外伝 ノミの心臓
病院の窓から見える空は、いつもより高く見えた。
西村はベッドの上から、ぼんやりと外を眺めていた。
校庭が見える。
ちょうど体育の授業をしているらしい。
遠くで笛の音が聞こえる。
そのたびに、西村は少しだけ顔をしかめた。
「……いいなあ」
誰に言うでもなく呟く。
今日は学校を休んでいる。
理由は簡単だ。
心臓の検査。
昔から何度も繰り返してきたことだった。
特別なことではない。
そう思うことにしている。
看護師が入ってきて、いくつか質問をした。
具合はどうか。
胸は苦しくないか。
息切れはないか。
西村はいつものように答える。
「大丈夫です」
本当は少し退屈だった。
病院は嫌いではない。
けれど、ここにいるとどうしても、
「病気の西村」
として扱われる。
それが嫌だった。
しばらくして、病室のドアが開いた。
「西村」
聞き慣れた声。
西村が振り返る。
「……一登?」
そこに一登が立っていた。
手には学校の鞄。
「お見舞い」
「わざわざ来たのかよ」
「暇だったから」
「嘘つけ。学校帰りだろ」
「ばれた?」
一登が笑う。
西村も笑った。
それだけで、少し気分が楽になった。
一登は病気のことを聞かなかった。
「今日の体育さ」
いきなり学校の話を始める。
「先生、めちゃくちゃ機嫌悪かった」
「何で?」
「誰かがボールを校舎の窓に当てた」
「お前だろ」
「違う」
「絶対お前だ」
「違うって」
二人で笑った。
病室に、笑い声が響く。
西村は思った。
こういう時間が一番好きだ。
病気の話をしなくていい。
自分が病気だということを忘れていられる。
一登は、いつもそうしてくれた。
*
それから何年か経った。
西村の病気が治ったわけではない。
体育の授業を見学することもある。
定期的に病院へ行く。
時々、胸が苦しくなることもある。
でも、それ以外は普通だった。
だから西村は、自分の病気を特別扱いしなかった。
周りにも、なるべくそうしてもらっていた。
「お前、ほんとにノミの心臓だよな」
ある日、一登が笑った。
「うるせえ」
西村は胸を押さえる。
「本当にノミなんだから仕方ねえだろ」
「じゃあ、無理すんなよ」
「お前が言うな」
「何で?」
「お前、俺より無茶するだろ」
一登は笑った。
「それはそうかも」
西村も笑った。
そんな日々が続いていた。
だから。
最初に異変に気づいたときも、西村は病気のせいだと思った。
*
その日は、一登と学校から帰っていた。
途中で別れて、一人で自転車を走らせる。
夕方の道。
いつもの道。
何も変わったところはない。
――のはずだった。
西村は、突然ブレーキを握った。
キキーッ。
自転車が止まる。
「……あれ?」
道の脇に、扉があった。
建物もない。
壁もない。
ただ、一枚の扉だけが立っている。
古びた木の扉。
西村は自転車から降りた。
一歩近づく。
胸が鳴った。
ドクン。
「……」
西村は胸に手を当てた。
いつもの鼓動。
そう思おうとした。
けれど、違う。
何かがおかしい。
心臓が、
扉を見ている。
そんな感覚だった。
「……何だよ、これ」
西村は扉を見つめる。
近づきたくない。
触りたくない。
それなのに、目を離せない。
そして。
コン。
扉の向こうから音がした。
ノック。
西村は息を呑んだ。
コン。
もう一度。
「……誰?」
返事はない。
西村は自転車に戻ろうとした。
そのとき。
「……西村」
足が止まった。
今、名前を呼ばれた。
確かに。
「……」
振り返る。
扉しかない。
「誰だよ」
返事はない。
西村は胸を押さえた。
心臓が速くなっている。
これは発作なのか。
それとも――
「……知らねえ」
西村は首を振った。
「俺、帰るからな」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
「そっちには行かない」
扉は動かなかった。
ただ。
しばらくすると、わずかに震え始めた。
ガタッ。
西村は後ずさる。
「……何だよ」
ガタッ。
「お前も怖いのか?」
自分でも馬鹿なことを言っていると思った。
扉が怖がるはずなどない。
けれど。
そんな気がした。
この扉は自分を呼んでいるのではない。
むしろ――
避けている。
西村は一歩下がった。
すると、扉の震えが止まった。
「……」
もう一歩。
何も起きない。
さらに一歩。
扉は完全に静かになった。
西村は眉をひそめた。
「……俺を避けてる?」
答えはない。
けれど、その感覚だけは消えなかった。
西村は自転車にまたがった。
そして、その場を離れた。
*
家に帰ると、すぐにベッドへ横になった。
胸に手を当てる。
鼓動は落ち着いている。
「……発作じゃない」
そう呟いた。
だったら何なのか。
分からない。
考えても分からない。
だから西村は、いつものように笑った。
「疲れてたんだな」
その夜は、早く眠った。
*
翌朝。
学校へ向かう途中で、一登と会った。
「おはよう」
「おう」
西村はいつも通りだった。
「昨日、何してた?」
一登が聞く。
「普通に帰ったよ」
「何か変なことなかった?」
西村の足が一瞬だけ止まった。
「……何で?」
「何となく」
西村は笑った。
「何もねえよ」
「そう?」
「ノミの心臓がちょっと騒いだだけ」
「またかよ」
一登が笑う。
西村も笑った。
それ以上は話さなかった。
*
その日の放課後。
二人で帰っている途中だった。
一登がふと、西村を見る。
「なあ」
「ん?」
「お前、昨日から胸押さえる回数増えてない?」
