外伝 二人が選んだ扉
最初の夢では、声しか聞こえなかった。
暗闇だった。
上も下も分からない。
自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からない。
ただ、遠くに一枚のドアがあった。
そのドアだけが、ぼんやりと浮かんでいる。
蓮は夢の中で、そのドアを見つめていた。
近づこうとしても、足が動かない。
そのときだった。
「……兄ちゃん」
聞き覚えのある声がした。
蓮は振り返った。
誰もいない。
「誰だ?」
返事はない。
もう一度、声がした。
「兄ちゃん」
蓮は目を覚ました。
暗い天井が見える。
自分の部屋だった。
心臓が早鐘のように鳴っている。
しばらく動けなかった。
三年ぶりに聞いた声だった。
忘れるはずがない。
あれは――
悠真の声だった。
*
「……昨日、変な夢を見た」
翌朝。
美咲がそう言った。
蓮はコーヒーを飲んでいた手を止めた。
「どんな夢?」
「真っ暗な場所にいたの」
美咲は少し考えてから続けた。
「そこにドアが一枚だけあった」
蓮の手から、カップが滑りそうになった。
「……ドア?」
「うん」
美咲が顔を上げる。
「蓮も?」
「……ああ」
二人はしばらく黙った。
「声は?」
美咲が聞いた。
蓮は答えなかった。
答えたくなかった。
けれど、美咲は蓮の顔を見ただけで察した。
「……悠真?」
蓮は小さく頷いた。
美咲は目を伏せた。
「やっぱり……」
「お前も聞いたのか?」
「うん」
美咲の声が震えた。
「私のこと、呼んでた」
「何て?」
「名前だけ」
美咲は両手でカップを包んだ。
「『美咲』って」
二人は、それ以上話さなかった。
三年前に死んだ少年の名前が、二人の間に重く落ちた。
*
二日目の夜。
また同じ夢を見た。
今度は、ドアが近かった。
蓮はその前に立っていた。
黒いドアだった。
昨日よりずっと近い。
手を伸ばせば、ドアノブに触れられる。
蓮はゆっくり手を伸ばした。
その瞬間。
向こう側から声がした。
「兄ちゃん」
蓮の手が止まる。
「……悠真?」
返事はない。
代わりに、声が続いた。
「まだ、そこにいるの?」
「いる」
蓮は答えた。
「ここにいる」
すると、向こう側から小さく笑う声がした。
「そっか」
そこで目が覚めた。
*
「昨日より近かった」
翌朝、美咲が言った。
「……俺も」
「声、聞いた?」
「うん」
「何て言ってた?」
蓮は答えた。
「『まだ、そこにいるの』って」
美咲は黙った。
そして、しばらくしてから言った。
「私も聞いた」
「同じ?」
「ううん」
美咲は首を横に振った。
「私には違うことを言った」
「何て?」
「『まだ泣いてる?』って」
蓮は息を呑んだ。
「……悠真だな」
「うん」
それだけは、二人とも疑わなかった。
声だけではない。
言葉の選び方も。
呼び方も。
悠真だった。
*
三日目。
夢の中で、蓮は一人ではなかった。
「……美咲?」
目の前に、美咲が立っている。
美咲も驚いた顔をしていた。
「蓮?」
二人は顔を見合わせた。
周囲は暗い。
そして二人の目の前に、あの黒いドアがある。
今度はすぐそこだった。
蓮が一歩近づく。
美咲もついてくる。
そのときだった。
どこか遠くで、電車の走る音がした。
ガタン、ゴトン。
美咲が振り返る。
「……この音」
「どうした?」
「ううん……」
美咲は首を振った。
気のせいだと思った。
けれど、その直後。
足元に、見覚えのあるタイルが見えた。
青と白の小さな模様。
美咲は息を呑んだ。
「……ここ」
「知ってるのか?」
「たぶん」
美咲は周囲を見回した。
「昔、悠真と歩いたことがある」
蓮が黙る。
「駅の裏の商店街。雨が降ったあと、こういうタイルが濡れてた」
美咲は記憶を辿るように呟いた。
「でも……こんな場所にドアなんてなかった」
その瞬間。
黒いドアの向こうから声がした。
「二人で来て」
美咲の顔から血の気が引いた。
「……悠真」
蓮がドアノブに手を伸ばす。
けれど、美咲が腕を掴んだ。
「待って」
「どうした?」
「分からない」
美咲は首を振った。
「でも……今は開けちゃいけない気がする」
蓮はドアを見つめた。
「……そうだな」
二人が手を離した瞬間。
目が覚めた。
*
その日の朝から、美咲は夢の中で見た景色を思い出そうとしていた。
黒いドア。
青と白のタイル。
電車の音。
駅の裏側。
そして――悠真。
「……あそこだ」
突然、美咲は呟いた。
蓮が顔を上げる。
「何?」
「昨日の夢」
「うん」
「悠真と歩いた場所」
美咲はスマートフォンを手に取った。
