第二話「窓の向こう」
床に座り込んだまま、部屋に人が増えていく気配を聞いていた。
水盆はまだ目の前にある。
先ほどまで大きく揺れていた水面はすっかり静まり、見知らぬ少年がこちらを見上げている。
明るい色の髪。十歳ほどの幼い顔。目も、鼻も、口元も、前の俺とは何ひとつ似ていない。
それでも、水面の少年はこちらが瞬きをすれば瞬きをし、口を開けば同じように口を開く。
やはり、俺の顔らしい。
こういうときに限って、前世の知識が余計な口を挟んでくる。
鏡像自己認知テスト。通称ミラーテスト。
動物が鏡の中の像を「自分」だと理解できるかを調べるやつだ。動物を薬で眠らせている間に、こっそり額へ印をつける。そのあと鏡を見せ、鏡ではなく自分の額へ触れれば合格。
合格したとされるのは、たしか類人猿と、イルカ、それからカササギだったか。――ちなみにカササギはカラスの仲間で、学名を「ピカ・ピカ」という。
実験については諸説あるとか、再現性が怪しいとか、そもそも前提が間違っているのではないかとか、そういう但し書きまでご丁寧に浮かんできたが、今はどうでもいい。
重要なのは一点だけだ。
鳥は、鏡の中の自分を自分だと理解できた。
俺は、水面に映った自分を自分だと思えない。
異世界に転生して早々、カササギ以下……せめて猿くらいは超えていたかった。
まあいい。カササギに勝てないなら、せめてイルカくらい賢そうな顔でもしておこう。
水面の少年が賢そうに見えるよう、真剣な表情を作ってみる。
うん。何ひとつ分かっていないアホ顔だ。
◇◇◇
誰かが俺の脇の下に手を入れ、抱え上げる。
驚くほど簡単に身体が浮いた。
体重が軽いのか、抱えた人の力が強いのか。
おそらく両方だろう。
――お運びして。ゆっくり。
――お医者様はまだですの?
――誰か、旦那様へ。
言葉の境目が分からない。
音はひとかたまりになって耳へ入り、意味は少し遅れて頭へ届く。
映像から一拍遅れて字幕が表示される映画のようで、妙に気持ちが悪い。
寝台へ戻される。掛布が重い。
麻ではない。もっと目の詰んだ、上等な布だ。
肌に触れる側だけは柔らかく、表側には植物らしき模様が織り込まれている。
十歳の子供。
地方都市の商家。
家業は石材屋。
父親と、数人の使用人。
女神から聞いた説明と、今のところ食い違いはない。
窓の外では、日が傾きかけていた。
こちらの世界でも、夜は来るらしい。
◇◇◇
医者は、想像していたより普通の男だ。
白い髭も、とんがり帽子も、水晶玉もない。
清潔な布の前掛けを着け、使い込まれた革鞄を提げている。
瞼を裏返され、舌を見られる。
手首へ指を当てられ、脈を取られる。
喉の奥を覗かれ、腹を何度か押された。
診察の手順は、俺の知っているものとほとんど変わらない。
人間が人間を診るのなら、世界が違っても似たような形になるのだろう。
少し安心した。苦虫を潰した汁や、よく分からない毒草のジュースを飲まされることはなさそうだ。
杖の先から光を出したり、傷口へ手をかざしたりもしなかったのは、少し残念な気もしたが。
医者は診察を続けながら、うんうんとうなずき、落ち着かない様子の中年の女性へ、なだめるように声をかけている。
――四日で目を覚ましたのは運がよかった。
――熱は……昨夜のうちに下がりましたか。
――峠は越えたようですな。
四日。
この身体は、四日間も眠り続けていたらしい。
その四日のうち、どこで俺は俺になったのだろう。
昨日か。熱を出した瞬間か。眠っているあいだに、少しずつ入れ替わったのか。
あるいは、もっと前から始まっていた可能性だってある。
考えたところで、確かめる方法はない。
魂の所在を調べる検査器具など、少なくともこの医者の革鞄には入っていなさそうだった。
――命がつながっただけで、もうけものだと思ったほうがいい。
――あの熱では、大の大人でも帰ってこられないことが多い。
――もしかすると、目や耳に障りが残っているかもしれない。数日は安静にして、様子を見なさい。
中年の女性が、医者の肩越しに俺の顔を覗き込む。
「テオドール様、聞こえますか。お分かりになりますか」
その瞬間、さっきまでひとつながりの音にしか聞こえなかったものが、きちんと言葉として切り分けられた。
熱が下がるというのは、こういうことなのだろうか。
だが、それよりも気になったのは、呼ばれた名前だ。
テオドールサマ。
どこまでが名前で、どこからが敬称なのか、一拍だけ分からなかった。
テオドールサマ。
テオドール・サマ。
テオ・ドールサマ。
言葉の意味は分かるのに、音は頭の中を居心地悪そうに右往左往する。
名前というものは、もともと意味のない音でできている。前の名前だって、その由来を意識したことなどほとんどなかった。
それでも、自分の名前を他人の口から教わるのは、ひどく妙な気分だった。
「……はい」
声が出た。高い。
喉の位置からして違う。
「よかった。ああ、よかった」
中年の女性は口元を押さえ、今にも泣きそうな顔をしていた。
この人が誰なのか、俺は分からない。
まあ、当の俺は自分自身が誰なのかも、まだよく分からないのだが。
◇◇◇
年配の男性が俺の前で軽く頭を下げ、報告する。
「旦那様は、もう半刻でこちらに着くとのことです」
