【魔法少女リリカルなのは】「第三話 街は危険でいっぱいなの?」感想と考察
【初めに】
私は「なのは」について詳しいのではなく、今アニメ本編を初めて視聴しています。そしてその都度、感想や考察を書き連ねていくというスタイルで書いております。そのため、作品全体のテーマやポリシーなど、全話見終わった後でわかる要素と本文が大きくズレている可能性があります。あくまでもこの文章で特に読んで欲しいのは、初視聴者としての純粋な感想と考察であります。
【感想】
背景の作画がなかなか独特で面白いなという皮肉の混じった感想と、やはり変身シーンがレベル高いなぁという思いと、そしてユーノは「なのは」のパンツを見過ぎであるという雑多な感想である。
作画の話と変身シーンはもちろん考察の部分で深掘りさせてもらう。一方でユーノの覗きに関してはここで言わせてほしい。
「なのは」は小学三年生なんだろう?
なぜ子供の着替えで赤面するんだ???
もしや意識しているのか? …ユーノは。
あと、最後「なのは」がある決断をするシーンの時も、直立している「なのは」のそばで下から覗き上げるようにユーノがちょこんと見上げているのだが、それはわざとなのだろうか??
ユーノはキュウベェのような害悪モンスターではない可能性が今のところ極めて高いが、ロリコンだったのであれば重罪だろう。
…と、不真面目な感想はここらへんで置いておいて、ここからは健全に真面目で論理性の高い考察を展開していく。
【考察】
この第三話は初めてジュエルシードを人間が使い、街を壊滅状態になり、そうして「なのは」が自分の意思で魔法少女を全うするということを決意するという構成だ。
良い点として、「なのは」の心境の変化が分かりやすく、「なのは」の魔法の才能のあまりの高さにユーノが驚いた理由も明確で、意図はかなり伝わりやすかったと思う。
第一話と第二話で描いていたのは大きく三つある。
魔法少女とは何か
小学3年生としての「なのは」の日常
魔法の才能が「なのは」にはある
第三話で注目したいのは主に三つである。
ジュエルシードとは何か
魔法少女としての「なのは」の日常
魔法の才能が「なのは」にはある
大きく変わってはいない。けれど完全に同じではない。今回、ジュエルシードの説明が加わっただけでなく、最も見るべきは魔法少女としての「なのは」である。
魔法少女としての「なのは」に注目した理由としては、複数あるので順に示して行きたい。
まず、自分のミスで街を壊滅状態にさせてしまったことから若干小学3年生にして魔法少女の責務の重みを感じる。なぜ自分は魔法少女になることを許したのか?『お手伝い』ではなく、自分の意思で魔法少女をしようと決意するというシーンが第三話での中核だ。
このように、第一話第二話では魔法少女という存在に振り回されていた彼女が、ついに自分の足で立つことを決めた重要なシーンがこの第三話の中央に置かれているため、私は注目すべき点にこの点を挙げた。
一方で、その代わりに小学3年生としての「なのは」という要素は第三話ではさほど重要でなかったように思う。けれどこの第三話では父がコーチをしているサッカーの試合に応援をしに行ったり、喫茶店で友達とティータイムをしていたりする。
ではなぜ私はそこに注目しなかったのか?そこにももちろん、理由がある。
それは、シーンの存在の有無と意味の有無は別物であるという考えからだ。
確かに小学3年生としての日常を描いたシーンは第三話でも存在する。しかし、この第三話では小学3年生としての「なのは」を書こうとして書いているのではないと私は考えている。
野球観戦ではキーパーの男の子の活躍を見せるため。喫茶店ではジュエルシードを握ったその男の子と並んで歩く金髪のマネージャーの恋模様を見せるためであると考えている。なぜそう考えられるのか?
