第三話「他人の人生」
翌朝、十五歳くらいの少女が部屋へ入ってきた。俺より頭ひとつ以上は背が高い。
髪をきっちりと結い、前掛けを着け、洗った着替えを腕に抱えている。
少女は着替えを寝台の脇へ置くと、腰に手を当てて俺を見下ろした。
「起きられますか、坊ちゃま」
「……起きられる」
「では、どうぞ」
そう言いながら、彼女は着替えを渡さなかった。
代わりに、俺の寝間着の紐へ手を伸ばす。
「待て、自分でやる」
少女は心底不思議そうな顔をし、少しだけ眉尻を下げる。
「……小さい頃は、あんなに好いてくれたのに」
「四日も寝ておいでだったのに、そういうところだけご立派になって」
口ではそう言いながらも、着替えは渡してくれた。
「とうとう来たのでしょうか。思春期」
十歳で始まるものなのかは知らないが、少なくとも三十歳を過ぎた男が、十五歳ほどの少女に着替えさせられるよりは、思春期ということにしておいたほうがずっと平和だろう。
コンプライアンスは守る主義なのだ。
◇
その日のうちに、いくつかの名前と立場が分かった。
着替えを運んできた少女の名はリーゼ。姓はケルナー。
石座の棟梁の娘で、この家には行儀見習いとして入っているらしい。
石座が何なのか、そのときの俺にはまだ分からなかった。
職人組合。創作ファンタジー御用達の概念でいえば、ギルドに近いものだろうか。
昼過ぎ、手洗いへ行くため、彼女に支えられて廊下へ出た。
四日も寝ていたせいか、脚に力が入らない。
十歳児の身体になれば体力まで若返ると思っていたが、病み上がりに年齢は関係ないらしい。
用を済ませたあと、もう少し歩けそうな気がして、廊下の先へ足を延ばした。
右腕をリーゼの肩へ回し、反対の手で壁に触れながら、どうにか階段の上までたどり着く。
そこから、一階の広間が見渡せた。
床には、色の違う四角い石が格子状に敷き詰められている。
白。
灰。
薄紅。
黒に近い緑。
それ以外にも、十数種類はある。
「あれ、全部違う石か」
「ええ」
リーゼは手すりに寄り、一枚ずつ指差した。
「あの白いものは?」
「大理石。灰色は花崗岩。薄紅は砂岩だろ」
「そこまではお分かりになるのですね」
妙な言い方だった。
リーゼは白い床石を指したまま、続ける。
「では、あの大理石はどこで採れたものでしょう」
「……分からない」
灰色の花崗岩も、薄紅の砂岩も、産地までは分からなかった。
「以前の坊ちゃまなら、石目を見ただけで、どこの山のものかまでお答えになりました」
広間の端には低い台があり、その上に、俺よりひと回りほど大きな緑の岩が飾られていた。
黒に近い緑の石肌を、淡い色の縞が幾重にも走っている。
「あの緑の石は?」
「あちらは海の向こうから運ばれてきた孔雀石です。このあたりではめったに手に入らない、たいそう高価なものです」
「あそこまで、自分で歩いてみたい」
リーゼがこちらを見る。
「一階まで、ではなく?」
「あの石まで」
「ずいぶん遠くですね」
階段の上から見下ろす磨かれた石床は、ひどく遠くにあった。
知らない床だ。だが、この家で十年暮らしてきた子供にとっては、毎日踏んでいた床なのだ。
◇
その日の午後、経過を診るために医者がまたやってきた。
父とマーゴも寝台のそばに立ち、その様子を見守っていた。
瞼を裏返し、脈を取り、喉を覗き、腹を押す。
昨日と同じ順番で身体を診たあと、医者は簡単な試しだと言って、部屋にあるものを順番に指差した。
「テオドール様。あすこの机の上にあるものは何か、お分かりになりますか」
「匙」
「では、あちらは」
「燭台」
鍵、杯、櫛、火打ち金。
見せられたものの名前は、どれも分かった。
医者は一度頷くと、リーゼが運んできた三枚の石板を寝台へ並べた。
一枚は白地に薄い筋が入り、一枚は灰色の中に細かな粒が見える。
