第15話 思いがけない答え
午後、北部で経営する果樹園についての商談を終え、私はマドレーヌ商会の応接室を出た。収穫量は多く、品質も悪くない。けれど王都から遠いため、運んでいる間に傷んでしまう果実が多いという。
ならば、現地で加工してしまえばいい。果実を乾燥させた干し果実や、砂糖とともに煮詰めて固めた菓子。見た目に多少傷のある果実でも、傷んだ部分を取り除けば材料に使える。
保存期間が延びれば、王都だけでなく、さらに遠くへ売ることもできる。問題は加工場をどこに作るかだった。
「川に近ければ水運が使えるけれど……」
廊下を歩きながら、受け取った資料に目を落とす。春先の増水を考えると、川沿いに大きな加工場を置くのは危険だ。かといって街道沿いでは、せっかく近くを流れている川を使えない。倉庫を――。
「マリア嬢」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。廊下の向こうに、一人の男性が立っていた。
「アーサル様」
リンドス公爵家当主、アーサル・リンドス様。あの慈善茶会以来だった。
「久しぶりだね」
「ええ。先日はありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていないよ」
穏やかな声だった。けれど、私は覚えている。あの日、突然の婚約破棄を前に誰もが遠巻きにする中、アーサル様だけはディグセン様に異を唱え、私の側に立ってくれた。
「それでも、嬉しかったです」
そう答えると、アーサル様がわずかに目を細めた。
「そうか。それならよかった」
それだけだった。恩を売るようなことも、あの日の出来事について尋ねることもない。私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「アーサル様も、マドレーヌ商会へご用ですか?」
「ああ。領地から王都へ運ぶ荷について相談に来ていた。ちょうど今、終わったところだよ」
「ご自身で?」
「私の領地のことだからね。任せるべきところは任せるが、自分で知っておきたいこともある」
「……そうなのですね」
公爵家の当主であるアーサル様が、わざわざマドレーヌ商会まで自ら足を運んでいることが少し意外だった。けれど、その答えを聞けば、不思議と納得できた。
「マリア嬢は?」
「私は、北部の果樹園について商談をしていました」
「果樹園?」
「はい。王都まで運ぶ間に、かなりの果実が傷んでしまうそうなのです。それなら現地で加工できないかと思いまして」
口にしたところで、私は手元の資料を見た。
「ただ、加工場の場所がまだ決まらなくて……」
「候補はあるのかい?」
「いくつかは。果樹園の近くには川も流れていますので、水運を使えればと思っているのですが」
「川沿いに建てるのは難しいの?」
「春になると水位が上がるそうなのです」
私は資料の中から地図を抜き出し、アーサル様に見せた。
「加工場と、出荷まで商品を保管する倉庫が必要なのですが、両方を置ける場所となると、なかなか条件が合わなくて」
アーサル様が地図を見る。自然と、二人の距離が近くなった。私の持つ地図を覗き込むために、アーサル様が少し身を屈める。思っていたより、近い。ふとそれに気づいてしまい、私は地図へ視線を落とした。
「加工場と倉庫を、同じ場所に置く必要はあるのかな?」
「え?」
「加工場は果樹園の近くに置く。川まで馬車で運び、少し高い場所に倉庫を置けばいい。そこから船に積む」
私は地図を見つめた。
「……そうか」
頭の中で、これまで考えていた配置が崩れ、代わりに新しい線が繋がっていく。
「それなら加工場の候補地が増えます。果樹園から近ければ、傷む前に加工できますし……倉庫に集めるのが完成品だけなら、必要な広さも抑えられる」
「そうだね」
「農閑期の仕事にもできます。これなら冬の間も――」
そこまで話して、私は口を閉じた。アーサル様が私を見ていた。
「……申し訳ありません。仕事の話ばかり」
「なんで謝るの?」
「つい夢中になってしまって」
「構わないよ」
アーサル様は静かに笑った。
「楽しそうに話すんだなと思っていただけさ」
「私が、ですか?」
「ああ」
思わず聞き返してしまった。感情がない。先日、ディグセン様にそう言われた。自分でも、それほど間違ってはいないと思っていた。なのに、アーサル様には楽しそうに見えるらしい。
「仕事が好きなんだね」
また、驚いた。自分でもつい先日気づいたばかりのことだった。
「……はい。どうやら、そのようです」
「そうか」
「現場の話を聞いたり、数字が合わない理由を探したり、自分で考えたことを試したり……そういうことが、私は好きみたいです」
口にすると、アーサル様は穏やかに笑った。
「それなら、その加工場も上手くいくといいね」
なぜだろう。何気ないその言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
「はい」
私は頷いた。
「必ず形にしてみせます」
「うん」
当然のように答えられて、私は瞬きをした。
「次に会った時、どうなったか聞かせてくれないかな」
「次に……」
「迷惑だったかな」
「い、いえ」
思ったより早く言葉が出た。
「ぜひ」
答えてから、少しだけ恥ずかしくなった。けれどアーサル様は何も言わず、ただ穏やかに笑った。
その時、窓の外から雨音が聞こえた。
「あ……」
先ほどまで明るかった空が、いつの間にか暗くなっている。大粒の雨が窓を叩き始めていた。
「馬車まで行くのかい?」
「はい。玄関前には止められないので、表門の近くに」
「なら、送ろう」
「ですが――」
「私の馬車も表門だからね」
断る理由を失った。商会を出ると、アーサル様が従者から傘を受け取った。大きな傘だった。それでも、大人二人が並べば距離は近くなる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アーサル様の隣へ入る。雨音が傘を叩いた。肩が触れるほどではない。けれど、少し腕を動かせば触れてしまいそうな距離だった。私はなぜか、いつもより真っ直ぐ前を見て歩いた。
「足元を」
「はい」
短い言葉が、すぐ近くから聞こえる。それだけなのに、妙に意識してしまう。表門が見えてきたところで、私は気づいた。アーサル様の右肩が濡れている。傘が、こちらへ傾いていた。
「アーサル様」
「何だい?」
「肩が濡れています」
アーサル様は自分の肩を一度見た。
「このくらいなら問題ないよ」
「ですが――」
「君の資料が濡れる方が困るだろう?」
言われて、胸元に抱えていた資料を見る。確かに一枚も濡れていない。私は何も言えなくなった。やがて馬車へ着く。
「ありがとうございました」
「ああ」
馬車へ乗ろうとして、私は振り返った。アーサル様はまだそこにいた。
「では、また」
その言葉に、先程の会話が蘇った。
――次に会った時。
「はい。また」
馬車へ乗り込む。扉が閉まり、ゆっくりと走り出した。窓の外を見ると、アーサル様はまだ表門の前に立っていた。雨の向こうで、その姿が少しずつ遠ざかっていく。
私は視線を膝の上へ落とした。濡れていない資料がある。開けば、考えるべきことはいくらでもあった。加工場の候補地。川沿いの倉庫。必要な人員。融資額。いつもなら、馬車が動き出した時点でもう続きを考えている。
なのに今は、なかなか資料を開く気になれなかった。代わりに思い出すのは、雨に濡れた右肩だった。
「……また、か」
小さく呟く。次に会った時、加工場のことを聞かせてほしい。ただ、それだけの約束だ。それなのに。
次に会うのはいつだろうと考えている自分に気づき、私はそっと窓の外へ顔を向けた。