野球において「なのは」は勝利側のチームにも敗者側のチームにも属していない。応援席で静かに座っているだけだ。喫茶店でみんなで勝利の喜びを祝う。しかし「なのは」たちは祝福の場から離れた屋外のテラス席に座っていた。
つまり「なのは」自身が今回の日常シーンでの主体ではなかったのだ。代わりに、ジュエルシードで被害を起こす二人が主役であった。
さらに踏み込んでいうと、喫茶店のテラス席で解散した「なのは」は父と共に家に戻り、ごろごろするという選択肢を取った。これは小学3年生としての「なのは」が始まるサインのようにも思える。けれど実際、その後「なのは」は父の呼び止めも拒否して魔法少女としての任務を遂行するために家を飛び出した。そこに小学3年生の「なのは」はいない。
小学3年生としての「なのは」の描写の少な猪に対して、魔法少女としての「なのは」の印象的な決意のシーンが引き立っていたからこそ、今回私は、魔法少女としての「なのは」を描こうとしたのであろうと感じたわけである。
【考察2】「ジュエルシードとは何か?」
この問いはアニメ本編に答えがある。それは、ユーノの「強い思いを持った人間が発動させた時、ジュエルシードは一番強い力を発揮するから」という言葉である。
サッカークラブのキーパーがマネージャーに好意を抱いていて、信号待ちの時にジュエルシードを綺麗な石としてマネージャーにプレゼントしようする。その好意という強い思いによりジュエルシードが覚醒したのだが、その覚醒が以前と比べて遥かに強かった理由の説明にもなっている。
そしてこの文章は新房昭之の後年の魔法少女作品である「魔法少女まどかマギカ」での魔法少女から得られるエネルギーの説明にもなっている。
[“ソウルジェムになった君たちの魂は、燃え尽きてグリーフシードへと変わるその瞬間に、膨大なエネルギーを発生させる”]
この仕組みはおそらく共通しているのだと読み取れる。
そしてこれはジュエルシードだけではないと実は私は思っている。ここからはどうしても確証に至れる証拠がないため空想論になってしまいがちだが、あくまで現時点での予想として残しておきたいと思う。
それは、先ほどの共通した仕組みは「なのは」における魔法少女にも適用されているのではないかという話である。
説明では、ジュエルシード限定のようになっているが、強い思いで発動させているのは「なのは」も同じではないだろうか。
第三話ではそれが特に顕著だった。ユーノがその距離からでは届かないと忠告するが「なのは」はそれを無視して「できる!」と言い続ける。その後ステッキの形状さえ変形させて長距離魔法を使った。そもそもユーノは紛れたジュエルシードを見つけることさえほぼ不可能だと言っていたのに、「なのは」はサーチ系統の魔法陣を描いて見つけることに成功している。
それらは、「なのは」自身の「できる!やる!」という強気の思いが関係しているからではないだろうか。するとこの強気の思いが、彼女が魔法少女たりえるために必要なレイジングハートの真価を発揮させていることに一躍買っているのではないだろうか。
さらに第三話で「なのは」が魔法少女を自分の意思で続けるぞと決心して終わっているため、この考えで進めると「なのは」はより強い思いを持つことでより強くなると考えられるがどうだろう。
この考えについては第四話第五話あたりを見て更新して行きたい。
【自我強めの感想】「作画について」
正直な感想を言わせてほしい。
変身シーンは今でも引けを取らないほど圧巻の作画力だし演出も神がかっている。それは真実だ。
けれど背景の描写やジュエルシードから発生した敵に対する作画はかなり悪いと言える。
今回の大目玉であった、人間の強い思いから発せられて生まれた巨木の怪物や、「なのは」が心を打たれる対象である、崩壊した街の惨劇などといった重要な存在の作画がことごとく荒かったように思う。
そのせいで、「なのは」が実力不足で被害を防ぐことができなかったせいで、これほどまでに大きな被害を周りに与えてしまったという絶望への理由づくりの質が大きく損なわれてしまっている。
本来、魔法少女を背負う覚悟や責任をこの失敗のシーンで重く描写することで、最後の決心の力強さが強調される。けれどこの作画はその狙いに適していない。
さらに、最後「なのは」は砕けた道路を一緒に歩く二人のマネージャーとキーパーの背中を見て責任を感じるのだが、これも演出という面ではあまり良いとは言えない。
このシーンでは「なのは」や我々視聴者にマイナスの感情を想起させる必要があるのに、なぜ二人は一緒に帰っているのだろう。
砕けた道路の上でも二人で一緒に歩く姿というのは不屈の魂、切れない繋がりとして肯定的に受け取られても自然だ。
もし私があのシーンを担当するのであったら二人はあの騒動のせいで別れてしまって別々の道を帰っているようにする。そのほうが、取り返しのつかない事をしてしまったというのが鮮明になるように思う。
「なのは」の魔法少女への向き合い方の変化というのは素晴らしいのだが正直言って、それに至った経路が最悪と言っていいほどに荒すぎた。
…というような感想で今回の記事を終えるのは流石に酷というものなので、私なりに第四話への明るい展望で筆を置かせていただきたい。
【展望】
第一話を見る前から黒い服に金色の髪のもう一人の魔法少女をずっと楽しみにしていたので、第四話で登場すると聞いて興奮している。
また、OP曲とED曲が本当にどちらも素晴らしく、思わず口ずさんでしまいたくなるようなメロディ、作品のテーマを立ち上げた歌詞に毎度驚かせられる。
また同級生の子もみんな可愛いので、彼女らの活躍にも期待している。