西村は手を下ろした。
「気のせい」
「本当に?」
「本当」
一登は黙った。
西村も黙った。
しばらく歩く。
「……病院、行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫だって」
「でも」
「大丈夫」
少し強い声になった。
一登が黙る。
西村はすぐに後悔した。
「……悪い」
「いや」
一登は前を向いたままだった。
「でも、無理してるときのお前、分かるから」
「……」
「昔からそうだし」
西村は何も言えなかった。
一登は病院で見た自分を覚えている。
体育を見学していた自分も。
苦しくて少し遅れて歩いていた自分も。
全部。
「……お前、覚えてたのか」
「何を?」
「昔のこと」
「当たり前だろ」
一登は不思議そうに言った。
「友達なんだから」
西村は前を向いた。
少しだけ笑った。
「……そっか」
*
その夜。
西村は眠れなかった。
昼間、一登に言われた言葉が頭から離れない。
友達だから。
西村は天井を見つめた。
自分には病気がある。
それは事実だ。
でも、一登にはそれを理由に心配してほしくない。
特別扱いしてほしくない。
ずっとそう思っていた。
なのに。
あの扉を見た瞬間。
最初に思ったのは、自分の病気のことではなかった。
一登のことだった。
もし、あの扉が一登の前に現れたら。
もし、一登まで巻き込まれたら。
「……駄目だ」
西村は呟いた。
「それだけは」
*
数日後。
また扉を見つけた。
今度は、一登と一緒だった。
西村は足を止めた。
一登も立ち止まる。
「……どうした?」
西村は答えなかった。
目の前にある。
あの扉。
心臓が鳴る。
ドクン。
一登が西村を見る。
「西村?」
「……何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「いいから」
西村は一登の前に出た。
扉との間に立つ。
「ここから離れよう」
「何で?」
「いいから」
「西村」
「いいから!」
声が大きくなった。
一登が驚く。
西村自身も驚いた。
しばらく沈黙が続く。
「……悪い」
西村は俯いた。
「でも、ここは駄目だ」
「何がある?」
「分からない」
「じゃあ、何で?」
西村は答えられなかった。
言えば、一登はきっと近づく。
だから言えない。
「……俺が嫌なんだよ」
「何が?」
「この場所が」
一登は西村を見る。
そして、静かに言った。
「じゃあ、帰ろう」
西村は顔を上げた。
「……いいのか?」
「うん」
一登は歩き出した。
西村もついていく。
しばらくして。
一登が言った。
「でも」
「ん?」
「次に何かあったら言えよ」
西村は黙った。
「一人で抱えんな」
「……」
「友達なんだから」
西村は笑った。
「お前、そういうの反則だろ」
「何が?」
「断れなくなる」
一登が笑う。
「じゃあ断るなよ」
「……分かったよ」
*
その夜。
西村は夢を見た。
暗闇の中に、扉がある。
いつもの扉。
その向こうから、音がする。
コン。
西村は動かない。
コン。
「……俺は行かない」
コン。
「一登も連れていかない」
しばらく沈黙。
すると、扉の向こうから声がした。
「……どうして?」
西村は答えた。
「友達だからだよ」
「……」
「俺が怖いのは別にいい」
西村は拳を握った。
「でも、あいつまで怖い目に遭わせるのは嫌なんだ」
扉が、わずかに揺れた。
西村は一歩下がる。
「俺はこっちにいる」
扉の向こうから、かすかな音。
カチッ。
鍵が掛かったような音だった。
西村は目を覚ました。
*
朝。
いつものように学校へ向かう。
途中で一登と合流した。
「おはよう」
「おう」
「眠そうだな」
「お前もな」
二人は並んで歩く。
西村はふと、自分の胸に手を当てた。
鼓動は正常だった。
それから前を見る。
一登がいる。
いつもと変わらない。
それだけでいい。
「なあ、一登」
「ん?」
「お前さ」
「何?」
「……いや」
西村は笑った。
「何でもない」
「変なの」
「そうか?」
「そうだよ」
二人は笑いながら歩いた。
*
それからしばらくして。
西村は病院の診察室にいた。
検査結果を聞く。
「今のところ、大きな変化はないですね」
医師が言う。
「そうですか」
「無理だけはしないように」
「分かってます」
病院を出る。
外はよく晴れていた。
西村は空を見上げた。
病気がなくなったわけではない。
これからも病院には通う。
体育を休むこともある。
胸が苦しくなることもあるだろう。
それでも。
自分は普通に生きていく。
病気のせいで、何もかも諦めるつもりはない。
西村は歩き出した。
病院の門を出たところで、一登が待っていた。
「遅い」
「検査なんだから仕方ねえだろ」
「腹減った」
「俺も」
「じゃ、食って帰るか」
「おう」
二人は並んで歩き出した。
西村は胸に手を当てた。
静かだった。
何も聞こえない。
扉の音も。
ノックも。
知らない声も。
ただ、自分の鼓動だけがある。
ドクン。
ドクン。
西村は少し笑った。
「……ノミの心臓、か」
「何か言った?」
一登が振り返る。
「何でもない」
西村は笑う。
そして、一登の隣を歩く。
病気があっても。
怖いものがあっても。
分からないことがあっても。
一人ではない。
それだけで、少しだけ強くなれる気がした。
二人の後ろ。
誰もいない道の向こうで。
小さな音がした。
カチッ。
西村は振り返らなかった。
もう、振り返る必要はなかった。
今、自分がいるのは――
こちら側なのだから。