残る一枚は、くすんだ薄紅色をしていた。
「石の種類は分かりますか」
「白いものは大理石。灰色は花崗岩。薄紅は砂岩です」
「では、それぞれ、どこで採れたものでしょう」
それは答えられなかった。
リーゼが一枚ずつ指差しながら教えてくれる。
「白い大理石は西の丘。灰色の花崗岩は北の山。薄紅の砂岩は南の川上から運ばれたものです」
医者は三枚の石板を伏せ、もう一度、部屋にあるものを順番に指していった。
匙、鍵、燭台、櫛。
その間に、リーゼが石板の順番を入れ替える。
最後に医者が一枚ずつ表へ返し、産地を尋ねた。
「西の丘」
「北の山」
「南の川上」
今度は、すべて答えられた。
医者は父とマーゴのほうへ向き直る。
「何もかも失われたわけではないようです。熱を出す前に覚えていたことが、ところどころ抜け落ちているのでしょう。今教わったことを覚えていられるなら、また積み直すことはできます」
父は大理石の板をしばらく見つめたのち、マーゴとリーゼへ目を向けた。
「新しく覚えられるのなら、また覚えればいい。知らないことに気づいたら、その都度教えろ」
俺が忘れていることは、周りが少しずつ教え直す。
それで話は決まった。
この家では、俺が何を忘れていても、たいてい病のせいになるらしかった。
診察の結果、付き添いがいれば屋敷の中を歩いてよいことになった。
ただし、階段を一人で使うことと、外へ出ることはまだ許されなかった。
◇
翌朝から、自分の脚で歩く練習を始めた。
リーゼには、倒れないよう横についてもらった。
初めの目標は、寝台から部屋の扉まで。
昨日はリーゼへ体重を預け、ほとんど引きずられるようにして廊下へ出た。
自分の脚で進もうとすると、それよりずっと短い距離でも息が上がる。
まだ進めると思って足を出し、途中で膝が折れた。
倒れる前に、リーゼの腕が脇へ入る。
「ほら」
「……歩けると思ったんだ」
「思うだけで歩けるなら、お医者様はいりません」
その日は、おとなしく寝台へ戻った。
次の日には、扉の外まで進んだ。
その次には、階段の上までたどり着いた。
階段の上まで行けるようになってからは、歩き終えるたびに木の床へ座り込み、階下の広間を眺めた。
その隣で、リーゼが床石の種類と産地を一枚ずつ教えてくれた。
石の話になると、彼女の口調から使用人らしい堅苦しさが薄れる。
磨き方の違い。
水を吸いやすい石。
寒くなると割れやすい石。
訊いていないことまで、次々に出てきた。
「あの、白と黒の粒が混じった石は?」
「閃緑岩」
「どちらから採れますか?」
「北方の鉱山近く」
「そこまでお教えしましたか?」
「昨日な」
リーゼは何も言わず、口元だけを少し緩めた。
身体のほうも、昨日できなかったことを少しずつ覚えていった。
昨日は遠かった扉が、今日は休む場所になる。
階段の上までたどり着いたあとは、一日に一段、二段と、下りられる段数を増やしていった。
階段の上から眺めるだけだった緑の石も、日ごとに少しずつ大きく見えるようになった。
◇
階段を最後まで下りきったのは、それから三日後だった。
右手で手すりを握り、左腕をリーゼに預ける。
何度も立ち止まりながら残りの段を下りていき、最後の一段を越える。
木を踏む感触が消え、代わりに、平らな石の硬さが靴底越しに伝わる。
白、灰、薄紅。
これまで上から眺めていた石を、一枚ずつ踏み越えていく。
広間の半ばで、リーゼに預けていた左腕を下ろした。
「坊ちゃま」
「ここからは歩ける」
残りの数歩を、ひとりで進む。
台の前までたどり着き、黒に近い緑の表面に手を触れる。
ひやりと冷たい岩肌が、手のひらに吸い付く。
細い白い筋が、指先から石の向こう側まで伸びている。
「海の向こうから運ばれてきた石だ」
「……ちゃんと覚えていらしたのですね」
「お前が教えてくれたからな」
