第2話 保証を打ち切るということ
「それで?」
茶会から戻った私の話を聞き終えた父は、机の向こうで腕を組んだ。
「婚約を解消したいと、ディグセン殿が自分から言ったのだな?」
「はい」
「ワポーレ侯爵は?」
「その場にはいらっしゃいませんでした」
「そうか」
父は目を閉じた。怒っているのだろうか。けれど、その顔から感情を読み取ることはできなかった。私も父の教えに従い、ずっと感情を表に出さずに生きてきた。それが正しいことなのだと、疑いもしなかった。
「申し訳ありません」
「なぜお前が謝る?」
「婚約を維持できませんでした」
「相手が別の女を選んだのだろう?」
「ですが、私にも至らないところがあったのかもしれません」
父が目を開けた。
「例えば?」
「……感情がない、と」
「は?」
初めて父の顔が崩れた。
「ディグセン様には、そう見えていたようです」
「それで?」
「それで、と申しますと?」
「お前に感情がないことと、他の女に手を出すことに何の関係がある?」
「……」
「いや、そもそもお前に感情がないという話からして分からん」
父は少し考えた。
「まあ、その話はいい。問題はワポーレ家だ」
父の表情が変わった。今度は伯爵ではなく、商会を率いる経営者の顔だった。
「本当に保証を打ち切っていいのだな?」
「はい」
「一応言っておくが、これは意趣返しでは済まんぞ」
「承知しております。婚約が解消された以上、保証を続けても当家には何の利もなく、返済を肩代わりする責任だけが残ります」
ワポーレ侯爵家が、決して余裕のある家ではないことは知っている。私は幼い頃から、いずれあの家へ嫁ぐ者として育てられてきた。そして成人が近づいたこの三年間は、婚約者として侯爵家の事業資料に目を通し、事業の立て直しにも取り組んできた。だからこそ、保証を外す意味も分かっている。
父はしばらく私を見ていたが、やがて頷いた。
「そうか」
机の上の呼び鈴を鳴らす。すぐに執事が入ってきた。
「王都第一金融商会へ使いを。支配人に来てもらってくれ。それから、ワポーレ侯爵家に関する契約書をすべてここへ」
「かしこまりました」
執事が出ていく。
「よろしいのですか?」
「逆に聞こう。なぜ我が家が、娘を捨てた家の借金を保証し続ける?」
父の考えも、私と同じだった。
「それに、これはお前の婚約に付随する保証だ。最初の契約書にもそう書いてある」
「はい」
「ならば婚約が解消されれば、保証も終了だ。契約通りだよ」
父は机の端に積まれていた書類を一つ取った。
「それより、こっちをどうするかだな」
差し出された紙を受け取る。見覚えがあった。ワポーレ侯爵領で作られている織物の試作品についての報告書だ。
「来週、商会の仕入れ担当と職人を交えて話す予定だっただろう」
「……はい」
織物工房の商品を高級品へ切り替えられないか。私が半年ほど前から進めていた話だった。安価な布では大規模な工房を持つ他領に勝てない。けれど、ワポーレ領には炭鉱が栄えていた時代から残る腕の良い職人がいる。数を売れないなら、一枚あたりの利益を増やす。そのための試作品を、ようやく作ってもらったところだった。
「中止、ですよね」
「そうなる」
「分かりました」
私は書類を机へ戻した。もう私が口を出すことではない。
「保存食の方もか」
「そちらも来月、軍の調達担当者へ試作品を見ていただく予定でした」
「運送事業は?」
「マドレーヌ商会の荷を回せないか、調整していただいていました」
「全部止めることになるな」
「はい」
返事をした。それだけだった。父が私を見る。
「惜しいか?」
「何がです?」
「ここまでやった仕事だ」
「婚約がなくなったのですから、仕方ありません」
「そういう話ではない」
意味が分からず、父を見る。
「お前自身はどうなんだと聞いている」
「……」
答えが出なかった。ワポーレ家との婚約がなくなった。ならば、ワポーレ家のためにしていた仕事もなくなる。それは当然のことだ。
「残念ではあります」
考えた末に、そう答えた。
「そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。私は机の上に置かれた試作品の報告書をもう一度見た。あと少しだった。あと少しで、形になるところだった。けれど。それももう、私には関係のないことだった。




