↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/21

外伝 二人が選んだ扉

最初の夢では、声しか聞こえなかった。


暗闇だった。


上も下も分からない。


自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からない。


ただ、遠くに一枚のドアがあった。


そのドアだけが、ぼんやりと浮かんでいる。


蓮は夢の中で、そのドアを見つめていた。


近づこうとしても、足が動かない。


そのときだった。


「……兄ちゃん」


聞き覚えのある声がした。


蓮は振り返った。


誰もいない。


「誰だ?」


返事はない。


もう一度、声がした。


「兄ちゃん」


蓮は目を覚ました。


暗い天井が見える。


自分の部屋だった。


心臓が早鐘のように鳴っている。


しばらく動けなかった。


三年ぶりに聞いた声だった。


忘れるはずがない。


あれは――


悠真の声だった。



「……昨日、変な夢を見た」


翌朝。


美咲がそう言った。


蓮はコーヒーを飲んでいた手を止めた。


「どんな夢?」


「真っ暗な場所にいたの」


美咲は少し考えてから続けた。


「そこにドアが一枚だけあった」


蓮の手から、カップが滑りそうになった。


「……ドア?」


「うん」


美咲が顔を上げる。


「蓮も?」


「……ああ」


二人はしばらく黙った。


「声は?」


美咲が聞いた。


蓮は答えなかった。


答えたくなかった。


けれど、美咲は蓮の顔を見ただけで察した。


「……悠真?」


蓮は小さく頷いた。


美咲は目を伏せた。


「やっぱり……」


「お前も聞いたのか?」


「うん」


美咲の声が震えた。


「私のこと、呼んでた」


「何て?」


「名前だけ」


美咲は両手でカップを包んだ。


「『美咲』って」


二人は、それ以上話さなかった。


三年前に死んだ少年の名前が、二人の間に重く落ちた。



二日目の夜。


また同じ夢を見た。


今度は、ドアが近かった。


蓮はその前に立っていた。


黒いドアだった。


昨日よりずっと近い。


手を伸ばせば、ドアノブに触れられる。


蓮はゆっくり手を伸ばした。


その瞬間。


向こう側から声がした。


「兄ちゃん」


蓮の手が止まる。


「……悠真?」


返事はない。


代わりに、声が続いた。


「まだ、そこにいるの?」


「いる」


蓮は答えた。


「ここにいる」


すると、向こう側から小さく笑う声がした。


「そっか」


そこで目が覚めた。



「昨日より近かった」


翌朝、美咲が言った。


「……俺も」


「声、聞いた?」


「うん」


「何て言ってた?」


蓮は答えた。


「『まだ、そこにいるの』って」


美咲は黙った。


そして、しばらくしてから言った。


「私も聞いた」


「同じ?」


「ううん」


美咲は首を横に振った。


「私には違うことを言った」


「何て?」


「『まだ泣いてる?』って」


蓮は息を呑んだ。


「……悠真だな」


「うん」


それだけは、二人とも疑わなかった。


声だけではない。


言葉の選び方も。


呼び方も。


悠真だった。



三日目。


夢の中で、蓮は一人ではなかった。


「……美咲?」


目の前に、美咲が立っている。


美咲も驚いた顔をしていた。


「蓮?」


二人は顔を見合わせた。


周囲は暗い。


そして二人の目の前に、あの黒いドアがある。


今度はすぐそこだった。


蓮が一歩近づく。


美咲もついてくる。


そのときだった。


どこか遠くで、電車の走る音がした。


ガタン、ゴトン。


美咲が振り返る。


「……この音」


「どうした?」


「ううん……」


美咲は首を振った。


気のせいだと思った。


けれど、その直後。


足元に、見覚えのあるタイルが見えた。


青と白の小さな模様。


美咲は息を呑んだ。


「……ここ」


「知ってるのか?」


「たぶん」


美咲は周囲を見回した。


「昔、悠真と歩いたことがある」


蓮が黙る。


「駅の裏の商店街。雨が降ったあと、こういうタイルが濡れてた」


美咲は記憶を辿るように呟いた。


「でも……こんな場所にドアなんてなかった」


その瞬間。


黒いドアの向こうから声がした。


「二人で来て」


美咲の顔から血の気が引いた。


「……悠真」


蓮がドアノブに手を伸ばす。


けれど、美咲が腕を掴んだ。


「待って」


「どうした?」


「分からない」


美咲は首を振った。


「でも……今は開けちゃいけない気がする」


蓮はドアを見つめた。


「……そうだな」


二人が手を離した瞬間。


目が覚めた。



その日の朝から、美咲は夢の中で見た景色を思い出そうとしていた。


黒いドア。


青と白のタイル。


電車の音。


駅の裏側。


そして――悠真。


「……あそこだ」


突然、美咲は呟いた。


蓮が顔を上げる。


「何?」


「昨日の夢」


