【魔法少女リリカルなのは】「第6話わかりあえない気持ちなの?」感想と考察
【感想】
序盤がだんだんシリアス寄りの演出になっていることが、物語が佳境に進んでいることを感じる一つの要因となっていて良かった。
構成も綺麗だった。
「なのは」が魔法少女という秘密を抱えているため、「なのは」の友達であるアリサがやりきれない気持ちを感じたり、すずかが心配してしまう様子を時間をとって描写してくれていて、そこが個人的には良かった。
3人の過去が掘り返されていく中で、「なのは」の強さが伝わった。そしてそれによって、アリサとすずかが「なのは」への不安や蟠りを一旦落ち着かせられる要因になるし、「なのは」が同じ魔法少女であるフェイトへ問いかける言葉の背景にもつながっている。
綺麗な構成で、過去と現在、学校での友達と魔法少女での宿敵、という関係性に在るつながりがよく見えたと思う。以上が第6話で感じた私の感想です。
【考察 ①冒頭のシリアスな演出の意味】
第5話にも若干見られたのだが、冒頭で若干シリアスな演出を入れることが第6話でも行われていた。暗い雰囲気の環境音を流したり黒い配色の画面にしていたりである。
これが意味することは感想でも書いた通り、直感的にはシリアスさを持たせるためだと思われる。
よりアニメ全体を俯瞰して考えるならば一種の変化をつけた、もしくは第二部のような感じで区切りをつけるためでないかとも窺える。
実際、第四話までは主に日常生活を送る「なのは」が魔法少女という存在を知って、その目新しい存在に戸惑いながらも彼女なりに魔法少女として対応していく様子が描かれた。第五話からは宿敵フェイトとの出会いから魔法少女としての信念や目的、魔法少女である自分への想いなどを考えたり言葉にしたりする様子が見られた。
日常と魔法少女から、魔法少女と私、というようなテーマの変化が背景にあるのではないだろうか。
よって、構造的に第五話あたりで第二部に入ったように捉えるのも不自然ではないだろう。
そのため冒頭での演出でシリアス寄りの要素を採用したのも構造的に納得できると思える。
【考察 ②繋がりについて】
感想でも浅く書いたのだが、この第6話では「つながり」が意識されていたように思う。過去と今の繋がり。友達と宿敵の繋がり。しかしそれらに共通することがある。それは「なのは」が主体であることだ。
すずかとアリスとなのは。3人の出会いの思い出がこの第6話では大きく語られた。気の弱いすずかが大事なカチューシャをアリスに取られた時に、「なのは」が率先して前に飛び出しアリスの頬を打ったのだ。
「痛い?でも、大切なものをとられちゃった人の心は、もっともっと痛いんだよ」
アリスの頬を「なのは」が打った時に「なのは」がアリスに向けて言った言葉である。この言葉には自分よがりで周りを見れなかったアリスへの説教の意味もあるが、より深い部分としてはこれを小学校一年生にして言える「なのは」の精神の強さである。
普通、小学一年生にしてこのような言動が取れる人は大いに限られてくる。しかし、フェイトの使い魔アルフによると「そこまで頭も良くなさそうだ。」と言われていることから単純に頭が良かったからというのが理由ではなさそうだ。
すると、そこまで神童でもない「なのは」がなぜこんな言葉を言えたのか、という問いが生まれる。
そして畢竟、答えは案外単純だ。
私が考えた答えとしては、「過去に自分もそういうことを経験したから身にしみて覚えていた。」である。
第6話で「なのは」の兄が『なのははいつも一人で悩んでいた。だから今回も「なのは」なら自分で解決できるはずだ。』というような言葉をすずかの姉に話していた。
具体的描写として「なのは」の過去が語られているわけではないのだが、そういう風なことが実際に彼女にはあったのかもしれないということを考えながら視聴するのも面白いと思う。
ちなみにこの言葉は、第一話から現在までの「なのは」の行動も色濃く説明しているように思う。いわゆる「なのは」を構成する背骨のような言葉であるという意味だ。もう一度載せる。
