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第7話 この国でもっとも大きな商会



「そんなに……?」


「私も驚きました。でも侯爵家ですわ。それにディグセン様は跡取りですし、領地だってあるのですから――」


「ティリエル」


 低い声だった。


「はい?」


「お前は、マドレーヌ伯爵家が何をしている家か知っているのか?」


「もちろんですわ。王都で大きな商会を経営していることくらいは知っています。でも、私たちは子爵家ですし、お父様だって商会をお持ちではありませんか」


「規模が違う」


「そうなのですか?」


 父が目を閉じた。


「王国で商売をする者なら、マドレーヌ商会と一度も関わらずに済ませる方が難しい」


「でも、ディグセン様は侯爵家ですわ」


「爵位の話をしているんじゃない」


 初めて聞くほど冷たい声だった。ティリエルは口を閉じた。


「ワポーレ侯爵家は、なぜマドレーヌ家に借金の保証をしてもらっている?」


「それは……」


「知らないのか?」


「ディグセン様からは何も」


「では、なぜそれほどの借金がある?」


「……」


「領地の収入は? 事業の利益は? 返済は?」


「お父様」


「何だ」


「そんなこと、結婚してから知ればよいことではありませんか?」


 父がティリエルを見た。信じられないものを見るような目だった。


「お前は、何も知らずに男爵家との婚約を捨てたのか?」


「捨てたなんて……」


「ローデン男爵家が、この数年でどれだけ商売を伸ばしているのかも知らないのか?」


「ですが、男爵家ですわ」


「……」


「ディグセン様は侯爵家です。どちらがよい縁談かなんて、考えるまでも――」


「商売をしている家の娘が、爵位しか見ていなかったのか」


 父の声が震えた。


「でも、お父様だって最初はローデン男爵家との婚約を――」


「あの家だから認めたんだ!」


 机を叩く音に、肩が跳ねた。


「ローデン家は爵位こそ男爵だが、運送と倉庫業を急速に伸ばしている。エルク殿も跡取りとしてすでに仕事を任されている。だからお前を任せても大丈夫だと思った!」


「……」


「それをお前は、私に一言も相談せず……」


 父はそこまで言って、深く息を吐いた。そして、何かに気づいたように顔を上げた。


「待て」


「……はい?」


「マリア嬢との婚約を解消すると、マドレーヌ家の保証がなくなる。それを知った上で、ワポーレ侯爵家はお前との婚約を認めたのか?」


「まだ侯爵様にはお会いしていませんわ」


「……何?」


「これからディグセン様がお話しになると思います」


「つまり、ワポーレ侯爵も知らない?」


「はい」


 父が固まった。


「では、誰の了承を得た?」


「了承?」


「お前とディグセン殿の婚約だ!」


「ディグセン様と私が愛し合っているのですから――」


「そんな話をしているんじゃない!」


 父が怒鳴った。ティリエルは思わず椅子の背に身を寄せた。


「お前は、マドレーヌ家の令嬢から男を奪ったのか?」


「奪っただなんて。ディグセン様が私を選んだんです」


「同じことだ!」


「ですが――」


「しかも、そのためにローデン家との婚約まで勝手に解消した?」


「……はい」


 父はしばらくティリエルを見つめていた。怒っているのだと思った。けれど、その顔から少しずつ怒りが消えていった。最後に残ったのは、ひどく疲れたような表情だった。


「……なんでこんな馬鹿に育ったんだ」


「お父様?」


「私のせいか……」


 父が額を押さえた。


「欲しいものは何でも買ってやった。嫌なことは無理にさせなかった。商会のことなど知らなくても、良い家に嫁げばいいと思っていた」


「何をおっしゃっているのです?」


「その結果がこれか」


 父は立ち上がった。


「お父様?」


「マドレーヌ商会との取引を全部調べる」


「なぜです?」


「今回のことで影響が出るかもしれん」


「私たちには関係ないではありませんか」


 父が足を止めた。


「……ティリエル」


 ゆっくりと振り返る。


「マドレーヌ商会と関わりのない貴族家など、この国にはない」


「え?」


「直接取引していなくても、仕入れ先、販売先、運送、倉庫、そのどこかで必ず繋がっている。我が家だって例外ではない」


「でも、私はただディグセン様と――」


「だから何度言えば分かる! 男の話をしているんじゃない!」


 父の怒声に、ティリエルは言葉を失った。


「お前が喧嘩を売った相手は、伯爵令嬢一人ではない。その後ろにいるのは、この国最大の商会を束ねるマドレーヌ伯爵家だ」


 父は吐き捨てるように言うと、部屋を出ていった。


 一人残されたティリエルは、まだ納得できなかった。ディグセン様は侯爵家の嫡男だ。私はいずれ侯爵夫人になる。エルク様と結婚して男爵夫人になるより、ずっといい。そのはずなのに。なぜか、茶会で聞いた借金の額だけが、いつまでも頭から離れなかった。


 翌日。父は朝から商会へ出ていた。昼になっても戻らない。夕方になり、ようやく屋敷へ戻ってきた父は、食事も取らず再び執務室へ籠もった。ティリエルは気になって、扉を叩いた。


「お父様?」


「何だ」


「まだお仕事ですの?」


「ああ」


 机の上には、見たこともないほど大量の書類が積まれていた。


「そんなに何を調べているのです?」


「昨日言っただろう。マドレーヌ商会との関係だ」


「何か問題がありましたの?」


 父は答えなかった。


「お父様?」


「直接の取引は三つ」


「三つだけでしょう?」


「直接はな」


 父が一枚の紙を持ち上げる。


「うちの倉庫を利用している商会の最大顧客がマドレーヌ商会だ」


 次の紙。


「うちが仕入れている南部の香辛料。その運送を請け負っている会社にもマドレーヌが出資している」


 さらに次。


「王都でうちの商品を扱っている店の土地は、マドレーヌ家の傘下の商会が管理している」


「でも、それだけで私たちとの取引をやめたりは――」


「分かっている」


 父が遮った。


「マドレーヌ伯爵は、そんなことはしないだろう」


「でしたら」


「問題はそこじゃない」


 父がティリエルを見る。


「商売相手がどう考えるかだ」


「……?」


「マドレーヌ家と揉めているかもしれない家と、わざわざ新しい商売を始めたいと思うか?」


「でも、揉めてなど」


「お前が何をした?」


 言葉に詰まる。


「マドレーヌ伯爵令嬢の婚約者と想いを通わせ、その結果、婚約を壊した。事実だけ並べればそうなる」


「ディグセン様が私を選んだんです!」


「世間がそこまで丁寧に事情を聞いてくれると思うな」


「……」


「信用は、失ってから取り戻す方が難しい」


 父は再び書類へ目を落とした。


「もう部屋へ戻れ」


 ティリエルは何も言えず、執務室を出た。廊下を歩きながら、自分へ言い聞かせる。大丈夫。ディグセン様は侯爵家なのだから。結婚さえすれば。すべてうまくいく。そう思っているのに。胸の奥の小さな不安だけは、消えてくれなかった。




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