そう答えると、リーゼは一瞬、目を見開いた。
泣き出すのをこらえるように唇を結び、何度も頷く。
「はい……はい……」
そのとき、台所へ続く廊下からマーゴが出てきた。
こちらを見つけると、手にしていた布巾を小卓へ置き、駆け寄ってくる。
「まあ……まあ、テオドール様!」
俺の肩と腕を何度も確かめ、最後に両手を強く握った。
「下まで? ご自分で?」
「……階段はリーゼに手伝ってもらった」
「ご自分で! 歩いて!」
会話が成立していない。
していないが、悪い気はしなかった。
気づけば、マーゴもリーゼも頬を濡らしていた。
二人につられて、俺の目頭まで熱くなった。
◇
夕方、リーゼが小皿を持って戻ってきた。
皿には白い布巾がかけられている。
朝に着替えを運んできたときよりも、ずっと慎重な運び方だった。
寝台脇へ皿を置き、布巾をめくる。
厚い焼き菓子が三枚並んでいた。
縁は濃く焦げ、割れ目からは白っぽい粒と、黒ずんだ赤いベリーが覗いている。
体調もよくなり、鼻が通るようになったおかげか、バターの匂いに、かすかな酒精の香りが混じっているのが分かる。
「マーゴが焼きました」
「……マーゴが」
リーゼは腰に手を当て、わずかに唇を尖らせる。
「坊ちゃまが、ご自分の足で下までいらしたお祝いだそうです。まったく、あの人は」
リーゼは恨めしそうに、皿へ目を落とした。
「松の実と、瓶詰めのベリーと、お砂糖ですよ。お砂糖。年に三度あるかどうかのお菓子です。収穫と、年明けと、あとは誰かが生まれたときくらい。わたくしがいただけるのも、その三度きりです」
まるで抗議するような口ぶりだ。
リーゼの目は俺ではなく、皿へ向いている。
「……よければ、食べるか?」
リーゼは一瞬固まった。
わずかに迷うそぶりを見せたのち、「そこまで卑しくはありません」ときっぱり断る。
そう答えるあいだも、視線は皿に釘付けだったが。
それならばと、俺は一枚つまみ、口へ入れる。
硬い。歯を立てると、小さく割れる音がした。
濃いバターのあとから、砂糖の甘さが広がる。
松の実特有のほのかな風味と、酒を吸ったベリーの酸味も、負けじと追従する。
うまい。
病み上がりの舌でも、文句なくうまかった。
「うまいな」
そう口にしてから、リーゼの視線が皿を離れていることに気がついた。
彼女は布巾を持ったまま、今度は俺の顔をじっと見ている。
何かを言いかけ、そのまま飲み込んだような顔だった。
「三枚とも召し上がってくださいね。残すと、わたくしが叱られますから」
用事を終えた彼女は、そう言い残して部屋を出ていった。
◇
皿に残された二枚を見つめる。
うまい。
それは間違いない。
だが、それだけだ。
好きだったという感触が、どこにもない。
この身体は、この菓子が好きだったらしい。
四日眠り、目を覚ましたときには、その「好き」は抜け落ちていた。
年に三度しか焼かれない菓子。
マーゴは、俺が無事に目を覚まし、自分の足で下まで歩いた祝いに、その一度を使ったのだ。
前世でクッキーを焼いたことがある。
市販の粉を混ぜただけの、簡単なものだ。
それでも、生地を作り、そのまま窯へ放り込めば終わりというものではない。
それをマーゴは、俺が広間へ下りたあと、いつもの仕事の合間を縫って生地をこね、窯へ火を入れて焼き上げたのだろう。
四晩、俺のそばについていた、その手で。
それに対して、俺が返したのは「うまいな」の四文字だけだった。
まるで釣り合っていない。
言葉の量も。
重みも。
何もかも。
俺はこの家の息子の顔をしている。
この家の息子の名で呼ばれている。
この家の息子のために焼かれた菓子を食べている。
だが、俺には何ひとつ懐かしくない。
懐かしくないのだ。
それが、この家の人たちに対して何より失礼なことのように思えた。




