第5話 四千人
「昔、この領地は豊かだった」
ワポーレ侯爵領の炭鉱。ディグセンの祖父の時代、その名を知らぬ者はいなかった。炭鉱そのものだけではない。鉱夫が働き、荷馬車が石炭を運び、職人が道具を作る。鉱夫たちが食事をする店ができ、宿が建ち、商人が集まる。一つの炭鉱が、領都全体を食わせていた。
「だが石炭は無限ではない」
掘れば減る。当たり前の話だ。祖父の晩年には産出量が落ち始め、父が家督を継いだ頃には採算が合わなくなっていた。
「炭鉱を閉じた年、何人が職を失ったと思う?」
「……分かりません」
「四千人を超えた」
ディグセンは目を見開いた。
「鉱夫だけではない。運搬業者も、道具を作っていた職人もだ。客を失った店まで含めれば、もっと多い」
「……」
「だから私は仕事を作った」
織物。木工。加工食品。運送。金属加工。採算の良い事業はほとんどなかった。むしろ赤字や、赤字すれすれのものも多い。
「だが閉じれば、人が食えなくなる」
「でしたら、利益の出ない事業を整理して――」
「整理?」
父がディグセンを睨んだ。
「その『整理』されるのは数字じゃない。人間だ」
「……」
「妻がいる。子供がいる。家がある。ここで生きている者たちだ」
ディグセンは黙った。先ほど見た帳簿を思い出す。百七十三。百二十一。百二十六。数字でしかなかった。
「だからマドレーヌ家との婚約は重要だった」
「保証があるから、ですか?」
「それだけではない」
父が額を押さえた。
「マリア嬢は、この三年間、うちの事業を立て直すために奔走してくれていた」
「マリアが?」
「マリア嬢だ」
「……マリア嬢が?」
「ああ」
マリアが侯爵家の仕事を手伝っていることは知っていた。けれど、具体的に何をしているのか、詳しく聞いたことはなかった。
「……そこまで関わっていたのですか?」
「お前と結婚する予定だったんだ。当然だろう」
当然のことを聞くなという顔をされた。
「織物工房の新しい販路を提案したのも彼女だ。保存食の改良案を持ってきたのも。運送事業についてマドレーヌ商会と共同化する話も進めていた」
「……聞いていません」
「お前が聞かなかったんだ!」
また机が大きく音を立てた。
「何度も説明しようとした! お前は『そういうことは結婚したらマリアに任せればいい』と言っていただろう!」
言われてみれば、そんなことを口にした気がする。
以前、マリアが書類を持って訪ねてきたことがあった。
「ディグセン様。織物工房の試験販売について、ご相談したいことがございます」
「そういう話は父上にしてくれないか」
「ですが、いずれディグセン様が継がれる事業ですので――」
「結婚してからでいいだろう。そういうことは君に任せるつもりだし」
マリアはそれ以上、何も言わなかった。
あの時、彼女がどんな顔をしていたのか。思い出そうとしても、思い出せなかった。
「でも……まだ何も決まっていなかったのでしょう?」
「決まりかけていた!」
父は書類の束を投げるように机へ置いた。
「来月から試験的に始める予定だった!」
一枚拾う。東の織物工房の試験販売計画。そこにはマリアの名前もあった。
「これは……」
「王都の高級衣料店三店で試験販売する予定だった。商品が売れれば、工房の一部を高級品へ切り替える」
別の紙。
「こっちは?」
「保存食だ。軍への納入試験」
「これもマリア嬢が?」
「そうだ」
さらに別の紙。
「運送事業の共同化……」
「マドレーヌ商会の荷を帰りの馬車に積む。今まで空で戻っていた馬車が金を生むようになる」
「……」
「全部、来月から動くはずだった」
父がディグセンを見る。
「それをお前は、始まる直前に全部捨てた」
「ですが、取引までやめる必要はないでしょう」
「だから、それを交渉しに行く」
「保証も?」
「保証は無理だ」
「なぜです?」
「婚約に付随する契約だからだ!」
父は立ち上がった。
「私は今からマドレーヌ伯爵家へ行く」
「俺も――」
「来るな」
「ですが」
「お前が来て何を話す?」
「……」
「謝罪か? 言い訳か? それとも、もう一度マリア嬢に考え直してくれと頼むつもりか?」
「それは……」
「お前は、考え得る限り最悪の選択を、最悪の形でやり遂げた。これ以上、何もするな」
父は冷たく言い捨てた。
「今のお前にできることは、何もしないことだけだ」
父はそのまま部屋を出ていった。
三日後。マドレーヌ伯爵家から戻った父は、疲れた顔をしていた。
「どうでした?」
「契約済みの取引は予定通り履行してくれる」
ディグセンはほっとした。
「では、織物も――」
「それは新規計画だ」
「……」
「保存食も、運送事業も白紙だ」
「そんな」
「マドレーヌ伯爵は、契約したものは守ると言った。だが、娘の婚姻を前提として準備していた新しい事業まで続ける理由はないともな」
「では、別の保証人を探せば……」
「探している」
「なら――」
「……お前は何歳になった?」
「何を……」
「マリア嬢との婚約は自分の好きに解消する。だが、マドレーヌ伯爵家の保証は今までどおり受けられる。打ち切られたら私が頼めばいい。それでも駄目なら、別の保証人を探せばいい」
父の声には、もう怒りよりも呆れが滲んでいた。
「自分が何をしようと、都合の悪いことだけは周りの誰かが片づけてくれる。お前は本気でそう思っているのか?」
「そんなことは……」
「なら、自分で何とかしようとなぜ一度も考えない」
父は吐き捨てた。
「いつまで子供のつもりだ」
ディグセンの顔が強張った。
「簡単に見つかると思うのか? マドレーヌ伯爵家が保証を外した家だぞ」
その意味が、ディグセンにはまだよく分からなかった。




