめて売る石も、ここで見せて、そのまま運び出すらしい。
石材の山の脇には、磨かれた小さな見本が添えられていた。
白、灰、薄紅、黒に近い緑。どれも、玄関広間の床に敷かれていた色だった。
ハインは中庭を横切りながら、外套姿の男へ短く声をかけた。
男は軽い調子で挨拶し、その横から別の客が値段を訊き、ハインは足を止めずに答える。
立ち止まりもしないのに、二つの商談が同時に進んでいく。
番頭とは、そういう仕事らしい。
「では、参りましょう」
帳場のある別館は、中庭を挟んで本館の向かいに建っていた。
本館より一回り低く、飾り気もない。中庭側に小さな戸があり、反対側の表口は、そのまま通りへ開いている。
ハインが戸を開ける。
扉一枚を挟んだだけで、石を動かす掛け声が遠くなった。
帳場にも、いくつもの机と大勢の人間がいた。
ただし、ここに積まれているのは石ではなく、帳面と書付だ。
表口から入ってきた男が書付を差し出し、帳場の者が帳面を開く。
別の机では、荷の数と金額を読み上げる声がする。
中庭で決まった商いが、ここで紙と数字へ移されるらしい。
その隅に、小さな机が一つだけ空けてあった。
「どうぞ」
どうやら、ここが教室らしい。
◇◇◇
ハインは一つ説明するたび、こちらの顔を見て、伝わったことを確かめてから授業を進めてくれる。
この国はドゥナハトという。王はいるが、街の実務はそれぞれの組合が担っている。
ここはラウテルという街で、領主はフォン・ラウテル家。
石に関わる者の集まりを石座と呼び、石を切る者も、運ぶ者も、積む者も、そこに含まれる。
父は、石座をまとめ上げる顔役なのだという。前世の知識でいえば、グループ企業の会長だ。
今は統合歴一四七三年。年が明けるのは春だ。
農民や町の者は、秋の収穫祭までに税を納める。だが、ヴァルデン家のような大きな商家は、春の年明けに納める。
午前中だけで、そこまで進んだ。
授業は三度中断した。帳場の者に呼ばれ、客が訪ねてきて、荷を運ぶ男が書付を持ってくる。
そのたびハインは「失礼」と立ち、仕事を片づけて戻ると、俺が最後に聞いた言葉から何事もなかったように話を再開した。
説明しながら、書き損じた紙の裏に、ときどき何かを書きつけている。
国の名前。家の名前。祭りの名前。
たぶん、そう書いてある。書くところを見ていれば、それくらいは推測できた。
ただし、書かれた線は一本も読めない。
そのことは、まだ黙っておいた。いずれ向こうから、言わなければならない場面を用意してくれるだろう。
「農民や町の者は秋、うちのような商家は春に税を納めるのですね」
「そうです」
「なぜ、商家だけ遅いのです?」
「収穫祭が、その年最後のかき入れ時だからです。祭りが終わらなければ、一年の勘定が定まりません」
「それで、秋に帳を締める」
「いいえ。祭りの最終日に、領主様への税を除く大口の支払いと掛け勘定を片づけます」
「冬の間に在庫と書付、残った入出金を照らし合わせ、帳を締めるのは春。帳簿を領主家へ差し出し、税を納めるときです」
秋に商いの勘定を片づけ、冬に数え、春に締めて払う。
昔から、ではなかった。思ったより、きちんとした理由があった。
昼には、マーゴが予告どおり、中庭を渡って帳場へ乗り込んできた。
俺は白湯を二杯飲まされ、しばらく休まされた。
午後は、家の話になった。
「この家を大きくなさったのは、大旦那様です」
「大旦那様が」
「先代の当主。若旦那様のお祖父様です」
「……はあ」
「もとは、石だけの家ではありませんでした」
「何を売っていたんですか?」
「金子をお貸ししていました」
金貸しか。
「石と金貸しです。とりわけ大きな貸し先が、一つありました」
「大きな貸し先」
「やまびこのようなお返事ですが、覚えていらっしゃるなら結構」
ハインは声を潜めることもなく、帳尻の話でもするように言った。
「領主様のお家です」
かつて長い戦があり、そのあと領主家には大きな借財が残った。
金を貸したのは街の商人たちで、その中でもヴァルデン家が一番の貸し手だったという。
「……返してもらえたのですか?」
「二十年余り前に、きれいに。先代と今の領主様は、勘定の確かな方たちでした」
番頭は、領主を褒めるときまで帳簿の言い方をする。
「ただ、途中には金子で返せない年もありました」
「取りっぱぐれたのですか?」
「いいえ。別のもので支払われました」
「別のもの?」
「名字です」
ハインは、卓の帳面を指先で軽く叩いた。
「ヴァルデンという名前。こちらは、その折に領主様のお家からいただいたものです」
名字で借金を払う。
「名字って、そんなに値打ちのあるものなのですか?」
「値打ちは、つけようですな」
「差し上げる側は、金子が掛かりません。いただいた側は、末代まで名乗れます」
うまい取引だと思った。どちらにとってうまいのかは、考えかけてやめた。
「その大旦那様は……何という名前だったのですか?」
ハインが、わずかに間を置いた。そんなことを訊かれるとは思っていなかったらしい。
「テオドール様です」