地図を開く。
「駅の裏の商店街。三年前、悠真と何度か歩いたことがあるの」
「そんなところに?」
「分からない。でも、夢の景色と似てる」
蓮は美咲を見る。
「行ってみるか?」
美咲は頷いた。
*
駅の裏手にある商店街は、三年前とほとんど変わっていなかった。
古い店。
狭い路地。
雨の跡が残るタイル。
美咲は歩きながら周囲を見回した。
「ここだった」
「この辺か?」
「うん」
けれど。
どれだけ探しても、夢で見た店はなかった。
「……ないね」
「店なんて、最初からなかったんじゃないか?」
「そうかもしれない」
美咲はそう言った。
けれど、納得はできなかった。
電車の音。
タイル。
路地の角。
どれも夢と同じだった。
ただ一つ。
店だけがない。
二人はしばらくその場に立っていた。
やがて帰ることにした。
*
その夜。
美咲は夢を見なかった。
蓮も見なかった。
だからこそ、翌朝、美咲は不安になった。
「……もう終わったのかな」
「何が?」
「夢」
蓮は答えなかった。
二人とも、同じことを考えていた。
ここまで来てしまったのに。
何も起こらない。
悠真の声も聞こえない。
店もない。
それなのに――
「今日、もう一度行ってみよう」
蓮が言った。
美咲は顔を上げる。
「いいの?」
「昨日は俺たちが探した」
「うん」
「今日は……ただ、行ってみよう」
美咲は小さく笑った。
「分かった」
*
翌日。
二人はもう一度、同じ場所へ来た。
そして。
昨日まで何もなかった場所に――
店があった。
美咲が足を止めた。
「……ここじゃない?」
蓮は答えなかった。
古びた木枠のガラス扉。
看板はない。
ガラス越しに見える店内には、いくつものドアが並んでいる。
木製のもの。
金属製のもの。
白いもの。
そして。
店の奥に、一枚だけ黒いドアが見える。
夢の中で何度も見たドア。
「……どうして」
蓮が呟いた。
昨日まで、確かになかった。
美咲は答えなかった。
答えられるはずもなかった。
ただ。
一つだけ、分かることがあった。
この店は、自分たちが探して見つけたものではない。
向こうから――
二人を見つけたのだ。
少し離れたバス停に、少年が一人立っていた。
少年はこちらを見ている。
美咲は一瞬だけ、その視線に気づいた。
けれど、気に留めることはなかった。
自分たちには関係のない少年だ。
美咲は蓮を見る。
「……怖い?」
蓮は少し考えてから答えた。
「怖い」
「私も」
「じゃあ、帰るか?」
美咲は首を横に振った。
「……会いたい」
蓮は目を伏せた。
「俺も」
二人はしばらく黙っていた。
やがて蓮が言った。
「もし、本当に悠真に会えたら……」
「うん」
「俺、何を言えばいいんだろうな」
美咲は少しだけ笑った。
「私も分からない」
「何を聞きたい?」
美咲は黙った。
しばらくしてから、静かに言った。
「……怒ってないか聞きたい」
「何に?」
「私たちが生きてることに」
蓮は美咲を見る。
「……俺も、同じこと考えてた」
美咲は蓮の手を握った。
「じゃあ、一緒に聞こう」
「……ああ」
二人は店の扉へ向かった。
カラン。
小さな音がした。
二人は、店の中へ入っていった。
*
店内には誰もいなかった。
静かだった。
壁際には、いくつものドアが並んでいる。
まるでドアだけを売っている店のようだった。
けれど、店員はいない。
客もいない。
ただ、奥に黒いドアがある。
二人はそこへ向かった。
近づくほど、蓮の胸が苦しくなる。
夢の中と同じだった。
「……これ」
美咲が呟いた。
「うん」
黒いドアの前で、二人は立ち止まった。
蓮はドアノブを見る。
夢の中で何度も触れようとして、触れられなかったもの。
今は、手を伸ばせば届く。
「開ける?」
美咲が聞いた。
蓮は頷いた。
「二人で」
美咲も頷く。
二人でドアノブに手を置く。
カチッ。
小さな音がした。
ドアが開く。
その向こうには、白い光が広がっていた。
蓮は目を細めた。
光の向こうに、誰かが立っている。
「……兄ちゃん」
蓮の呼吸が止まった。
その声。
その呼び方。
間違えるはずがない。
「……悠真?」
少年が笑った。
三年前と変わらない。
少し生意気そうな顔。
短い髪。
いつも何かを企んでいるような目。
ただ。
あの日から時間だけが止まったままの姿。
「久しぶり」
蓮は一歩踏み出した。
「お前……」
声が震える。
言いたいことは、たくさんあった。
どうして死んだ。
どこにいた。
苦しくなかったか。
俺たちを覚えているか。
けれど、何一つ言葉にならない。
その横で、美咲が泣いていた。
