第9話 閉じた工房
「西の織物工房を閉じるのですか? そんなに急に?」
「原料が入らない。入っても今の値段では赤字がさらに膨らむ」
「なら、商品の値段を上げれば」
「売れなくなる」
「では人を減らして――」
「減らしたところで足りん」
父は目を閉じた。
「百七十三人だ」
「え?」
「西工房で働いている人数だ」
ディグセンは黙った。
「その家族まで含めれば、五百人近い人間があの工房の収入で暮らしている」
「……ですが、一つだけでしょう?」
乾いた音が、執務室に響いた。
顔が横を向いた。
頬がじんじんと熱を持ち、口の中に鉄の味が広がる。ディグセンは呆然と父を見た。
「……父上?」
「一つだけ、だと?」
父の右手が、まだわずかに震えていた。低い声だった。
「今、その一つで、家族まで含めれば五百人近い人間が暮らしていると言ったばかりだぞ」
「……」
「二度と、一つだけなどと言うな」
三日後。西工房は操業停止を発表した。
その日。父は一日中、執務室から出てこなかった。ディグセンは夕食の席で一度だけ姿を見た。いつもより疲れて見えた。けれど。工房一つだ。事業はいくつもある。西工房で働いていた者たちだって、別の仕事を探せばいい。そう考えていた。
*
「マリア、ワポーレ家の西の織物工房が閉鎖されたそうだ」
父からそう聞かされたのは、朝食を終えたときだった。
「……そうですか」
私はそれだけ答えた。
部屋に戻り、机の引き出しから一枚の布を取り出した。東の織物工房で作られた試作品だ。
最初に送られてきたものは、織り目が粗く、染めにもむらがあった。それでも職人たちは何度も改良を重ね、ようやく王都の高級衣料店へ持ち込めるところまで仕上げてくれた。
私は布を広げた。
手触りも、色合いも悪くない。これなら売れる。そう思っていた。けれど、もう試験販売が行われることはない。
西の工房が閉じた。東の工房だって、決して余裕があるわけではない。
布を丁寧に畳み、引き出しへ戻した。
西の工房で働いていた人たちは、これからどうするのだろう。
*
数日後の朝、ディグセンは父に呼び止められた。
「領地へ行け」
「領地へ?」
「ああ」
「何をしに?」
「西工房を見てこい」
「閉じた工房をですか?」
「そうだ」
「なぜ?」
父がディグセンを見る。
「いいから見てこい」
それ以上聞ける雰囲気ではなかった。ディグセンはその日のうちに領地へ向かった。
馬車が領都へ入る。昔と変わらない街並み。そう思った。だが、進むにつれて違和感を覚えた。
「……人が少なくないか?」
御者に尋ねる。
「そうでございますか?」
「前はもっといた気がする」
「冬が近いですから」
「そうか」
なら気のせいだろう。馬車が西工房の前で止まった。
大きな門は閉じられている。以前なら朝から夕方まで聞こえていた織機の音が、一つもしない。静かだった。
「……」
ディグセンは馬車を降りた。何を見るでもなく、門の前に立つ。閉じた。その言葉は聞いていた。だが、実際に目にすると妙な感じがした。大きな建物がある。織機も中に残っている。なのに誰もいない。
「若様?」
声をかけられた。振り返る。五十代ほどの男だった。
「誰だ?」
「こちらの工房で働いておりました、スタッツと申します」
「ああ……」
覚えていない。
「何か?」
「いえ。若様がいらっしゃるとは思わず」
男は頭を下げた。その足元には大きな鞄が置かれていた。
「どこかへ行くのか?」
「隣の領へ」
「ああ……」
そうか。工房が閉じたのだから、ここに残る理由もない。
「仕事を探しに?」
「いえ。向こうの工房で働けることになりました」
「そうか。それはよかったな」
「はい」
「家族は?」
「一緒です」
「全員?」
「はい」
男は少し先を指した。荷馬車が一台止まっている。妻らしき女性と、二人の子供が乗っていた。荷台には家具や箱が積まれている。椅子。食器。毛布。小さな棚まで。旅行ではない。家ごと移るのだ。
「家も引き払うのか?」
「はい。戻る予定もありませんので」
「戻らない?」
「向こうで働けるなら、その方がよいかと」
「そうか……」
男は頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
「いや……」
何と答えればいいのか分からなかった。
「では」
男が歩いていく。二人の子供が荷馬車から父親へ手を振った。男も手を振り返す。やがて荷馬車が動き始めた。領都の外へ向かっていく。
「……」
別の家族もいた。その向こうにも。荷車に荷物を積んでいる。若い夫婦。老人を乗せた家族。一人で大きな鞄を背負った若者。
ディグセンは御者に声をかけた。
「今日は何かあるのか?」
