第6話 男爵家なんて
ティリエルがエルク・ローデンへ婚約解消を告げたのは、王宮の茶会より数日前のことだった。
「婚約を解消したいのです」
向かいに座るエルクは、しばらく何も言わなかった。
「……理由を聞いても?」
「私、好きな方ができましたの」
「そうですか」
「とても素晴らしい方ですわ」
まだ名前を出すつもりはなかった。ディグセンがマリアとの婚約を解消する前に余計な騒ぎを起こしたくなかったからだ。
「その方と結婚したいので、エルク様との婚約を解消してくださいませ」
「……分かりました」
「え?」
「父に話しておきます」
それだけだった。怒るでもない。声を荒らげるでもない。ティリエルは少し拍子抜けした。
「引き止めないのですか?」
「引き止めてほしいのですか?」
「そういう意味ではありませんけれど」
「では、何を言えばいいのでしょう」
エルクは穏やかなままだった。
「あなたは私との婚約中に別の方を好きになった。そして、その方と結婚したいと思っている。私との婚約を続けるつもりはない」
「はい」
「ならば、無理に続けても仕方がないでしょう」
「……そうですわね」
正しい。正しいのに。なぜか少しだけ気に入らなかった。
エルクはいつもこうだった。怒鳴らない。強引に何かを決めない。ティリエルが街を歩きたいと言えば付き合う。疲れたと言えば休む。欲しいと言った菓子を覚えている。誕生日には毎年、好きな花を贈ってくれた。優しい人だった。
でも。
男爵家だった。
「エルク様にも、きっともっと相応しい方が見つかりますわ」
「……そうですね」
ティリエルは立ち上がった。
「それでは」
「ティリエル嬢」
「はい?」
「一つだけ聞いてもいいですか」
「何でしょう?」
「私との婚約が嫌だったのは、私が男爵家の人間だからですか?」
心臓が跳ねた。
「……そんなことは」
「違いますか?」
「もちろんですわ」
嘘だった。エルク自身が嫌いだったわけではない。ただ、ずっと思っていた。私は子爵令嬢なのに。なぜ男爵家へ嫁がなければならないのだろう。もっと良い相手がいるのではないか。
そして現れた。
侯爵家の嫡男が。ディグセン・ワポーレ。いずれ侯爵となる男性。その人が、自分を愛していると言ってくれた。比べるまでもなかった。
「そうですか」
エルクはそれ以上聞かなかった。
翌日。ティリエルは父にも婚約解消について話した。
「ローデン家との婚約を解消したい?」
「もうエルク様にはお話ししましたわ」
「……何だと?」
「婚約を解消したいと、お伝えしましたの」
「私に相談もせずにか!」
父の怒声に、ティリエルは目を瞬いた。
「だって、もっと素晴らしい方と結婚できるのですもの」
「誰だ」
「まだ秘密です」
「ふざけるな!」
父が机を叩いた。
「家同士で結んだ婚約だぞ! お前一人の気分で勝手に話を進めていいものではない!」
「でも、お父様だって相手を知れば――」
「誰だと聞いている!」
「きっとお父様も驚きますわ」
「ティリエル!」
それでもティリエルは、父がなぜこれほど怒っているのか分からなかった。
けれど、相手の名前を聞けば納得するだろう。男爵家から侯爵家なのだ。反対するはずがない。
そう思っていた。
そして今日。茶会から帰ったティリエルは、父の執務室へ向かった。
「お父様」
「何だ」
「先日お話しした、私が結婚したい方のことです」
父が書類から顔を上げる。
「ようやく話す気になったか」
「はい」
ティリエルは笑った。
「ディグセン・ワポーレ様です」
父の手が止まった。
「……ワポーレ侯爵家の?」
「はい」
「マリア・マドレーヌ嬢の婚約者ではなかったか?」
「今日、婚約を解消しましたわ」
「今日?」
「はい。ディグセン様は、私こそ真実の愛を捧げる相手だとおっしゃってくださいましたの」
父は黙った。ティリエルは笑顔のまま待った。驚いている。当然だ。娘が侯爵家へ嫁ぐことになるのだから。けれど。いつまで待っても、父は喜ばなかった。
「……それで?」
「はい?」
「今日、茶会で何があった」
「何が、と申しますと」
「最初から全部話せ」
声が低かった。仕方なく、ティリエルは茶会での出来事を話し始めた。ディグセンが婚約解消を告げたこと。マリアがあっさり承諾したこと。そして。借金の保証を打ち切ると言ったこと。
「……いくらだ」
「え?」
「ワポーレ侯爵家の借金だ。いくらある」
ティリエルは茶会で聞いた金額を答えた。父の表情が変わった。




