第1話 真実の愛と、借金の保証
王女殿下が主催する、若手貴族たちのための慈善茶会。色とりどりの花が咲き誇る王宮庭園には白いテーブルが並び、次代を担う令息令嬢たちが優雅に語り合っている。私――マリア・マドレーヌは、いつものように「完璧な令嬢の微笑み」を顔に貼り付けていた。
嬉しくてもはしゃがない。腹が立っても顔に出さない。悲しくても、人前では絶対に涙を見せない。自分の希望より、家にとって何が最善かを考える。それが幼い頃から叩き込まれてきた、伯爵令嬢としての私の日常だった。
「マリア」
ふいに聞き慣れた声がして振り返る。そこには、私の婚約者であるディグセン・ワポーレ侯爵令息が立っていた。……ただし、一人ではない。彼の腕には、最近よく噂を聞く小動物系の可愛らしい令嬢――ティリエル・アーカイブ子爵令嬢が、ぴたりと寄り添っている。
「お話がありますの、マリア様」
ティリエル様が、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。その声に、近くにいた貴族たちが会話を止め、こちらへ注目し始める。
「何でしょう?」
私が静かに問い返すと、ディグセン様が大きく息を吸った。
「マリア! 俺は君との婚約を解消したい!」
ざわり、と空気が揺れる。何人かの令嬢が驚いて口元を押さえた。
ああ……なるほど
私は心の中で静かに納得した。貴族の結婚なんて、しょせんは家と家の都合。都合が変われば切られるもの。そこに「好き」や「嫌い」という感情を持ち込む方が間違っている。
「……理由を伺っても?」
「俺はティリエルを愛しているからだ!」
「申し訳ありません、マリア様。でも私たち、『真実の愛』で結ばれておりますの」
真実の愛。なんて都合が良くて、薄っぺらい言葉なのだろう。
「そうですか。承知いたしました」
私が淡々と答えると、ディグセン様の眉がぴくりと動いた。
「……そ、それだけか?」
「私が泣いてすがれば、婚約を続けてくださるのですか?」
「そういうところだ!」
ディグセン様は苛立ったように私を指差した。
「何を言っても同じ顔をして、怒りもしない! 悲しみもしない! 君には……感情がないみたいだ!」
胸の奥で、何かが小さく刺さった。泣くな。怒るな。わがままを言うな。そう教えられて、すべてを守ってきた。なのに、それが理由で捨てられるというのか。
「……そうですか」
結局、私の口から出たのはそれだけだった。今ここで泣けば満足なのだろうか。怒鳴れば感情があると認めてもらえるのだろうか。もう分からない。だから私は、いつも通り事務的に処理をすることにした。
「最後に確認いたします。本当に、私との婚約を解消なさるのですね?」
「ああ! 俺の気持ちは絶対に変わらない!」
「分かりました」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「では父へ、『ワポーレ侯爵家に対する借金の保証を打ち切る』ように申し伝えておきますね」
「…………は?」
一瞬。ディグセン様とティリエル様の顔から、見事に表情が抜け落ちた。
「いや、待て。どうしてそうなる!?」
「不思議なことをおっしゃいますね。婚約を解消するのでしょう?」
「それと、我が家の借金の保証を打ち切るのは別の話だろうが!」
私は呆れて、思わず少しだけ口を開けた。感情がないと言われたばかりなのに、皮肉なものだ。
「ディグセン様。私たちが結婚し、両家が繋がる予定だったからこそ、マドレーヌ伯爵家はワポーレ侯爵家の借入を保証していたのです。婚約が白紙になれば、私たちはただの他人。他人の家の借金を、どうして我が家が保証し続けなければならないのですか?」
「だ、だが、そんな突然……!」
「突然婚約を解消するとおっしゃったのは、ディグセン様ですが?」
ぐうの音も出ないディグセン様の顔に、冷や汗が浮かんだ。不安そうに見上げるティリエル様に、彼は慌てて取り繕った。
「し、心配するなティリエル! 君の家は裕福だと聞いている。必要なら、君の実家に保証を頼めばいい!」
「我が家に……? ど、どのくらいの額ですの?」
私は少し考えた。
「現在の借入残高でしたら――」
私は、直近の報告書に記されていた金額を告げた。ワポーレ侯爵家の事業については、この三年間、定期的に資料を確認している。借入残高も、返済額も、その大半が領内の事業維持に使われていることも把握していた。
ティリエル様の口がぽかんと開いた。数秒後。
「む、無理ですわ! そんな額、お父様が保証できるはずありません!」
庭園に悲鳴が響いた。
「なっ!? 君の家は金持ちだと言っていたじゃないか!」
「お金持ちだからって、侯爵家の借金を丸ごと背負えるわけないじゃないですか!」
つい先ほどまで「真実の愛」で結ばれていた二人が、早くも言い争いを始める。周囲から、なんとも言えない視線が注がれていた。
「マリア! 保証の件は考え直してくれないか!」
「ディグセン様」
「なんだ!」
「もう他人になるのですから、名前には『嬢』を付けていただけますか?」
「なっ……」
「マリア嬢の言っていることは、至極当然だと思うよ」
その時、すっと通る穏やかな声が響いた。
人垣が自然に割れる。
現れたのは、アーサル・リンドス公爵だった。
二十代の若さで公爵家を継いだ、この国でも屈指の名門の当主。そして、王女殿下が主催するこの慈善茶会を、資金面から支える後援者の一人でもある。
ここに集められた若手貴族たちとは、そもそも立っている場所が違う。
「ア、アーサル公爵閣下……」
ディグセン様の顔が引きつる。アーサル様は彼を見ると、柔らかな微笑みのまま告げた。
「自分から関係を切っておいて、今まで通りお金の面倒だけは見てほしいだなんて……少し、虫が良すぎるんじゃないかな?」
「ですが、これは両家の問題で……」
「うん。だからこそ、両家の繋がりを切るなら、その繋がりによって得ていた利益も失う。それだけの話だろう?」
ディグセン様は何も言えなくなった。
私はアーサル様を見た。彼は私を庇って大げさに立ち回ったわけではない。ただ、おかしなことを「おかしい」と言ってくれただけ。なぜか、それが少しだけ嬉しかった。
「ありがとうございます、アーサル様」
「私は当たり前のことを言っただけだよ」
そう言って、アーサル様は笑った。その笑顔を見た時。ほんの少しだけ、胸が温かくなった。




