第17話 信用の値段
「これで四件目だ」
アーカイブ子爵は、息子から渡された書類を机へ置いた。
「はい」
向かいに座る嫡男、ユーファスが答える。
「南部の商会との契約もなくなりました」
「どこへ行った?」
「ローデン商会です」
アーカイブ子爵は目を閉じた。
貴族の収入は、領地から納められる税だけではない。領地で採れる穀物や木材、鉱石。工房で作られる品。そうしたものを扱うため、多くの貴族家が自らの商会を持っている。アーカイブ家も同じだった。領地を治めるには金がかかる。
道を直し、橋を架け、使用人に給金を払い、私兵を雇い、領民を守り、貴族としての体面を保つ。もちろん、領地から得たものがすべて領主のものになるわけではない。
領地から得た収入の一部は、王国へ税として納める。そこから領地を維持し、さらに豊かにしていくのが領主の役目だった。
爵位や家格は、貴族社会において大きな意味を持つ。だが、実際の力関係には財力や信用も深く関わってくる。商売で便宜を図ってもらえば、その相手との関係は大切になる。
多額の借り入れがあれば、なおさらだった。たとえ爵位では下でも、豊かな領地を持ち、大きな商会を動かしている家が、実際には強い立場にいることもある。
身分の上下と、実際の力関係は、必ずしも同じではなかった。
娘がエルクとの婚約を続けていれば。そう考えるのは簡単だ。だが、もう終わった話だった。
「ほかは?」
「北部への輸送費です。来期から優遇がなくなった場合の試算が出ました」
「どれくらいだ」
「年間で、三割近く増える見込みです」
アーカイブ子爵の眉間に皺が寄った。
「……大きいな」
「はい。北部との取引量を今のまま維持すれば、かなりの負担になります」
「それから二社。新規取引について、しばらく様子を見たいと」
「理由は」
「マドレーヌ家との関係を気にしているようです」
予想通りだった。
「マドレーヌ商会から何か言われたわけではないんだな?」
「何も」
「だろうな」
むしろ何か言われた方が楽だった。要求があるなら応じるか拒むかを選べる。金なら交渉できるかもしれない。謝罪なら頭も下げられる。だが、マドレーヌ家は何もしていない。
何もしていないのに、周囲が勝手に距離を取り始めている。それだけ、あの家の影響力は大きかった。
「父上」
「何だ」
「ティリエルの件ですが」
ユーファスの声が変わった。
「今後どうなさいますか?」
「どう、とは?」
「婚姻です」
「本人がディグセン殿と結婚したいなら、勝手にすればいい」
「それだけですか?」
「それ以上、何をしろと?」
ユーファスはしばらくアーカイブ子爵を見ていた。
「以前でしたら、ティリエルの嫁ぎ先へ商会から人を出す予定でしたよね」
「ああ」
「ローデン家との婚約では、共同倉庫への出資も予定していました」
「ああ」
「ワポーレ侯爵家にも?」
「出さん」
即答だった。
「一切?」
「一切だ」
「分かりました」
ユーファスが頷く。そこへ扉が叩かれた。
「お父様、少しよろしいですか?」
ティリエルだった。
「入れ」
ティリエルはユーファスがいるのを見て、一瞬嫌そうな顔をした。
「ディグセン様とお会いしました」
「そうか」
「喧嘩をしました」
「そうか」
「それだけですの?」
「何を言えばいい」
「お父様は、私が心配ではないんですの?」
「心配だ」
「でしたら――」
「だからといって、お前の代わりにディグセン殿と話をするつもりはない」
ティリエルが唇を噛んだ。
「どうして皆、急にそんなに冷たくなったんですの」
「急ではない」
ユーファスが言った。
「兄様?」
「今までが甘すぎただけだ」
「何ですって?」
ユーファスは机の上の書類を一枚、ティリエルの前へだした。
「読め」
「何ですの、これ」
「今季、なくなった取引だ」
「……」
「こちらはローデン家との条件変更。こちらは新規契約の見送り。そしてこれは、南部の商会が別の相手と契約した報告だ」
「私に見せて、どうするんです?」
「お前の選択で何が変わったのかくらい知っておけ」
「私のせいだとおっしゃるの?」
「そうだ」
「私は商会の仕事なんてしていません!」
「だから関係ないと?」
「そうですわ!」
ユーファスが呆れたように息を吐いた。
「お前はアーカイブ子爵家の娘だ」
「分かっています」
「分かっていない」
ユーファスの指が書類を叩く。
「お前が誰と婚約するかで家同士の関係が変わる。誰との婚約を壊すかでも変わる。それだけの立場にいながら、『私は商売をしていないから関係ない』で済むと思うな」
「でも、エルク様は婚約解消を受け入れてくださいました!」
「だからローデン家も、婚約を前提にしていた優遇をやめただけだ」
「それで私を責めるんですの?」
「責める」
ユーファスの声は冷静だった。
「エルク殿との婚約を解消したことじゃない。父上へ何の相談もせず、勝手に婚約を解消したことを責めているんだ」
ティリエルが黙る。
「家同士で決めた婚約だ。事前に知らせていれば、こちらにもできることはあった」
「そんなこと、私は知りませんでしたわ」
「何も分からないんだから、先に相談しろと言っている」
「そんな言い方……」
「お前の選択で、家がこれだけの損失を受けているんだ」
ティリエルの顔が強張った。
「兄様……」
「父上は、お前が娘だから心配している」
「兄様は違うんですの?」
「ああ」
ユーファスは迷いなく答えた。
「今のお前を心配するより先に、お前が家に与えた損失をどうするか考えている」
「私は妹ですわ!」
「だからなんだ」
「なら、少しくらい――」
「お前が誰を好きでも構わない。誰と結婚したいかも」
「でしたら――」
「だが、そのために家が損をするのは別の話だ」
「……」
「商会はお前の恋愛を成就させるためにあるんじゃない」
ティリエルは何も言えなかった。
「お前は好きな男を選んだ。好きにすればいい」
ユーファスは書類を揃えた。
「ただし、これから先、その男とのことで私たちを頼るな」
ティリエルの目に涙が浮かんだ。
「……失礼します」
ティリエルは唇を噛み、そのまま部屋を出た。扉が閉まる。アーカイブ子爵は深く息を吐いた。
「ずいぶん厳しく言ったな」
「まだ足りませんよ」
ユーファスは書類を揃えた。
「家に損害を出しておいて、恋人と喧嘩したから心配してくれと言われても、優しくする気にはなれません」
「妹だぞ」
「だから、この程度で済ませています」
ユーファスは書類から目を上げた。
「他人なら、泣こうが喚こうが知ったことではありません。損害をすべて弁償させて、それで終わりです」
アーカイブ子爵は何も言わなかった。




