若様は人気者
角亀藩の朝は日の出とともに始まる。
畑仕事に向かう者、道具の手入れをする者、食材を調理する者、体を鍛える者。特別なことがない限り、日々することは変わらない。食糧の手配と、襲い来る外敵への警戒。
かつては郷の周囲に巡らされていた石垣は、破壊と補修が繰り返された結果、今ではほとんど残っていない。戦い続けた結果、彼らは身を護る壁を必要としなくなった。郷を襲うような外敵がほとんどいなくなったことも大きい。
郷の中央部にある屋敷で鬼角は目を覚ました。藩主の次男である彼は、専門とする役目を持たない。朝食を済ませると、郷を見回ろうと表に出た。
最初に足を向けたのは、子供たちが体を鍛えている広場だ。まだ元服も迎えていない少年少女が、組み合って力比べを繰り広げている。
「若様! おはよう!」
「おお、やっとるな」
次期藩主は兄である義秀だ。なので鬼角は厳密には『若』ではない。何度か呼び方を改めるように言ってきたが、郷の者たちは一向に直そうとせず若と呼ぶ。
鬼角に気づいた子供たちが、力比べを止めて駆けてきた。鬼角を取り囲んで、口ぐちに言いたいことを言ってくる。
「若様! 肉うまかった!」
「若様! 今日こそ一本取るからね!」
「若様! 狩りを教えてくれよ!」
寄ってくるのは子供たちだけではない。騒ぎの中心に鬼角がいると知っている郷の者たちが、一人またひとりと鬼角の元に現れる。
「若、いい獣肉をありがとうよ」
「肉も良かったがあの皮が良いぞ。郷の補修があれで随分と進むはずだ」
「若、殿様に絞られんかったか?」
「おいおい、いっぺんに言われたら答えられんわ」
集まってくる者たちは一様ににこやかだ。鬼角が返事になっていない答えを返しても意に介した様子はない。彼らは要するに、鬼角に話しかけられれば満足なのだ。
と、唐突にさっと人垣が割れた。鬼角が目をやると、そちらには赤子を抱いた妙齢の女性。
「おや、おんしゃ幸三のところの」
「はい。若様、この子を撫でてやってもらえませんか」
確か半年ほど前に娘が生まれたはずだ、と思い出す。元気に手足をばたつかせている様子を見るに、健やかに育っているようだ。
伸ばされた小さい手に指を掴ませ、ふわふわの髪をそっと撫でる。
「名は?」
「お銀と」
「そうか、ええ名じゃ。お銀よ、健やかに強く育つんじゃぞ」
鬼角は並外れた膂力を持つが、それゆえに力加減には日頃から気をつけている。赤子に触れる時は、いつも以上に気を配る。小さなお銀は痛みを訴えることも不快感に泣くこともなく、きゃっきゃと笑い声を上げた。
小さい手が、思った以上に強い力で指を掴んでくる。
「力持ちじゃな。大きくなれば皆の頼りにされるのう」
「ありがとうございます」
母が一歩引くと、お銀もするりと手を放す。頭を下げて家へと戻っていくのを見送って、鬼角は子供たちの方に振り返った。
「よし、それじゃあ今日は調練に付き合ってやろうか。今日は何をするんじゃな?」
「角力!」
わっ、と子供たちが湧く。そういえば鬼角が来る前から組み合っていたっけ。と、集まっている大人たちの一部も体をほぐし始めた。混ざるつもりか。
危険な生物の多いこの土地では、何よりも強さが尊ばれる。自発的に鍛えようというなら止める理由はない。だが、それはそれとして。
「今日の分の畑仕事が終わっとらんやつは、そっちを先に済ませえよ」
同じくらい、飯の世話も大事なのだ。
***
鬼角が郷の外に奇妙な気配を捉えたのは、調練が終わって皆が昼飯に散った後のことだった。
南の方で、何やら動き回っている。徐々にだがこちらに向かってきているような。
「どうしたんや、若?」
「南の大森あたりで、妙な気配がしとってな」
足元で大の字に伸びていた洸次郎が、こちらの様子を見咎める。途中から調練に参加して、立ち上がれなくなるほど動き回ったのだ。
「この気配、猪頭どもか。このまま進むと均吾ヶ原に出てくるのう」
「ほんなら、何人か手勢を出して」
角亀藩の敷地と森とは、かなり距離が離れている。だが洸次郎は鬼角の感知を頭から信用して話を進めている。
