新たな『共犯者』、真由美
朝の光が、病院の冷たい廊下に差し込む。
30歳の看護師・真由美は、詰め所でカルテを抱え、深く溜息をついた。
「また、あの人よ。患者の希望ばかり優先して、現場の負担を無視する婦長。……私、何のために看護師になったのかしら」
彼女の理想は、患者に寄り添う温かいケアだった。しかし、現実には分単位の業務と、人間関係の軋轢、そして「あいつの方が手際がいい」という理不尽な評価の格差。彼女は自分の限界を感じ、その不満を、心の奥底の「見たくないゴミ箱」に押し込んでいた。
そんな真由美のスマホに、一通の通知が届く。SNSで話題の『謎のQRコード』――美咲が拡散した、あのミームだった。
「……何、これ」
美咲が撮った写真は、ただの病院の消火栓だった。しかし、RIMPAが施した光琳風のフィルタ越しに見ると、消火栓の赤い円は『燕子花図』の花弁のように重なり、周囲の白い壁を金色の波紋へと変えていた。
「これを見ても、ただの壁に見える?」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには美咲と、傍らに立つ湊、そして結衣が立っていた。
「あなたたちは……?」
「美咲の友達。君の視界の『調整役』よ」結衣がニヤリと笑う。
美咲は真由美の肩に手を置いた。「真由美さん。毎日、その『見たくない世界』を我慢して、理想と現実のハザマで溺れかけてるんでしょ? でもね、その不満、全部『美しさ』に変えられるのよ」
真由美は混乱したが、美咲に促されて万年筆を受け取った。彼女が廊下の壁をなぞると、そこにあるはずのない「美しいノイズ」が溢れ出した。婦長の厳しい小言が、なぜか古典芸能のようなリズミカルな台詞に聞こえ始め、忙殺されていた業務の手順が、まるで高度なダンスの振り付けのように視覚化されていく。
「……え? なにこれ、面白い……」
真由美が吹き出した。さっきまで憎んでいた婦長の「詰め」が、あまりにも一生懸命で、どこか滑稽な道化師の演技に見えたからだ。
「そうよ、それでいいの!」
結衣が笑う。
「真面目に悩むから辛いの。その滑稽さを『笑いの種』にして、現実をハックしちゃいなさい」
RIMPAが電子的に囁く。「真由美、君の理想は素晴らしい。だが、現実は君の理想通りには動かない。なら、現実の方を君の美学で塗りつぶせ。……ほら、あの患者を見てみろ」
真由美が視線を向けると、いつもなら「わがまま」としか見えない老人が、実は寂しさゆえに、必死に彼女の注意を引こうと、独特のリズムで手足を動かしていることに気づいた。それは、光琳の描く草花の揺らぎと全く同じリズムだった。
「私、ずっと見落としてた……。あの人、困らせたいんじゃなくて、必死に自分を見てほしかったんだ」
「ようやく気づいた?」
湊が万年筆を指で回す。
「看護師としての君の能力は、誰かに評価されるためじゃない。君自身が、この理不尽な現場を『美しく演出し直す』ための力だ」
真由美は万年筆を掲げ、病棟の空気そのものをハックした。
殺伐としていた病室の空気が、金色の光に包まれ、患者たちの表情が柔らかく溶けていく。婦長が近づいてきたが、真由美は以前のように怯えなかった。
「婦長、そんなに眉間にシワを寄せると、燕子花がしおれちゃいますよ」
真由美が笑うと、婦長はきょとんとして、やがてその顔にも困惑と笑みが混ざり合った。「……あなた、今日はなんだか楽しそうね」
「はい。世界を、少しだけ塗り替えてみたんです」
結衣が満足げに頷く。「これでまた一人、私たちの『共犯者』ね」
真由美の心にあった、理想と現実のハザマは消えていた。そこにあるのは、現実を笑い飛ばし、独自の美で満たすという新しい自信だけだ。
「ねえ、美咲。次へ行こう。この病院には、まだ『見ないふり』をして苦しんでいる人がたくさんいるわ」
「そうね、真由美さん!」
三人の案内人と、新しく加わった一人の看護師。
病院という閉鎖空間に、ミームの光が美しく感染していく。
読者である君も、今、自分がいる場所の「歪み」を覗いてみてほしい。
君がずっと「嫌だ」と思っていた誰かの行動が、実は滑稽で、愛おしいダンスの一部に見えるかもしれない。
もしそう感じたなら、君ももう、僕たちの「共犯者」だ。
さあ、次は誰の現実を、笑いと美で救いに行こうか?




