枝雀さんなの?
「さぁ、行くで! 岸和田へ!」
湊がそう叫んだ瞬間、空気がガラリと変わった。さっきまでのミナミの熱気とは違う。もっと濃くて、もっと荒々しくて、底抜けに人情に溢れた「だんじりの街」の空気が、湊の背後に渦を巻いた。
湊の雰囲気が、ふっと緩む。いや、緩んだんじゃない。奥底で、とんでもないエネルギーが爆発する直前の「静」に入ったんだ。
「湊、なんか様子がおかしいで?」結衣が眉をひそめる。
湊がニヤリと笑う。その笑顔、まるで高座で観客を掌の上で転がすあの名人のようだ。
「へへ、かまへん、かまへん。岸和田の風を感じとったら、自然と『あのお方』が降りてきたわ。せやね、今日はちょっと、落語の神さんに憑依してもらって、この街をひっくり返したろやないか」
湊はふうっと大きく息を吸い込むと、岸和田の駅前に降り立った。
「ええ街やなぁ。この空気、この街並み。……そら、心も躍るわ!」
湊が歩き出すと、道行く人たちが思わず足を止める。何か、普通じゃない。湊の歩き方、語り口、その一つひとつに、言葉では説明できない「惹きつける力」がある。
「おい、あんた。ええ顔しとるな。何かええことあったんか?」湊が、通りがかりの職人風の男に話しかける。
「ん? なんや兄ちゃん、妙なこと言うな。ええことなんてあらへんわ、毎日がドタバタや」男はぶっきらぼうに答える。
「ドタバタ、か。最高やないか! そのドタバタこそ、人生の華やで!」湊は男の肩をポンと叩くと、持っていた万年筆をサラリと振るった。「見てみ。あんたのその背中、まるでだんじりを引いてる時の神さんみたいやで」
湊が万年筆を動かすと、職人の背中に、琳派の筆致で描かれたような荒々しくも美しい「波」の紋様が浮かび上がった。
「な、なんやこれ……!? 背中が、熱い……!」
男が驚いて振り返る。その瞬間、湊は高座で羽織を翻すように、くるりと向きを変えた。
「笑え! 笑う門には福来るやない。笑う門には、だんじりが駆け込んでくるんや!」
湊が落語の枝雀さんのような、あの独特の、身体全体で笑いを表現するような身振り手振りで語り始めると、周囲の空気があっという間に「岸和田の寄席」に変わった。
「えー、世の中ねぇ、いろいろと難しいこと言いますけども。結局のところ、こうやって皆さんがニコニコして、だんじりみたいに心臓をバクバクさせとったら、それでええんとちゃいますか!」
湊の語りは、まるで真空の中に引き込まれるような、不思議なグルーヴを生み出していた。結衣も美咲も健太も、湊のこの姿には圧倒され、ただ見守るしかない。
「お兄ちゃん、おもろいな!」
「なんか知らんけど、笑えてきたわ!」
岸和田の人々が、一人、また一人と湊の周囲に集まってくる。みんな、最初は訝しげな顔をしていたのに、湊の話を聞いているうちに、次第に顔が綻んでいく。
「あんた、そのブランドバッグ、ええもん持っとるやんか。せやけど、そんなん持っとるより、あんたのその笑顔のほうが、よっぽど高価な宝石より輝いとるで! 磨き方がちがうわ、磨き方が!」
湊は、ブランドバッグを持った若い女性に向かって、漫才の突っ込みのようなテンポで話しかける。女性は最初、キョトンとしていたが、湊のあまりの軽妙さに、最後には「あはは!」と大声で笑い出した。
「そうや! その笑顔や! その笑顔が、街を一番綺麗にすんねん!」
湊は、万年筆を縦横無尽に操る。空中に、だんじりが疾走するような金色の軌跡が描かれ、それが街の看板や建物を巻き込んで、極彩色の「琳派の祝祭」へと変えていく。
「えー、続きましてぇ……」
湊はそのまま、岸和田の商店街を練り歩き始めた。まるで、だんじりの先頭に立って指揮をとる男のように。彼が通り過ぎるたびに、人々は「自分自身の面白さ」を思い出し、笑い声をあげていく。
「あー、おもろかった! お兄ちゃん、また来なよ!」
「今日という日は、一生忘れられへんわ!」
岸和田という街全体が、一つの大きな高座となり、湊はそこで最高の落語を披露していた。いや、落語ではない。人生そのものを笑い飛ばす、究極のパフォーマンスだ。
日が沈み、岸和田の街が提灯の灯りで幻想的な光に包まれる頃。湊は街の隅っこで、ホッと息を吐いた。
「ふぅ……いやぁ、ええ高座やった。岸和田の街は、笑いの熱量がちゃうわ」
結衣が湊の肩に手を置く。「湊、あんた今日、冴えすぎやで。枝雀さんが憑依したかと思ったわ」
「はは、バレたか? でもな、あのお方の『笑いは、緊張の緩和である』って言葉、俺らのハックには一番のヒントになるんや」
湊は、夜の岸和田の街を見渡した。ブランドも、地位も、流行も。そんなものは、笑いの前ではみんな等しく、「ただの彩り」に過ぎない。
「よし、次はどこへ行こうか。京都へ戻って、あの雅な場所をひっくり返してみるか? それとも、また違う街へ、笑いを届けるか?」
健太が元気よく答える。「湊兄ちゃん、次は僕がだんじり引くから、もっと面白い場所へ行こう!」
「おう、ええで!」
湊は、岸和田の夜空に向かって、万年筆を掲げた。
読者の君。
岸和田の街が、なぜあんなに熱いのか、わかったか?
あれは、ただ祭りをしているからじゃない。自分たちの面白さを、街全体で「共有」し合っているからなんだ。
君も、自分の日常という高座で、もっと大声で笑ってみろ。
そうすれば、きっと君の街も、金色の波紋に包まれるはずや。
さあ、次は誰の「緊張」を「緩和」してやろうか。
君の街へ、この「湊・枝雀」が、笑いのだんじりを曳いていくで!