「うん」


「悠真と歩いた場所」


美咲はスマートフォンを手に取った。


地図を開く。


「駅の裏の商店街。三年前、悠真と何度か歩いたことがあるの」


「そんなところに?」


「分からない。でも、夢の景色と似てる」


蓮は美咲を見る。


「行ってみるか?」


美咲は頷いた。



駅の裏手にある商店街は、三年前とほとんど変わっていなかった。


古い店。


狭い路地。


雨の跡が残るタイル。


美咲は歩きながら周囲を見回した。


「ここだった」


「この辺か?」


「うん」


けれど。


どれだけ探しても、夢で見た店はなかった。


「……ないね」


「店なんて、最初からなかったんじゃないか?」


「そうかもしれない」


美咲はそう言った。


けれど、納得はできなかった。


電車の音。


タイル。


路地の角。


どれも夢と同じだった。


ただ一つ。


店だけがない。


二人はしばらくその場に立っていた。


やがて帰ることにした。



その夜。


美咲は夢を見なかった。


蓮も見なかった。


だからこそ、翌朝、美咲は不安になった。


「……もう終わったのかな」


「何が?」


「夢」


蓮は答えなかった。


二人とも、同じことを考えていた。


ここまで来てしまったのに。


何も起こらない。


悠真の声も聞こえない。


店もない。


それなのに――


「今日、もう一度行ってみよう」


蓮が言った。


美咲は顔を上げる。


「いいの?」


「昨日は俺たちが探した」


「うん」


「今日は……ただ、行ってみよう」


美咲は小さく笑った。


「分かった」



翌日。


二人はもう一度、同じ場所へ来た。


そして。


昨日まで何もなかった場所に――


店があった。


美咲が足を止めた。


「……ここじゃない?」


蓮は答えなかった。


古びた木枠のガラス扉。


看板はない。


ガラス越しに見える店内には、いくつものドアが並んでいる。


木製のもの。


金属製のもの。


白いもの。


そして。


店の奥に、一枚だけ黒いドアが見える。


夢の中で何度も見たドア。


「……どうして」


蓮が呟いた。


昨日まで、確かになかった。


美咲は答えなかった。


答えられるはずもなかった。


ただ。


一つだけ、分かることがあった。


この店は、自分たちが探して見つけたものではない。


向こうから――


二人を見つけたのだ。


少し離れたバス停に、少年が一人立っていた。


少年はこちらを見ている。


美咲は一瞬だけ、その視線に気づいた。


けれど、気に留めることはなかった。


自分たちには関係のない少年だ。


美咲は蓮を見る。


「……怖い?」


蓮は少し考えてから答えた。


「怖い」


「私も」


「じゃあ、帰るか?」


美咲は首を横に振った。


「……会いたい」


蓮は目を伏せた。


「俺も」


二人はしばらく黙っていた。


やがて蓮が言った。


「もし、本当に悠真に会えたら……」


「うん」


「俺、何を言えばいいんだろうな」


美咲は少しだけ笑った。


「私も分からない」


「何を聞きたい?」


美咲は黙った。


しばらくしてから、静かに言った。


「……怒ってないか聞きたい」


「何に?」


「私たちが生きてることに」


蓮は美咲を見る。


「……俺も、同じこと考えてた」


美咲は蓮の手を握った。


「じゃあ、一緒に聞こう」


「……ああ」


二人は店の扉へ向かった。


カラン。


小さな音がした。


二人は、店の中へ入っていった。



店内には誰もいなかった。


静かだった。


壁際には、いくつものドアが並んでいる。


まるでドアだけを売っている店のようだった。


けれど、店員はいない。


客もいない。


ただ、奥に黒いドアがある。


二人はそこへ向かった。


近づくほど、蓮の胸が苦しくなる。


夢の中と同じだった。


「……これ」


美咲が呟いた。


「うん」


黒いドアの前で、二人は立ち止まった。


蓮はドアノブを見る。


夢の中で何度も触れようとして、触れられなかったもの。


今は、手を伸ばせば届く。


「開ける?」


美咲が聞いた。


蓮は頷いた。


「二人で」


美咲も頷く。


二人でドアノブに手を置く。


カチッ。


小さな音がした。


ドアが開く。


その向こうには、白い光が広がっていた。


蓮は目を細めた。


光の向こうに、誰かが立っている。


「……兄ちゃん」


蓮の呼吸が止まった。


その声。


その呼び方。


間違えるはずがない。


「……悠真?」


少年が笑った。


三年前と変わらない。


少し生意気そうな顔。


短い髪。


いつも何かを企んでいるような目。


ただ。


あの日から時間だけが止まったままの姿。


「久しぶり」


蓮は一歩踏み出した。


「お前……」


声が震える。


言いたいことは、たくさんあった。


どうして死んだ。


どこにいた。


苦しくなかったか。


俺たちを覚えているか。


けれど、何一つ言葉にならない。


その横で、美咲が泣いていた。


