第5章
ドアノブが回りきる前に、突然、西村が胸を押さえた。
「……っ」
「西村?」
顔色が、さっと青ざめる。
「大丈夫か?」
そう声をかけた瞬間、あの黒い扉の動きが、ぴたりと止まった。
ノブは半分回ったまま、まるで“様子をうかがう”ように静止している。
「……なんだよ、これ」
西村は浅く呼吸を繰り返しながら、壁に手をついた。
「ちょっと、動悸がしただけだ。薬、飲むほどじゃない」
そう言いながらも、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
その時だった。
操車場に吹いていたはずの風が、止んだ。
いや――
止んだのではなく、西村の周りだけ避けている。
そんな錯覚を覚えた。
「なあ、桐野……」
西村が、胸に手を当てたまま言う。
「さっきからさ、ここ……変じゃないか?」
「何が?」
「音」
そう言われて、初めて気づいた。
遠くで鳴っていたはずの機械音。
風の音。
金属がきしむ音。
それらが全部、消えている。
代わりに聞こえるのは――
西村の心臓の音。
ドクン。
ドクン。
やけに大きく、はっきりと。
まるで、この空間が彼の鼓動に合わせて呼吸しているみたいに。
「……桐野」
西村が、震える声で言った。
「俺さ、ここに来てから、変なんだ」
「変?」
「心臓の調子、悪くなる時って、いつも“ズレる”感じがするんだよ。
リズムが合わなくなるっていうか……」
彼は胸を押さえながら、黒い扉を見た。
「でも今は逆だ。
――ここにいる方が、妙に“合ってる”」
背筋に、ぞくりと寒気が走った。
「それって……」
言いかけた言葉を、僕は飲み込んだ。
黒い扉が、再び、ゆっくりと動き出す。
だが今度は。
西村から、少し距離を取るように。
まるで、近づきすぎるな、とでも言うかのように。
「……なあ」
西村が、苦笑いを浮かべた。
「俺、昔医者に言われたんだよ」
「?」
「『君の心臓は、普通より“境界”に弱い』って」
「境界……?」
「昼と夜とか、生と死とかさ。
普通の人が気にしない“切れ目”に、引っかかりやすいんだって」
冗談めかして言っているが、目は笑っていない。
その瞬間、僕ははっきりと感じた。
この扉は、誰でも通すわけじゃない。
そして――
西村は「通れない」のではなく、「通ると壊れる」側の人間だ。
だから昨日は、何も起きなかった。
二人でいたから。
「……西村」
僕は、無意識に一歩、彼の前に出ていた。
「今日は、ここまでにしよう」
「え?」
「この場所……
西村に、優しくない」
黒い扉が、きぃ……と音を立てて閉じる。
まるで、こちらの会話を理解しているみたいに。
そして、その瞬間。
操車場の時計が、再び動き出した。
カチリ。
秒針が、一秒進む。
西村は胸から手を離し、深く息をついた。
「……はは」
「笑うとこかよ」
「いやさ」
彼は、いつもの調子で肩をすくめる。
「どうやら俺は、“鍵”じゃなくて“警報装置”らしい」
冗談のようで、冗談じゃない言葉だった。




