密談は秘めやかに
メイドが運んでいる盆の上には大ぶりのポットが一つとティーカップが二客。これがあのブドウのつる柄の部屋へ持っていくものなら、あそこにはマリエル以外にもう一人誰かがいるということになる。すなわちその人物こそルシールの持参金問題を解決に導くキーパーソンであろう、とラスタバンは踏んでいる。仮にこのティーセットが他の部屋へ運ぶ予定のものだとしても、茶を淹れたのを口実にあの部屋に侵入出来れば御の字だ。
ドアの前からメイドの正面に辿り着くまでに彼はここまで考えた。そして窮屈な羽虫の体から大いなる開放感をもって異国の少年に姿を変え――目の前にいきなり現れた彼に目を剥き、悲鳴を上げかけたメイドの顔にふうっと息を吹きかける。眠りの呪いを乗せた吐息だ。まともに浴びせられたメイドの女性はひとたまりもなく意識を刈り取られ、彫像のごとく廊下に倒れ込んだ。
「一丁上がり、と」
湯気を立てる紅茶を載せた盆は無事にラスタバンの手の上にある。一滴たりとも廊下にこぼすことのない反射神経はまさに彼が人間ではないことの証明だった。ひとまず盆を床に置いて、先にぐっすり眠り込んでいるメイドをどこかに隠す必要がある。真横にある扉に目が止まった。扉の柄は枝に巻き付く蛇、内部に人の気配は今のところ感じられない。
「ちょっと失礼しますよぉ」
おどけた台詞とともに倒れ伏すメイドの脇に手を差し入れ、半ば床を引きずるように移動し始める。意識を失った人の体というのは存外重いもので、ほんの数メートル動かすだけでも一苦労だ。幸いにもドアに鍵はかかっていない。黒いエプロンドレスから覗く足が扉の向こうへと消えて行った。
数分の後、蛇を彫り込んだ扉の内側から戻って来たのは異国の少年ではなくメイドだった。ラスタバンに眠らされたはずの彼女である。長いスカートの裾を優雅にからげ、廊下にぽつんと放置されていた紅茶をの盆を持ち上げて――まさに妖魔の微笑みと呼ぶしかない、悪辣な笑みを浮かべてみせた。
「……失礼します。お茶をお持ちいたしました」
中年のメイドに化けたラスタバンは分厚い木製の扉をノックする。ここがどういう場所であれ、姿を借りた女がメイドである以上入室の文句はこれに限る。ベルトワーズ家で不本意ながら小間使いの真似事をしている経験が活きた。
妖魔が使う変化の術というのは単なる見かけ上のまやかしではない。今のラスタバンは質量も内部構造もコピー元の女性と全く同じなのだから、自然に発声すれば彼女と同じ声が出るはずなのである。無論、喋り方や母語などはコピーの範囲外だ。もし彼女が外国人だったら、お決まりの口癖があったら、主人に対してもっと丁重な態度だったら……嫌な想像が頭を駆け巡り、盆を捧げ持つ手に冷たい汗が滲んだ。
(眠らせる前に話しかけとけばよかったな)
後悔先に立たず。ラスタバンは意を決して扉を押し開けた。
「シャルロッタ。少々遅かったようだが? 客人を待たせているのだからそれでは困る」
果たして、ラスタバンの振る舞いは問題なかったようである。期せずしてこのメイドの名前を知ることも出来た。廊下と同様に豪華な調度品が並んだ部屋に進み入り、まずは使用人に相応しい態度で深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様。私の不手際でございました」
ちらと目を上げて前髪越しに部屋の様子を垣間見る。廊下と同様に豪華な調度品が並んだ応接室だ。さぞかし座り心地がいいのだろうと思われるソファにはマリエル・ビューローの姿。そしてその正面に腰掛け、ラスタバンに厳しい表情を向けている男こそ、彼が探し求めていた黒幕に違いない。
「……いや、いい。早く下がりたまえ」
ラスタバンが想像していたよりも随分と若い男だった。まだせいぜい30代に乗ったばかりと見える。豪奢な部屋に相応しい仕立ての良い服に身を包み、針金のように痩せていて、やや神経質そうではあるがそれなりの美男子だ。不機嫌に細めた瞳はかなり赤みの強い青――ヴァイオレット。この国ではそうそう見られない珍しい色だ。
これをルシールに伝えればかなり有力な情報になるだろうと、知らず知らずのうちに口元が緩む。慣れた手つきで紅茶を準備するラスタバンの背中に、不意に男の声が降り掛かった。
「ところでシャルロッテ、今晩の来客なのだがね。ギベール殿は何時に来ることになっている?」
マズいことになった。今日は既に何回もこの言葉が脳裏をよぎっていたが、その中でもとりわけ困った事態だった。紅茶をサーブする手の内にまた冷や汗が滲む。
どう答えるのが正解か。ラスタバンが化けているこのシャルロッテというメイドが果たしてどのような立場にあるのか、残念ながら彼は知らない。下手なことを言えば自分が偽のメイドだと露見する危険がある。ほんの一呼吸の間にめまぐるしく考えを巡らせ、嘘は最低限に留めるべきだという結論に達した。間違ったことを口に出すよりは知らぬ存ぜぬで押し通した方が誤魔化しがきく。
「申し訳ございません、旦那様。私は存じ上げません」
「……おっと、そうだった。ギベール殿の訪問は今朝急に決まったのだから、君が知っているはずはなかったな」
その時ラスタバンは「悪いねシャルロッテ」と謝る男の瞳に奇妙な光を見た。こいつ、カマかけやがった。ほとんど本能的にその結論に至る。まだ正体を見破られたわけではないようだが、少なくともこの男は相当に用心深く勘が鋭い。
「いいえ、滅相もございません。失礼致します……どうぞごゆっくり」
このままここに居座るのは得策ではないだろう。白磁のティーカップを机に置いて静かに立ち上がった。入ってきた扉からそのまま廊下に一歩踏み出し、ドアを完全に閉める手前で止める。ほんの数ミリの隙間でも小さな虫が忍び込むには充分だ。すぐさまメイドから元の羽虫に姿を変えて室内へ飛び込む。
マリエルと紫の瞳の男が低めた声で話し合っていた。会話を聞き逃さないように机の下に潜り込み、じっと息を潜める。
「……話の腰を折って申し訳ない、ビューロー嬢。それで、どこまで話したかな?」
「私にいくらの値がつくのかお伺いしたところですわ」
「ああ、そうだった。実際、貴女はなかなかのモノをお持ちだ。もちろん正当な額をお支払いしますよ」
「それでは買い取って頂けるのね?」
「ええ、是非もありません。ビューロー男爵……貴女のお父上に打診した際にはすげなく断られましたがね、まさかご本人がこうして足を運んで下さるとは……」
「父は出世にも金銭にも興味のない人ですもの。でも私は違うわ」
「それはそれは。……面白い方だ、貴女は」
(おいおいおい、どうなってんだよ、こりゃあ……)
それはマリエル・ビューローという人間自体に値段をつけるやり取りにしか聞こえなかった。