第一話「二つの月」
飽き性なので、今度こそ最後まで書き切りたいと思います。どうか生暖かい目で見守ってください。
「小説家になろう」はほとんど使ったことがないため、読みやすくするためのテクニックなどがあれば、コメントで教えていただけると幸いです。参考にしたり、しなかったりします。
空にはまだ明るさが残っているのに、街灯がともり始める。
昔から、この時間が少し苦手だった。
昼でも夜でもない。何をするにも中途半端で、それなのに世界だけは、エンディングロールが流れ出す一歩手前のような顔をしている。
肩に食い込む鞄には、持ち帰った仕事の資料と、三か月前に買った資格試験の参考書が入っている。
買った日に十二ページ読んだきりで、今日も開いていない。
悪い一日ではなかった。
朝から夕方までCADで他人の描いた図面を直し、客の「もう少し使いやすい感じで」という要望を寸法と仕様に置き換え、上司の指示どおり通路を三十ミリ広げ、そのぶん棚の奥行きを三十ミリ削った。
叱責されるような失敗もなかったし、来週には給料も出る。
何も問題がなかった日ほど、何も残らなかったように感じる。
薄い虚無感が這い寄るのは、そういう隙のせいなのだろうか。
商店街前の停留所でバスを降り、住宅街へ入ると、路地の角には古いブロック塀がある。
その前を通るたび、目が勝手に亀裂を追ってしまう。
何年か前には髪の毛ほどだったのに、今では指の先が入りそうなほど開いている。
塀の向こうの家は、俺がこの町へ来た頃から空き家だった。
柱は朽ち、トタン屋根は錆び、家全体が垂直から五度ほど傾いている。
このまま行政が撤去しなければ、次に大きな地震が来たときに塀ごと倒れてもおかしくない。
俺は昔から、こんなことばかり気にしていた。
年に一度、会社で危険予知の講習を受けさせられる。
現場の写真やイメージ図から、危険な箇所を片端から挙げていくのだ。
俺はいつも点数がよかった。写真の中の作業員が、それで助かるわけでもないのに。
塀の亀裂に気づいたところで、何かするわけでもない。
俺の仕事ではないし、報告する先もない。
それでも、直すならどうするか、段取りを考えることだけはやめられなかった。
いかん、今日の仕事は終わったのだから、別のことを考えよう。
最後に遠出をしたのは、たしか数か月前。
新しくできた郊外の美術館へ足を運んだときだ。
白の漆喰を生かした外観は美しかったが、維持にかかるコストが気になった。コンクリート打ちっぱなしの館内も、光熱費と湿度管理を考えただけで寒気がする。
また仕事に関連することを考えてしまった。
こうなったら建築と関係ない趣味に集中しよう。
週末にはTRPGの予定がある。
ファンタジー物の和製システムで、今の流行りではないが、学生のころから遊んでいる思い入れのある作品だ。
久しぶりに友人がシナリオを書いたので、テストプレイに参加してほしいとのことだった。
彼には、汗臭そうなガチムチ中年男性をNPCとして必ずと言っていいほど登場させ、ヒロイン的な扱いをするという悪癖がある。だが俺も嫌いではないので、彼の新作には必ず参加するようにしている。
画面越しに数時間笑い、終わればそれぞれの生活へ戻る。
家に帰れば飯を食い、サブスクで新作のドラマやアニメを眺め、また別の誰かが作った世界に触れて眠る。
誰かの作った世界を、ほんの数時間だけ借りるのは楽しい。
楽しいのだが、どうにも自分の人生を生きている気がしない。
いつもうっすらと幽体離脱して、少し高いところから自分を眺めている。
そんな感覚が、頭の片隅から消えなかった。
明日も同じだ。明後日も、おそらく同じだろう。
そのようなことを考えながら歩いていると、いつもの妄想が始まった。
◇
もし、億万長者になったら。
もし、不老不死になったら。
もし、メジャーリーガーの息子になったら。
もし、学生の頃からやり直せたら。
もし、宇宙開発の研究者になる夢を、途中で諦めずにいたら。
――もし、剣と魔法の異世界に転生したら。
この妄想だけは、他よりも鮮明に思い浮かぶ。何年も繰り返してきたから当たり前だ。
橋脚の根元が川の増水で削られ、橋全体が傾いている。このままでは、次の大雨で崩れ落ちてしまう。
俺は魔法で流れを一時的にそらし、土を隆起させてせき止め、作業箇所の水を抜く。
橋脚の土台を一度掘り返し、地中へ根を張るような構造に補強してから埋め戻す。
妄想の中の俺は、思うがままに生きていた。
誰かに指示されたから動くのではない。
自分で課題を見つけ、自分でやり方を考え、自分の手で何かを成し遂げている。
条件さえ違えば、と毎回思ってしまう。
才能さえあれば。
機会さえあれば。
女神様が、特別な力でもくれれば。
俺だって、今のようにくすぶらずに済んだかもしれない。
そんな、たらればばかりを考えてしまう。
そのとき、妄想の中の空が白く光った。
妄想にしては明るすぎるな。
そう思ったときには遅かった。
◇
視界が真っ白になり、次の瞬間、世界がゆっくりと回った。
空。
電線。
家の屋根。
道路。
視界の端に、道路脇のカーブミラーが入った。
薄く曇った丸い鏡に、トラックが映っている。
その前で、「く」の字に折れた男が宙に浮いていた。
自分の身体を見ているはずなのに、鏡の中の男は奇妙なほど小さかった。
