第18話 誰の責任でもない
エリオ・クレインは、報告書を三度読み返した。
被験区域、個別経過報告。
対象者:マルタ。
評価:問題なし。
行動遅延は誤差範囲。
認知反応は基準内。
生活影響、確認されず。
どの項目にも、赤はない。
――それなのに。
エリオは、端末を机に置いた。
違和感は、記録の外側にあった。
だが、それを「違和感」と呼ぶこと自体が、ここでは許されない。
会議室には、数人の職員が集まっている。
その中に、ヴァイス=ヘルツの姿もあった。
「現状を整理しましょう」
ヴァイスは、穏やかな声で言った。
「異常は出ていません。事故ではありません」
誰も反論しない。
エリオは、口を開いた。
「……被験者本人が、変化を感じています」
それは、勇気を振り絞った発言だった。
ヴァイスは、すぐに視線を向ける。
「主観的な感覚ですね」
「はい」
エリオは頷く。
「ですが……以前にはなかった反応です」
沈黙が、数秒流れる。
その沈黙を破ったのは、ヴァイスだった。
「それは、進行ではありません」
言い切りだった。
「手順は正しく運用されました。ログも、数値も揃っている。だから――」
彼は、少しだけ言葉を選ぶ。
「それは、誰の責任でもありません」
その言葉が、エリオの胸に重く落ちた。
責任がない。
つまり、対処の必要もない。
「……では」
エリオは、声を抑えながら続けた。
「もし、このまま進んだら?」
ヴァイスは、首を傾げる。
「進む、とは?」
「変化が、ゆっくりと積み重なった場合です」
その問いは、仮定だった。
だが、エリオの中では、すでに現実に近い。
ヴァイスは、落ち着いたまま答える。
「その場合でも、基準を超えた時点で対応します」
「基準を……超えなければ?」
エリオの声が、わずかに震えた。
ヴァイスは、はっきりと答える。
「超えなければ、問題ではありません」
正しい答えだ。
制度として、これ以上ないほど正しい。
会議は、それで終わった。
結論は出た。
何もする必要はない。
エリオは、自席に戻り、しばらく動けずにいた。
リア・ノートが、そっと声をかける。
「……言いましたね」
「言っただけです」
エリオは、力なく答えた。
「でも、何も変わらない」
リアは、何も言わなかった。
言葉にできないことを、彼女も分かっている。
エリオは、ふと、自分の手を見た。
この手で、手順を実行した。
この手で、ログを確認した。
すべて、正しく。
それなのに、誰かが少しずつ変わっている。
それを止められない。
止める理由も、示せない。
――じゃあ、俺は、何をしている?
その問いに、答えは出ない。
夜、エリオは一人で施設を出た。
気づけば、神殿の前に立っていた。
石像は、静かにそこにある。
祈る人はいない。
管理され、隔離され、背景になった存在。
「……あなたなら」
思わず、声が漏れた。
「責任を、取れたんですか」
返事はない。
当然だ。
石像は、動かない。
だが、エリオは初めて理解した。
この石像は、
責任を取らされていた存在だったのだと。
事故が起きれば、神のせい。
奇跡が起きれば、神の御業。
今は違う。
誰の責任でもない。
だから、誰も止めない。
エリオは、拳を握りしめた。
正しさが、ここまで人を追い詰めるとは、
思っていなかった。
その夜、被験区域では、また一日が過ぎていった。
事故は、起きなかった。
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