第9話 捲りは、後出しの早駆け
朝五時、霧のバンク。
「五組で轢かれた」
「見てた」御影は即答した。「フェンスの上から。笑った」
「見てたなら助言くれ」
「まあ待て」御影は自転車にまたがったまま、腕を組んだ。珍しく、教官みたいな顔をしている。「片瀬。お前さ、前で風を受けることしか知らないだろ」
「先行屋だからな」
「もったいねえんだよ、それが」
御影はバンクの走路を顎で指した。
「風はな、受けるもんじゃなくて——受けさせるもんでもあるんだよ。見てろ」
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御影は一人で、デモンストレーションを始めた。
まず、走路の前方に「仮想の先行」を置く。実際には誰もいない空間を、御影は「ここに逃げてる奴がいる」と宣言して、その七、八車身後ろを、じっと走った。
溜め、だ。
仮想の先行が風を受け、削れていくのを、後ろの無風で待つ時間。御影の上体は微動だにしない。ペダルだけが、省エネの回転で回り続ける。
そして、二コーナーを回った瞬間——
爆ぜた。
外に持ち出した御影の加速は、朝の霧を切り裂く音がした。数秒で最高速に達し、仮想の先行がいたはずの空間を、上から丸ごと飲み込んで、抜き去っていく。
捲り。
先に行った奴に風を全部払わせて、削れきった頃合いに、貯めた脚で上から行く戦法。
俺は、フェンス際で棒立ちになっていた。半分は、単純に見とれて。もう半分は——翻訳が、降りてきたからだ。
「……御影。捲りってあれか。後出しの早駆けか」
「は?」
「先に仕掛けた奴に風の支払いを全部押し付けて、支払いが終わった頃に、自分だけ無傷で早駆けする。順番を入れ替えただけで、やってることは俺の沼と同じ構造だ」
御影は数秒きょとんとして、それから、いつもの顔で笑った。
「お前の言い方、いちいち金の匂いがすんな。……まあ、合ってるよ。競輪の戦法って、つまるところ全部『風を誰に払わせるか』の話だから」
風を、誰に払わせるか。
その一行を、俺は頭の中のノートに、太字で書いた。たぶん、今後十年使う一行だ。
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問題は、ここからだった。
「で、御影。あの捲り、俺に撃てると思うか」
「無理」
即答だった。清々しいほどの。
「今の見たろ。捲りは最後の数秒が瞬発の塊なんだよ。溜めた脚を、一瞬で全部速度に変える。お前、それいちばん苦手なやつじゃん」
その通りだ。瞬発F24。俺の身体は、貯金を一括で下ろせない。
「じゃあ俺は、風を受け続ける一生か」
「んー」
御影は空を見て、首をひねって、それから、天才特有の雑な一言を落とした。
「なら、長くすれば?」
「……長く?」
「一瞬で行けないなら、長い時間かけて行けばいいだろ。お前、長いのだけは得意なんだから」
雑だ。雑すぎる。でも——
俺の頭の中で、そろばんが弾け始めた。
普通の捲りが、残り半周・二百メートルの一撃だとする。俺の瞬発では、その距離で速度差は作れない。だが、発射地点を残り一周半まで下げたら? 六百メートルかけて、じわじわと速度差を積み上げていく捲りなら?
一撃の威力は要らない。加速の総量なら、持久で払える。
瞬発で撃つ捲りじゃない。持久で撃つ捲り。
……理論上は、成立する。理論上は。
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五組、二戦目。俺は生まれて初めて、「待つレース」をやった。
結論から言うと、待つのは、めちゃくちゃ気持ち悪かった。
号砲後、あえて後方に構える。真壁が予定通り前へ。俺は最後方で、脚を溜める——溜めながら、身体中がむずむずしていた。前に、いたい。風を、受けていたい。まだ一年目のくせに、俺の身体はもう先行屋の形に固まり始めているらしい。職業病の発症が早い。
我慢だ。今日は、実験なんだ。
残り一周半。バックストレッチの入り口。
発射。
外に持ち出して、踏み始める。一気には上がらない、上がれない。それでいい。一周半かけて、加速の借金を分割で返していく。前を行く集団との車間が、少しずつ、少しずつ、詰まっていく——
鐘。まだ届かない。最終コーナー。真壁の背中が、初めて「近づいてくる背中」として視界に入った。五車身が三車身に。三車身が一車身に。最終直線、俺の前輪が真壁の後輪に並びかけて——
ゴール。
二着。
届かなかった。半車身、足りなかった。発射がたぶん、五十メートルぶん遅かった。
でも、流し走行の間、俺はハンドルを握ったままニヤけるのを止められなかった。轢かれて五着だった先週と、届きかけての二着。数字の上ではたった三つの差。中身は、別の競技だ。
真壁が、流しですれ違いざま、初めて俺に口をきいた。
「……お前、後ろからも来るのか」
「まだ試作品だけどな」
「面倒くせえな」
最大級の賛辞として、受け取っておいた。
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翌朝五時、御影に報告した。
「半車身、届かなかった。発射距離の計算が甘い」
「見てた。フェンスの上から」
「毎回いるなお前」
「面白えんだもん、お前のレース」御影はけらけら笑って、それから、少しだけ真面目な目をした。「片瀬。あの長ったらしいの、捲りって呼んでいいのか、俺には分かんねえけど……あれ完成したらお前、前からも後ろからも来る奴になるぞ。逃げて良し、捲って良し。……えぐいな、それ」
前からも、後ろからも。
悪くない響きだった。俺は観察ノートの新しいページに、戦術の名前を書いた。
ロング捲り(仮)。
課題の欄は、今夜は空けておく。何が足りなかったかは、レースがもう、身体のほうに書き込んでいった。
実験の材料が多い人生は、退屈しない。