「何か、と申しますと?」
「大荷物を抱えた者がやけに多い」
御者が黙った。
「答えろ」
「……西工房が閉じてから、仕事を求めて他領へ移る者が増えております」
「そんなに?」
「はい」
「別の仕事を探せばいいだろう。この領地にも仕事はある」
「もちろん探していると思います」
「なら――」
「ただ」
御者が言いにくそうに続けた。
「他の工房も、人を増やせる状況ではないと聞いております」
ディグセンは閉じた門を見る。一つだけ。そう言った。一つの工房が閉じただけだと。
百七十三人。帳簿で見た時は、ただの数字だった。けれど。その一人一人に家族がいる。家がある。生活がある。工房が閉じれば、それも動く。
「……次は?」
「はい?」
「他に閉じる予定の工房はあるのか?」
「私には分かりません」
「そうか」
屋敷へ戻る途中。以前、何度か立ち寄ったことのある食堂の前を通った。扉に紙が貼られている。
「止めろ」
馬車を止めさせる。
「どうされました?」
「あの店は?」
御者が見る。
「ああ……」
「何だ」
「今月いっぱいで閉めるそうです」
「なぜ?」
「西工房の方々がよく利用していた店ですので」
「……工房が閉じたから?」
「それが大きな要因の一つかと……」
ディグセンは紙を見る。長年のご愛顧ありがとうございました。それだけ書かれている。一つ。工房が一つ。それだけでは終わらない。
屋敷へ戻ると、父が待っていた。
「見てきたか」
「はい」
「どうだった?」
「……人が、出ていっていました」
「そうか」
「食堂も閉じるそうです」
「ああ」
「知っていたのですか?」
「報告は受けている」
「父上」
「なんだ」
「西工房は、再開できないのですか?」
「金があればな」
「借りれば――」
言いかけて止まった。借りられない。
「別の事業で利益を出せば」
「どの事業で?」
「……」
答えられない。父が一枚の書類を出した。
「来月、木工所も縮小する」
「縮小……ですか?」
「注文が減った」
「なぜですか!」
「最大の販売先だった王都の家具商が、契約を更新しなかった」
「どうしてです!」
「マドレーヌ商会が紹介してくれた取引先だ」
「契約を切れと言われたのですか?」
「違う」
父が即座に否定した。
「マドレーヌ商会からは何も言われていないだろう」
「では、なぜ?」
「向こうが判断した」
「どういうことです」
「今まであの家具商は、マドレーヌ商会との取引の一部として、うちの商品も扱ってくれていた。だが、その関係がなくなった」
「それだけで?」
「商売だ。利益が薄ければ切る」
「……またマドレーヌか」
思わず吐き捨てた。父の目が鋭くなる。
「何だ、その言い方は」
「何もかもマドレーヌ家じゃないですか!」
「ああ」
「そんなのおかしいでしょう!」
「何がおかしい」
「我が家の事業なのに!」
「だから?」
「なぜマドレーヌ家がいなくなっただけで、こんなことになるんです!」
父が立ち上がった。
「それをない頭で考えろ!」
「……」
「今まで誰が支えていたのか。なぜ支えてくれていたのか。なぜ今は支えてくれないのか!」
「でも、マリアは――」
「マリア嬢だ!」
父の怒声が響く。
「まだ分からんのか!」
「……」
「マドレーヌ家は何もしていない!」
「ですが――」
「保証を外した。婚姻を前提とした新規事業をやめた。それだけだ!」
父は机の上の書類を掴んだ。
「金融商会が条件を変えたのは、金融商会の判断だ!」
一枚。
「染料商が前払いを求めたのは、染料商の判断だ!」
もう一枚。
「家具商が契約を更新しなかったのも、家具商の判断だ!」
書類が机に落ちる。
「誰も我が家を潰そうとしてなどいない!」
「……」
「ただ、今まで特別だったものが、特別ではなくなっただけだ」
ディグセンは何も言えなかった。
「お前は侯爵家なら信用されると言ったな」
「……はい」
「間違ってはいない。侯爵家だからこそ、まだ金を貸してくれる者もいる」
父が椅子へ座る。
「だが、爵位だけで原料が安くなるわけではない。爵位だけで商品が売れるわけでもない。爵位だけで赤字が黒字になるわけでもない」
「……」
「それを補っていたのが、マドレーヌ家との繋がりだった」
ディグセンは、閉じた工房を思い出した。静まり返った建物。荷馬車に積まれた家具。領地を出ていく家族。
「父上」
「なんだ」
「俺は……」
言葉が続かなかった。父はしばらく待っていた。だが、ディグセンが何も言えないと分かると、静かに口を開いた。
「お前は彼女との婚約だけを捨てたつもりだったのだろう」
「……」
「違う」
父がディグセンを睨んだ。
「お前が捨てたものが何だったのか、これから嫌でも分かる」