「……悠真」


「美咲も」


悠真は笑った。


「久しぶり」


「……うん」


美咲は涙を拭った。


「会いたかった」


「うん」


「ずっと」


「知ってる」


悠真は二人を交互に見た。


そして、少し困ったように笑う。


「二人とも、まだ俺のことばっかり考えてるんだな」


蓮が顔を上げた。


「当たり前だろ」


「三年だよ?」


「三年でも、お前は俺の弟だ」


「そっか」


悠真は少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ、よかった」


「何が?」


「兄ちゃんがちゃんと兄ちゃんだったから」


蓮は何も言えなかった。


悠真は美咲を見る。


「美咲も」


「……何?」


「まだ、兄ちゃんのこと心配してる?」


美咲は俯いた。


「……うん」


「そっか」


悠真は笑う。


「ありがとう」


その言葉に、美咲の目からまた涙が落ちた。


「私……」


美咲は唇を噛んだ。


「悠真に謝りたかった」


「何で?」


「蓮と付き合ってること」


蓮が驚いて美咲を見る。


「美咲……」


「だって」


美咲は悠真を見る。


「私たちが一緒にいるのって、あなたがいなくなったからなのかもしれないって……ずっと思ってた」


悠真はしばらく黙っていた。


そして、少しだけ笑った。


「そんなこと、俺が決めることじゃないよ」


「でも……」


「兄ちゃんと美咲が好きで一緒にいるなら、それでいいじゃん」


蓮が口を開く。


「……俺たちが幸せになってもいいのか?」


悠真は不思議そうな顔をした。


「何それ」


「だって、お前は……」


「死んだよ」


悠真はあっさりと言った。


「だからって、兄ちゃんまで俺のところに来る必要ないよ」


蓮は言葉を失った。


「俺がいなくなったからって、兄ちゃんまで俺のところに来たら嫌だ」


「……悠真」


「美咲も」


「うん」


「兄ちゃんをよろしく」


美咲は涙を流しながら笑った。


「それ、私が言う台詞じゃない?」


「そうかも」


悠真も笑った。


白い光が、少しずつ強くなっていく。


「もう時間みたい」


「待ってくれ」


蓮が手を伸ばす。


「まだ話したい」


「俺も」


悠真は少し寂しそうに笑った。


「でも、もういいんだ」


「何が?」


「兄ちゃんたちは、もう大丈夫だから」


「大丈夫じゃない」


蓮は即答した。


「まだ、お前がいないと寂しい」


「うん」


「忘れられない」


「忘れなくていいよ」


「……じゃあ、どうすればいい?」


悠真は少し考えた。


「俺のことを覚えたまま、生きればいいんじゃない?」


蓮は黙った。


「俺の弟としてじゃなくて」


悠真が笑う。


「兄ちゃんとして」


その言葉に、蓮は泣いた。


三年間。


一度も流せなかった涙だった。


「……分かった」


蓮は涙を拭った。


「分かったよ」


悠真は美咲を見る。


「美咲」


「うん」


「兄ちゃんのこと、好き?」


美咲は涙を流したまま笑った。


「好き」


「そっか」


悠真は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、それでいい」


白い光がさらに強くなる。


「悠真!」


蓮が叫んだ。


「何?」


「俺……」


言葉が詰まる。


ようやく絞り出した。


「俺の弟でいてくれて、ありがとう」


悠真は笑った。


「俺も」


そして、美咲に向かって言った。


「友達でいてくれて、ありがとう」


「……うん」


「じゃあね」


悠真の姿が、光の中へ消えていく。


二人はしばらく、その場から動けなかった。


やがて。


美咲が小さく言った。


「……帰ろうか」


蓮は頷いた。


「うん」


二人は、来た道を戻った。



店の外へ出ると、夕暮れの街だった。


さっきまでいたバス停には、もう少年の姿はなかった。


蓮は空を見上げる。


「……なんか、不思議だな」


「うん」


「会えたのに」


「うん」


「前より寂しくない」


美咲は蓮の手を握った。


「私も」


二人は歩き出した。


しばらく歩いたところで、蓮が足を止めた。


「美咲」


「何?」


「これからも一緒にいてくれる?」


美咲は少し驚いた顔をした。


それから笑った。


「うん」


「悠真がいなくても?」


美咲は蓮の手を握り直した。


「悠真がいたからじゃないよ」


そして、蓮の目を見た。


「今は、あなたと一緒にいたいから」


蓮は笑った。


「……そっか」


二人は再び歩き出した。


もう振り返らなかった。


その背後で。


店の中から、小さな音がした。


カチッ。


黒いドアが、静かに閉じる。


それきり、何も起こらなかった。


ただ。


二人の歩いていく先には、夕暮れの光が残っていた。


悠真のいない明日へ。


二人が、自分たちで選んだ明日へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。