他人の事故映像を眺めているようで、現実味がない。
トラックの色は分からない。運転手の姿も見えない。ナンバープレートも読めなかった。
ただ、白い光だけが背景を埋め尽くしている。
ああ、と思った。
これは、たぶん、そういうことなのだろう。
最後に浮かんだのが、恐怖でも後悔でもなく、その程度の感想だったというあたりが、俺の人生をよく表している気がした。
◇
目を覚ますと、白い空間にいた。
どこまでも白い。床と壁の境目も、影も、遠近感もない。
近くを見ても遠くを見ても、同じ白さが同じ距離にある。
自分の身体さえ見えなかった。
手を上げたつもりでも、上げたはずの手は視界に入らない。
立っているのか、横になっているのかも分からない。
その空間の真ん中に、一つだけ、明らかに場違いなものが置かれていた。
俺が子供の頃に使っていた学習机だ。
天板の右端には、油性ペンで描いて消せなくなった下手なロケット。
ところどころに、消しカスが溶けてこびりついた灰色の汚れ。手前には、コンパスの針で開けた小さな穴が三つある。
退屈で仕方がなくて開けた穴だ。あとで母に見つかり、ひどく怒られた。
そのことは覚えているのに、母の顔はもうよく思い出せない。
二十年以上前に処分したはずの机が、そこにあった。
机の上には、自由帳が一冊置かれている。
表紙には、ひらがなと覚えたての漢字が混じった下手な字で、名前が書いてあった。
俺の字だ。
中身も覚えている。授業中に描いた、どこにもない町の地図。
川があり、橋があり、井戸があり、道の幅まで決めてあった。
城や竜は一度も描かなかった。描いたのはいつも村や都市の地図だった。
――白い部屋スタート。
――夢オチありきの、いわゆる脱出ものによくある形式。
――なるほど、ありふれたTRPGシナリオか。
「いえいえ、違いますよ」
頭の内側から声が聞こえた。
反射的に振り返ろうとして、振り返るための身体がないことを思い出す。
――誰だ?
「あなた方の言葉で表現するならば、女神でしょうか」
穏やかな女の声だった。右でも左でも、前でもない。
音として届くのではなく、文章がそのまま思考の中へ入り込んでくる。
――ここは、どこですか?
――俺は……死んだのですか?
「はい、そうです」
「あなたは、輪廻転生というものをご存じですか?」
――まあ、人並みには。
「そのようなものだと思ってください。要は、量産型転生もののシナリオライティングの賜物なのです」
――急にメタなことを言いますね。
「まあ、そう言わずに」
女神は軽く笑った。
妙に人間くさい笑い方だった。
神という言葉から連想する荘厳さなど、どこにもない。
気さくな隣人と立ち話をしているような気安さがある。
死んで、白い部屋へ来て、女神が現れ、転生を告げられる。
俺が何百回も頭の中で並べた順番、そのままだ。
「おめでとうございます。あなたが生前、妄想し続けた異世界転生ですよ」
女神は、これから俺が行く世界について説明を始めた。
剣と魔法があり、中世に近い暮らしをしていること。
人間以外にも、知恵ある種族がいること。
いくつもの国があり、女神と、その下に神々がいること。
人間の使う魔法は、十の位に分かれていること。
空には月が二つあること。
俺が生まれる国と家族、新しい身体、そして与えられる特別な力について。
それで終わりだった。
物語の導入としてなら少し長い。
だが、人生ひとつ分の説明としては、あまりにも短くないだろうか。
一度とらえた読者を逃がさないためとはいえ、これではイントロダクションとして不十分で不親切ではないか。
仕方がないので、物理的に存在するかも怪しい、文字どおり無い頭をフル回転させ、情報を仮定することにした。
魔法の十の位というのは、火とか水とか、そのあたりだろう。
月が二つあることも、異世界ならそんなものかと流した。
――国がいくつもあるって、どういう区切りなのですか?
――言葉は通じるんですか?
――文字は? 貨幣は?
「そのあたりは、行ってから覚えたほうが早いですよ」
――宗教は? あなたが主神であれば、その下に神々がいるのでしょう?
――教義は? うっかり変なことをしゃべって火炙りにされたくないんですけど……
「大丈夫です。あなたは信心深い方に見えます」
あまりにも投げやりではないか。「いい感じに仕上げといて」という発注が一番困るのだが。
少し考えて、まあ、そういうものかと一旦納得することにした。
異世界転生ものの導入など、だいたいこんなものだ。
細かい事情は、現地で少しずつ知ればいい。
最初から全部説明される物語など、読者諸君も退屈だろう。
設定資料集を読んでいるのでもあるまいし。
「あなたは、十歳ほどの少年として生まれ直します」
地方都市に住む商家の息子。家業は石材。
父親と数人の使用人がいて、暮らしに困ることはない。
命を狙われるような家柄でもないという。
「母親は、あなたをお産みになったときに亡くなっています」
――そうですか……
女神は、それ以上何も言わなかった。
さっき、俺は自分の母の顔を思い出せなかった。
新しい人生にも、思い出せる母の顔はないらしい。
――それで、俺は何をすればいいのでしょう。
――魔王でも倒せばよいのですか?