それから体感で三十分ほどたって、旦那様と皆から呼ばれる人が来た。
この世界の時間の単位が、前の世界と同じ長さなのかは分からない。
だが、病み上がりの状態で時間の単位について説明を求めるほど、俺も空気が読めないわけではない。
部屋へ入ってきたのは、背の高い男だった。
肩幅が広く、手は大きい。太い指の関節には、古い傷がいくつも残っている。
商人というより、職人の手だ。
石材を売る家と聞いていたので、帳簿ばかり触っている人物を想像していたが、どうやら現場にも出るらしい。
男は寝台の脇に立ち、俺を見下ろした。
察するに、この人が俺の父親なのだろう。
「熱は下がったか」
「……はい」
「そうか」
会話が終わった。
父と子の感動的な再会にしては、ずいぶん短い。
男の視線が、俺の顔と天井のあいだを一度だけ往復する。
「……テオ」
ああ、そこで区切るのか。
「よく寝ろ」
男はそれだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まると、その向こうですぐに男の声が続く。
「マーゴ、悪かったな。四晩だろう。お前も休め。これは命令だ」
「まあ、旦那様がそれをおっしゃいますか」
「言うさ。医者にも礼を。酒はどっちがいい、麦か葡萄か。葡萄だな。あの男は葡萄だ」
よく喋る人だ。廊下ではだが。
◇◇◇
マーゴというのが、あの中年の女性の名前らしい。
彼女は俺のために粥を運び、匙を持たせると、そのまま寝台の隣へ腰を下ろす。
何も言わず、俺が食べる様子を見ている。
正直、食べにくいが仕方がない。心配なのも分かる。
転生して最初の食事。
物語なら、その世界の食文化を印象づける大切な場面だ。
見た目は普通だ。何かの穀物を、柔らかくなるまで煮たものだろう。口へ含む。温かくて、少し塩気を感じる。
食感は……麦粥だろうか。プチプチとした粒も感じるので、アワかヒエのような雑穀を混ぜた麦粥、といったところか。
まだ熱の影響を引きずっているのか、味はあまり感じられない。
寝台脇の小机に、書付が一枚置かれている。
医者が残していったものだろう。
言語チートで読めるかもしれないと覗き込んだが、まったく意味は分からなかった。
のたくった線の集まりにしか見えない。
どこからどこまでが一文字なのかすら分からない。
白い部屋の自由帳では、見たこともない文字が読めたはずだが。
あれは、この世界の文字とは別なのだろうか。
そういえば、女神に文字について質問したときも、「行ってから覚えたほうが早い」と言われた。
確かに、嘘はついていない。ついてはいないのだが。
説明不足というか、「言わなきゃ嘘にはならない」という、上等な詐欺師の手口ではないか。
腹の底でふつふつと怒りを煮立たせながら、粥をもう一匙、口へ運ぶ。
どうも、あの女神は信用ならない。「暗黒のファラオ」だの「血塗られた舌」だの「闇をさまようもの」だのと呼ばれる、あの御仁と同じ匂いがする。
白い部屋では姿を見せなかったが、案外、「背の高い浅黒い男」の姿をしているんじゃないか?
……脱線した。
何のことかさっぱり分からなかった、きれいな心を持つ読者諸君には、ぜひこれを機にクトゥルフ神話をおすすめしておこう。
コズミックホラーが、うつろな目で君たちの参入を待っていることだろう。
そんな具合に、自称女神への不満を脳内で散々ぶちまけながらも、匙だけは律儀に動かしていた。
気づけば、皿はすっかり空になっていた。
その頃には思考も一周して、落ち着きを取り戻していた。
考えても分からないことは、後回しにするしかない。
そう諦めることにした。
それが、十年ほど社会人をやって身につけた、俺の数少ない技術の一つだった。
◇◇◇
窓は小さな嵌め殺しで、木の板戸は横へ畳まれている。
ガラスは瓶底ほども分厚い。緑がかっているうえに表面が歪み、少し角度を変えるだけで、外の景色が水中のように揺れて見える。
この世界では、透明な板ガラスを安定して作る技術がまだないのだろう。
少なくとも、一般家庭の窓に使えるほど安価なものではないらしい。
それでも、外に何があるのかは分かる。
石だ。中庭に、大量の石材が積まれている。
切り出したままの角ばったもの。表面だけを荒く整えたもの。
角を落とし、滑らかに仕上げたもの。
形も大きさも違う石が、用途ごとに分けられている。
荷車が二台。少し離れた場所には、三脚と滑車らしき道具も見えた。
巨石を吊り上げるための設備だろう。
魔法がある世界であっても、全部を魔法で運ぶわけではないのだろうか。
あるいは、ガラスと同じように、誰もが使えるほど普及しているものではないのかもしれない。
外塀は妙に高い。商家の塀というより、砦の壁に近い。
防犯のためだけに、ここまで高くする必要があるだろうか。
開け放たれた門の向こうには、灰色の街並みが続いている。
急勾配の屋根には暗い色の板が葺かれ、突き出た煙突からは、もくもくと白い煙が立ち上っている。
さらに遠くへ目を凝らすと、なだらかな丘と草原が見える。
ふと、窓枠に止まったカササギ程度の大きさの鳥が、聞いたこともない美しく澄んだ声で鳴いた。
「中世に近い暮らし」と、女神は言っていた。
その言葉どおりの景色が、窓の外にある。
長年思い描き、焦がれてきた世界。
剣と魔法の世界だ。