「……」
「若旦那様は、大旦那様のお名前を継いでおられます。ご存じかと思いましたが」
「……熱のせいです」
「なるほど。熱のせいでしょうな」
ハインは深追いしなかった。
テオドール。
俺の名前は、会ったこともない、死んだ男から渡されたものだった。
名前は意味のない音でできていると、前に思った。
この名前には、はっきり由来がある。
由来が分かっても、やはり俺のものだという感触は来なかった。
「お祖父様は、どんな方でしたか?」
ハインは少しだけ背筋を伸ばした。
「帳簿を取らせれば、この国で五本の指に入る方でした。十力の才には、恵まれませんでしたが」
十力。
女神が言っていた、十の位のことだろう。
ここで訊けば意味は分かるかもしれない。
だが、なぜそんなことを訊くのかと返されたとき、答えに困る。
その言葉は、いったん横へ置いた。
「そのぶん苛烈な方でしてな。上級の貴族とも対等に渡り合いました。おかげでこの家は、敵対する商家や盗賊に、たびたび襲われましたが」
ハインは、襲撃の話まで納品の話と同じ調子で並べていく。
「わたしも仕事の仕方は大旦那様に叩き込まれました。いまだに、帳簿を書き損じて怒られる夢を見ます」
こんなきっちりとした大の男が、いまだに夢で怒られている。
考えただけで寒気がしてきた。もちろん、病み上がりだからではない。
「大旦那様のお顔なら、肖像画がありますよ」
「どこにです?」
「旦那様の執務室に」
ハインは帳場の奥へ目をやった。
廊下の突き当たりに、扉が一つ見える。
「見られますか」
「あの部屋には、旦那様の許しがなければ誰も入りません。わたしどももです」
また、開かない扉だった。二階に一つ。一階に一つ。
表のほうから大きな声が近づいてきたのは、そのときだった。
「おう、心配するな。荷は祭りの前に着ける。着かなかったら俺がソリを曳く」
笑い声が起こる。父だった。
客らしい男の肩を叩き、表通りまで送りながら、まだ何か言って笑わせている。
戻ってくると、帳場の男たちにも二言三言、指示を飛ばした。
声が大きい。よく喋り、よく笑う。
途中、父の目が一度だけこちらを掠めた。だが、足は止まらなかった。
そのまま奥へ進み、執務室の扉を開ける。
扉をくぐった瞬間、父の顔から笑いが落ち、静かに扉が閉まる。
ハインは何も言わなかった。俺も訊かなかった。
◇◇◇
空が茜色に染まる頃、ハインは帳面を閉じる。
「今日はここまでにしましょう。夕食の前に、今日のところをおさらいします」
「おさらい」
「それまで、お部屋で休んでいてください」
中庭を渡って本館へ戻り、階段を上がると、踊り場に父がいた。
絵の前に立ち、こちらへ背を向けて動かない。
俺は段の途中で足を止めた。声をかける気にはなれなかった。
かけてはいけない気がした、というほうが近い。
どれくらいそうしていたのか。少し姿勢を直した時に木の段が小さく軋んだ。
音に気付いた父が振り向く。
「……テオか」
「はい」
「もう、付き添いはいいのか」
「はい」
「そうか……ハインの言うことを、よく聞け」
「はい」
父は一階へ下り、中庭の向こうへ消えていった。
俺は残りの段を上がった。絵の前では立ち止まらなかった。
今はまだ、そうしてはいけない気がした。
◇◇◇
夕食の前に、中庭を渡って、もう一度別館の帳場へ向かった。
表口も窓も板戸で閉ざされ、人の出入りは絶えている。昼間とは別の部屋のように静かだった。
机の上には灯りが一つ。その輪の中に、昼間ハインが使っていた紙が置かれていた。
「では、若旦那様」
ハインが紙をこちらへ向ける。
「今日お話ししたことを、ここに書き付けてあります。読み上げてみてください」
来た。
紙には線が並んでいる。じっと見ても、何も起きない。
線は線のままだ。どこからどこまでが一文字なのかも分からなかった。
書いた順番は覚えている。上から適当に答えれば、いくつかは当たるかもしれない。
やめた。そういう小細工は、ばれたときが一番面倒だ。
紙から顔を上げる。
「……読めない」
「はい」
「一文字も、読めない」
口にすると、思ったより気弱な声が出た。
ハインはすぐには返事をしなかった。
灯りに照らされた俺の顔と、今日の授業を控えた紙を、何度か見比べた。
「では、口で確かめましょう。……国の名前は」
「ドゥナハト」
「領主様の家名は」
「フォン・ラウテル家。街の名前と同じ」
「石に関わる者の集まりを」
「石座」
「年が明けるのは」
「春」
「農民や町の者が税を納めるのは」
「秋。収穫祭まで」
「うちが、領主様への税以外の勘定を片づけるのは」
「収穫祭の最終日」
「帳を締め、税を納めるのは」
「春の年明け」
ハインは答えのたびに小さく頷き、俺の手元からゆっくりと紙を引き取り、二つに畳んだ。
「……まあ」
俺ではなく、灯りの少し上を見ながら言う。
「以前から、さほど勉強はお得意ではありませんでしたから……」
「……」
「その……しばらくすれば、思い出すのでは……」
遠い目というものを、生で初めて見た気がした。