「いいえ。特に何も」
「世界を救えとも、誰かを倒せとも申しません」
「あなたの世界の知識や文化を広めていただいても構いません」
「あなたがよいと思うことを行ってください」
妙な話だ。力を与える側には、普通、何かしらの目的がある。
魔王を倒せ。教えを広めろ。世界を救え。
天から力を与えられた者には、たいてい使命が課される。
『大いなる力には、大いなる責任が伴う』というやつだっただろうか。
だが、そのときの俺には、使命がないことがただ嬉しかった。
「あなたに与えるのは、想像した現象を、そのまま魔法として実現する力です」
「あちらの魔法使いには呪文や道具が必要ですが、あなたには必要ありません。望む結果を具体的に思い描いてください。それだけで、あなたは魔法を使えます」
具体的に、という一言だけが、ほんの少し引っかかったが、そのときの俺は都合よく読み飛ばした。
魔法のある異世界。
想像したとおりに使える力。
十歳の子供。
石材を商う家の息子。
母とは死別。
父と使用人のいる家。
使命はなく、前世の知識も持ち込み自由。
図面ばかり描いて生きてきた男の行き先が石を扱う家というのは、俺にとってあまりにも都合がよかった。
都合がよすぎるものには裏がある。
それくらいは分かる歳だ。だった、と言うべきか。
しかし、裏を読むには判断材料が足りない。
この短い時間で聞かされた説明だけでは、何をどう疑えばいいのかさえ分からない。
おまけに、これ以上は質問させないという圧のようなものを、さっきから感じる。
情報は出し切ったのでさっさと次の場所へ移動してほしい――そういうときのゲームマスターと同じ類の圧だ。
諦めて、次の会話パートへ進むことにしよう。
我思う、故に我あり。えらい哲学者もそう言っていた。
検証できない現象について延々と考えるより、ひとまず事実として飲み込むほうが賢い。
……たぶん、そういう意味だったはずだ。
――分かりました。
「物分かりのよい人は好きですよ」
「ですが、次の人生では、もっと能動的に、有意義に過ごしてください」
胸に刺さった。
生前、何度も自分に言い聞かせ、そのたび実行できなかった言葉だった。
「では、早速――」
――待ってください。
「はい?」
聞きたいことは山ほどあった。
そのどこから手をつけるかで、今後の人生が大きく変わる気がした。
なにか重要なイベントフラグを引き出せていない気がする。
長年のTRPGプレイヤーとしてのカンが警鐘を鳴らしている。
――もう一度、あなたに会うにはどうしたらいい?
女神は、少し間を置いて答える。
「満月祭の夜に、祈りを捧げてください」
思ったより簡単だ。
祭りなら日付が決まっているだろう。着いてから誰かに聞けばいい。
そう安心しかけたところで、先ほどの説明が一つ引っかかる。
――待った。
――月は二つあるって……どっちの満月に行われる祭りですか?
答えはなかった。
白い光が強くなる。
「では、お行きなさい。よりよい人生を送り、自分自身を――ひいては世界を、よりよくするのです」
――待って。まだ質問が
風もないのに、自由帳のページがめくれる。
真っ白だったはずの最後のページに、文字が浮かび上がる。
見たことのない図形だ。象形文字にも、二次元コードにも見える。
線の引き方も、並び方も、俺の知っているどの言語とも違う。
それなのに、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
『起動を開始します』
◇
顔を硬いものにぶつけて、目が覚めた。
床だった。寝台から転げ落ちたらしい。
先ほど口づけた床に手をつき、腕に力を入れる。
起き上がろうとして伸ばした手は、どう見ても子供のものだ。
扉が勢いよく開き、誰かが駆け込んできた。
中年の女性だ。何かを叫んでいる。
聞いたことのない言葉。しいて言えば、イタリア語やスペイン語に近い発音だろうか。
今まで日本語しかできなかったはずの俺にも、意味は分かった。
――坊ちゃま。
――ああ、お目覚めになった。
――誰か、旦那様を。
――お医者様を呼んで。
女性は手にしていた水盆を、慌てて床へ置く。
洗顔用らしく、なみなみと張られた水が大きく揺れ、俺の顔に少し飛沫がかかる。
徐々に波紋は収まり、水面に見知らぬ顔が浮かぶ。
明るい髪。十歳ほどに見える幼い顔。
目の形も、鼻筋も、口元も、これまで見慣れた自分の顔とは何ひとつ似ていない。
知らない異国の少年の顔だ。
それでも、見た瞬間に理解してしまう。
水面の少年が、俺と同じように目を見開く。
これが、俺の顔なんだ。