「……悠真」
「美咲も」
悠真は笑った。
「久しぶり」
「……うん」
美咲は涙を拭った。
「会いたかった」
「うん」
「ずっと」
「知ってる」
悠真は二人を交互に見た。
そして、少し困ったように笑う。
「二人とも、まだ俺のことばっかり考えてるんだな」
蓮が顔を上げた。
「当たり前だろ」
「三年だよ?」
「三年でも、お前は俺の弟だ」
「そっか」
悠真は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「兄ちゃんがちゃんと兄ちゃんだったから」
蓮は何も言えなかった。
悠真は美咲を見る。
「美咲も」
「……何?」
「まだ、兄ちゃんのこと心配してる?」
美咲は俯いた。
「……うん」
「そっか」
悠真は笑う。
「ありがとう」
その言葉に、美咲の目からまた涙が落ちた。
「私……」
美咲は唇を噛んだ。
「悠真に謝りたかった」
「何で?」
「蓮と付き合ってること」
蓮が驚いて美咲を見る。
「美咲……」
「だって」
美咲は悠真を見る。
「私たちが一緒にいるのって、あなたがいなくなったからなのかもしれないって……ずっと思ってた」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「そんなこと、俺が決めることじゃないよ」
「でも……」
「兄ちゃんと美咲が好きで一緒にいるなら、それでいいじゃん」
蓮が口を開く。
「……俺たちが幸せになってもいいのか?」
悠真は不思議そうな顔をした。
「何それ」
「だって、お前は……」
「死んだよ」
悠真はあっさりと言った。
「だからって、兄ちゃんまで俺のところに来る必要ないよ」
蓮は言葉を失った。
「俺がいなくなったからって、兄ちゃんまで俺のところに来たら嫌だ」
「……悠真」
「美咲も」
「うん」
「兄ちゃんをよろしく」
美咲は涙を流しながら笑った。
「それ、私が言う台詞じゃない?」
「そうかも」
悠真も笑った。
白い光が、少しずつ強くなっていく。
「もう時間みたい」
「待ってくれ」
蓮が手を伸ばす。
「まだ話したい」
「俺も」
悠真は少し寂しそうに笑った。
「でも、もういいんだ」
「何が?」
「兄ちゃんたちは、もう大丈夫だから」
「大丈夫じゃない」
蓮は即答した。
「まだ、お前がいないと寂しい」
「うん」
「忘れられない」
「忘れなくていいよ」
「……じゃあ、どうすればいい?」
悠真は少し考えた。
「俺のことを覚えたまま、生きればいいんじゃない?」
蓮は黙った。
「俺の弟としてじゃなくて」
悠真が笑う。
「兄ちゃんとして」
その言葉に、蓮は泣いた。
三年間。
一度も流せなかった涙だった。
「……分かった」
蓮は涙を拭った。
「分かったよ」
悠真は美咲を見る。
「美咲」
「うん」
「兄ちゃんのこと、好き?」
美咲は涙を流したまま笑った。
「好き」
「そっか」
悠真は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、それでいい」
白い光がさらに強くなる。
「悠真!」
蓮が叫んだ。
「何?」
「俺……」
言葉が詰まる。
ようやく絞り出した。
「俺の弟でいてくれて、ありがとう」
悠真は笑った。
「俺も」
そして、美咲に向かって言った。
「友達でいてくれて、ありがとう」
「……うん」
「じゃあね」
悠真の姿が、光の中へ消えていく。
二人はしばらく、その場から動けなかった。
やがて。
美咲が小さく言った。
「……帰ろうか」
蓮は頷いた。
「うん」
二人は、来た道を戻った。
*
店の外へ出ると、夕暮れの街だった。
さっきまでいたバス停には、もう少年の姿はなかった。
蓮は空を見上げる。
「……なんか、不思議だな」
「うん」
「会えたのに」
「うん」
「前より寂しくない」
美咲は蓮の手を握った。
「私も」
二人は歩き出した。
しばらく歩いたところで、蓮が足を止めた。
「美咲」
「何?」
「これからも一緒にいてくれる?」
美咲は少し驚いた顔をした。
それから笑った。
「うん」
「悠真がいなくても?」
美咲は蓮の手を握り直した。
「悠真がいたからじゃないよ」
そして、蓮の目を見た。
「今は、あなたと一緒にいたいから」
蓮は笑った。
「……そっか」
二人は再び歩き出した。
もう振り返らなかった。
その背後で。
店の中から、小さな音がした。
カチッ。
黒いドアが、静かに閉じる。
それきり、何も起こらなかった。
ただ。
二人の歩いていく先には、夕暮れの光が残っていた。
悠真のいない明日へ。
二人が、自分たちで選んだ明日へ。