「痛い?でも、大切なものをとられちゃった人の心は、もっともっと痛いんだよ」
ジュエルシードは願いの強さだけ強くなる。これはレイジングハートでも同じだ。
願いと大切なものはよく似ている。人がそれに抱く思いの強さだ。
それを邪険にされたり奪われることは、魔法少女として物理的に怪我を負うよりももっともっと痛いはずだ。
魔法少女にとって最も痛いのは、戦いで負う傷ではなく、戦いで失う思いなのかもしれない。そういう言葉を間接的に示しているのかもしれない。少なくとも、この頃から今の「なのは」に至るまで一本の柱が通っているように思える。
…本当の痛みは目に見えるものじゃない。
【考察 ③戦闘中につぶやかれた本音】
「どうしてそんなに、淋しい目をしてるのか」
「なのは」が戦闘中のフェイトに向けて放った言葉である。
この直後に、「言葉を使わないと伝わらないものもある」、というふうな言葉がつながっていくのだが、この上の文章だけをまずは考えてみたい。
「どうしてそんなに、淋しい目をしているのか」
これは「なのは」がフェイトに感じた感想をそのまま言葉にしたように思われる。実際、口には出しておらず心の声として流れたからだ。そしてまた、フェイトを突き放すような言葉のようにも感じられる。
相手に尋ねる言葉であったのなら、語尾は「〜なの?」などになるはずである。「〜しているのか」では、問いになっていない。いや、問いにはなっている。けれど相手が答えやすい問いにはなっていない。そのせいなのか、これを聞いたフェイトは一瞬戸惑った顔をしていた。
「淋しい目」というのをフェイト自身が自覚をしたことがなかっただけでなく、幼くてぬくぬく生きてきたはずの「なのは」が突き放すような言葉を自分に言ってきたことにフェイトは少し驚いたのかもしれない。
そしてその後、「なのは」は「言葉にしないと伝わらないものもある」と言って、フェイトに手を委ねた。
結局はアルフに邪魔をされるのだが。
そうしてこれらの考察を俯瞰してみると、私の考察に大きな間違いがあることに気づくはずだ。
最初、私は、「突き放すような言葉」と言ったが、その後、「なのは」はフェイトと話すための足掛かりとなる言葉を言ったと説明している。これでは大きな矛盾があるのではないか?
『突き放す』と、『対話を求める姿勢』にズレがあるだろうということである。
確かにその通りだ。しかし私はこうもさえ思う。
どちらも両立しているのだ、と。
そして演出の細部に注目してほしい、と。
「どうしてそんなに、淋しい目をしてるのか」は「なのは」が声に出さずに心の中で思った言葉である。
「言葉だけじゃなにも変わらないって言ってたけど、話さないと、言葉にしないと伝わらないこともきっとあるよ」は、実際に「なのは」がフェイトに向けて言った言葉である。
つまり、実際に言ったか言っていないかという観点において大きく違うのだ。
突き放すような言葉を心の中で思っている「なのは」だが、表ではフェイトと対話しようという思いがこもった言葉を置いている。
『本心では怖いが、それでも話さなければいけない』という思いを抱えて、「なのは」は危険を顧みずにフェイトに歩み寄ったのではないか。
そしてこれは、アリスとすずかと「なのは」の出会いのシーンと一致するではないか。
小学校一年生。
カチューシャを取られて悲しむすずかを見てバカにするアリス。そんなアリスの頬を叩いて悲しさを説く「なのは」の顔には確かに怯えが見えた。不安もあった。恐れもあった。
けれど行動した。だから友達になれた今がある。
それを知っている「なのは」だからこそ、フェイトに対して勇気を出したのではないだろうか。
その後仲良くなれる未来を思って。
【総評】
重要な場面では、行動の背景に多くの場合緻密な感情の揺れがあります。それを複数視点から解きほぐすことでより深い背景がのぞけます。もちろん出した答えが正しいかどうかは保証されませんが、【考えて察する】という名目であるならば許されるでしょう。




