第10話 宙に浮いた婚約
アーカイブ子爵は、執務机の上に並べた二通の手紙を前に、腕を組んでいた。
一通はローデン男爵家から。もう一通はワポーレ侯爵領について調べさせた支配人からのものだった。
「……参ったな」
向かいに座る支配人が顔を上げた。
「ローデン男爵家との件でしょうか」
「それもある」
ティリエルとエルク・ローデンの婚約は、すでに正式に解消されている。娘が勝手にエルクへ婚約解消を申し出たあと、ローデン男爵家から確認の使者が来た。止めることも考えたが、すでにエルク本人が受け入れていた。
他に好きな男ができ、その男と結婚したいとまで言った娘を、今さらエルク殿へ押しつけるわけにもいかない。アーカイブ子爵は謝罪し、婚約解消を正式に受け入れた。
ローデン男爵は怒鳴り込んでくることも、法外な慰謝料を要求することもなかった。必要な手続きを済ませ、それで終わった。
ただし、これまで通りの関係が続くわけではなかった。
「こちらの契約も、次回から通常条件へ戻したいそうです」
支配人が別の書類を差し出した。
「……やはりか」
ローデン家とは、婚約以前から商売上の付き合いがあった。だが両家が将来親族になると決まってからは、いくつかの取引で互いに便宜を図っていた。倉庫の使用料。運送費。支払い期限。北部へ向かう荷の優先輸送。どれも婚約があったからこその条件だった。
「北部への輸送については、来期から他社を優先するそうです」
「当然だな」
「よろしいのですか?」
「何を言えというんだ。婚約を解消したのはこちらだぞ」
正確には娘が勝手に解消したのだが、家として受け入れた以上、それはもうアーカイブ家の決定だった。婚約がなくなった。だから婚約によって得ていたものもなくなる。それだけの話だ。アーカイブ子爵は二通目へ手を伸ばした。
「ワポーレの方は?」
「西の織物工房が閉鎖されました。金融商会から提示される条件も厳しくなっております。原料の仕入れにも影響が出ているようです」
「早いな」
「マドレーヌ家の保証が、それだけ大きかったのでしょう」
さらに報告書をめくると、職を失った者の一部がすでに領外へ移り始めていた。これだけを見れば、娘をワポーレ侯爵家へ嫁がせるなど正気の沙汰ではない。
だが、侯爵家にはまだ領地も資産もあるし、ワポーレ侯爵本人も無能ではない。立て直す可能性はある。問題は、そんな家へ娘を嫁がせるために、アーカイブ家が何を差し出すことになるかだった。
「旦那様」
「何だ」
「仮にワポーレ家から正式な婚約の申し入れがあった場合、いかがなさいますか?」
アーカイブ子爵はすぐには答えなかった。家格だけを見れば、娘にとって良縁だ。だが、多額の借金を抱え、さらに今回の騒ぎまで起こしているとなれば、話はまるで違う。
「……今すぐ、その話を受けることはできん」
アーカイブ子爵は低い声で言った。
「今回の騒ぎは、ティリエルにも責任がある。その二人を、マリア嬢との婚約が解消された途端に婚約させてみろ。こちらまでマドレーヌ伯爵家に喧嘩を売ったも同然だ」
「では、婚約については保留に?」
「ああ。少なくとも今はな」
アーカイブ子爵は報告書を指で叩いた。
「それと、仮にこの先婚約を認めることになったとしても、ワポーレ家を援助するつもりはない」
「持参金も、でしょうか」
「それは別だ。娘として必要な分は持たせる。だが、それ以上は出さん」
アーカイブ子爵は、以前ティリエルから聞かされたワポーレ家の借入額を思い出した。
「借金を肩代わりするつもりも、保証人になるつもりもない。商会の信用を貸すこともない」
「……承知しました」
「ティリエルの恋愛に、商会まで付き合わせる気はない」
その時、扉が叩かれた。