が、鬼角は軽く首を振った。
「そこまでせんでええわ。猪頭どもなら、わしがちぃと脅しつけりゃ巣に逃げ帰るじゃろ」
「そりゃそうやけど、若を一人で行かせるわけにはいかんわ。わしも」
「勇ましいのは結構じゃが、しばらく立てんのと違うか」
「ぐっ……」
「わしを心配するなら、わしから一本でも取れるようになってからにせえ」
顔を真っ赤にして立ち上がろうとする洸次郎だが、手足は意に反して震えるばかりで言うことを聞いてくれない。
「ま、今日は巡り合わせが悪かったと思って諦めえ」
言うや、鬼角は南に向かって走り出した。もしかすると、久々に思う存分暴れられるかもしれないと、少しだけ楽しみにしながら。
***
「……なんじゃあ、ありゃあ」
均吾ヶ原。この地に角亀藩が飛ばされてきた時に、最初に化生と戦って死んだ武士の名をつけられた平原。
のちに猪頭と呼ばれていることを知った猪頭の異種族と、三百年の間に幾度となく戦いを繰り広げた戦地でもある。
最後の激突は、鬼角が生まれる前だったという。その折に散々に打ち破って以降、猪頭どもは均吾ヶ原以北には近寄って来なくなったというが。
「馬が……箱を牽いとるんか」
先頭を走るのは二頭の馬と、それらが牽く箱のようなもの。馬も随分と貧相な体格で、この辺りに住んでいるものとは種類からして違いそうだ。
箱の前方には、背の低い種族がふたり。馬と箱の後ろには、土煙を上げて猪頭の群れが駆けている。
「小鬼が猪頭を引き連れとるんか。角亀藩とぶつけようって魂胆かのう」
いかにも小鬼らしい浅知恵だ。鬼角は思わず苦笑を漏らした。
と。
「ダララッツ高地に……人!?」
箱に乗っている小鬼の片方が、こちらに気づいたようだった。何やら慌てた様子で馬首をこちらに向けてくる。
もう片方が、妙に真剣な顔で大声を上げた。
「そ、そこの人! いますぐそこから逃げろ! オークの大群だ! 危ない!」
「……なんじゃあ?」
後ろの群れをこちらにぶつけるために走っているのではないのか。困惑する鬼角に向けて、小鬼の片方が箱の中に向かって何やら叫ぶ。
「ケニー! 手を貸してくれ! 彼を馬車に上げるんだ!」
「無茶な!」
「ああ? ……もしかして、追われとるんか」
鬼角はそこで、両者の関係性を捉え直した。彼らの常識に照らし合わせると珍しいことだが、追っているのが猪頭なのだ。
こちらを謀るつもりにしては、あまりに切羽詰まっている。角亀藩に厄介を呼び込むつもりではないのなら、助けてやっても良いか。
鬼角は馬と箱が横を走り抜けるに任せた。差し伸べられた手は無視だ。箱の方から何やら怒声が聞こえる。
「おうおう、おるおる。こんなに猪頭どもを見るのは久しぶりじゃな」
南の大森に出かけた時以来だ、と思い出す。その時に見かけたやつはいるかな、と見回してすぐに確認を諦めた。猪頭の顔は鬼角には区別がつかない。
口々に吼えながら駆ける猪頭たちが、ようやく鬼角を見つけた。こちらの風体に、何がいるのか気づいたのだろう。先頭が速度を緩め、辺りを見回したところで後ろに押されて倒れ伏した。
「お前ら、ご機嫌じゃのう。ここから先は角亀藩じゃぞ」
「カッキハン!?」
「カッキハン!」
「トマレ! トマレ! カッキハン! カッキハンダ!」
特に大声を上げたわけではない。だが猪頭たちはみるみる勢いを減じていく。
先頭の何名かが倒れ伏し、さらに何名かが覆いかぶさるようになったところで完全に止まった。鬼角が一歩だけ踏み出すと、身動き取れなくなっていた一体がヒイと甲高い悲鳴を上げた。
そうそう、本来の猪頭どもの反応はこれだ。ようやくそれらしい反応を返してきたことに満足して、鬼角は手近な者に軽い調子で声をかけた。
「随分と頭数をそろえたもんじゃ。なんじゃ、わしらと久々に戦でもしようってか、おう?」
「チガウ! カッキハン、タタカワナイ!」
猪頭の言葉はどうにも聞き取りにくい。だが、どうやらこちらに対して敵意はないようだ。鬼角はひとまず事情を確認すべく、その場にどかりと腰を下ろすのだった。