「お父様、今よろしいですか?」
「入れ」
ティリエルだった。支配人が一礼して席を立つ。
「お父様。ワポーレ侯爵様から、まだ何もありませんの?」
「ない」
「本当に?」
「何度聞かれても同じだ」
「でも、ディグセン様は私と結婚するとおっしゃったんです」
「それも何度も聞いた」
「でしたら、お父様から侯爵様へお話ししてくだされば――」
「できん」
ティリエルが目を瞬いた。
「……え?」
「私からワポーレ侯爵へ婚約の話を持っていくことはない」
「どうしてですの?」
「お前が自分で選んだ男だからだ」
ティリエルは意味が分からないという顔をした。
「エルク殿との婚約は、家同士で決めたものだった。だから私にも責任があった。婚約を整え、両家の商売を調整し、お前が嫁いだあと困らないよう準備する責任がな」
「でしたら、ディグセン様とも――」
「同じではない」
アーカイブ子爵は遮った。
「お前は私に相談もせず、エルク殿との婚約を捨てた。その上で、すでに婚約者のいる男を選んだ」
「ディグセン様は私を愛してくださっています!」
「それはお前たちの話だ」
「……」
「ならば、その先もお前たちでやれ」
ティリエルの顔が強張った。
「お父様は、私を助けてくださらないんですの?」
「何からだ」
「ですから……ディグセン様との結婚を……」
「お前はもう子供ではない」
アーカイブ子爵は静かに言った。
「自分で婚約を壊し、自分で男を選んだ。その選択まで父親に片づけてもらおうとするな」
「そんな……」
「それから、もう一つ言っておく」
机の上の報告書を閉じる。
「仮にワポーレ侯爵が婚約を認めても、我が家がワポーレ家の借金を保証することはない」
「え?」
「資金援助もしない。商会の信用も貸さない。取引先へ便宜を頼むこともしない」
「どうしてですの!?」
ティリエルの声が上ずった。
「私が侯爵家へ嫁ぐんですのよ?」
「だから何だ」
「嫁ぎ先が困っていたら、普通は――」
「マドレーヌ家が、ワポーレ家のためにどれだけの責任を背負っていたと思っている」
ティリエルが黙った。
「保証というのは、借金を返せなくなった時に代わりに払うだけではない。マドレーヌ家が後ろにいるとわかるからこそ、金を貸す者がいる。商品を先に渡す商人がいる。あの家は、自分たちの信用そのものをワポーレ家に貸していたんだ」
「……」
「娘を嫁がせるからといって、我が家がワポーレ家を支えるのが当然だと思うな」
「でも……」
「あれほどの借金を保証できる家など、王家かマドレーヌ伯爵家くらいのものだ。我が家が代われると本気で思っているのか?」
「……」
ティリエルは唇を噛んだ。
「では、私はどうすればいいんですの」
またそれだった。アーカイブ子爵は、今度は答えた。
「自分で考えろ」
「お父様……?」
「お前が選んだんだ」
ティリエルの目が揺れた。
「私はもう、お前の選択を正しいものにするために、家の金と信用を使うつもりはない」
ティリエルはしばらく父を見ていたが、やがて何も言ず、部屋を出ていった。扉が閉まる。入れ替わるように、先ほどの支配人が戻ってきた。
「よろしかったのですか?」
「よくはない」
アーカイブ子爵は深く息を吐いた。
「だが、もう甘やかす方がティリエルのためにならん」
そして、机の上の報告書を支配人へ差し出した。
「今後、ワポーレ家から商会へ援助や保証の話が来ても、すべて断れ」
「お嬢様が嫁がれた後も、でしょうか」
「ああ」
アーカイブ子爵は迷わなかった。
「娘一人の恋愛のために、我が家までワポーレ家と共倒れになるわけにはいかん」
支配人が静かに頭を下げる。
「それに、マドレーヌ商会に喧嘩を売ってまで助ける相手でもない」
「承知しました」




