第10話 どっちなんだよお前は
「御影。先行役、やってくれ」
朝五時のバンクで頼むと、天才は目を輝かせた。
「お前が捲る側で、俺が逃げる側? ……いいよ! 面白そう!」
無償で了承された。この男の行動原理は「面白いかどうか」の一軸しかない。扱いやすいのか扱いにくいのか、いまだに判定できない。
実験内容は、ロング捲りの発射距離のスイープだ。
御影に一定ペースで逃げてもらい、俺が残り一周、一周と四分の一、一周半——と発射地点を変えて追う。各パターンで、捕捉までの距離と自分の消耗を計測する。理科の実験と同じだ。変数を一個ずつ動かして、表を埋める。
三本目で、実験は根本的な欠陥にぶち当たった。
「御影。お前、垂れろよ」
「は?」
「本番の相手は終盤で垂れる。垂れた奴を捕まえる練習がしたいんだ。お前、全然垂れないから実験にならん」
「……垂れ方が、わかんねえ」
天才は真顔で言った。垂れ方がわからない。この世で一番贅沢な悩みを聞いた。結局、御影の「垂れたフリ」は棒読みの学芸会みたいなペースダウンにしかならず、実験台としては欠陥品と判明した。天才は、凡人の練習台にすらなれない。
だが、この欠陥のおかげで、俺は本質に気づいた。
発射距離は、固定値じゃない。
「残り何メートルで行く」と決め打ちする数字じゃなくて——前を行く奴が、いつ垂れるかに連動する変数なんだ。
つまり、必要な式はこうなる。
発射地点 = 相手の垂れ始め予測地点 − 俺が捕捉に要する距離。
右辺の後半は、朝練の実験で埋まる。そして前半は——観察ノートだ。
敗北の夜に作った俺製の他人ステータスと、御影の授業で生まれたロング捲りが、ここで一本に繋がった。相手の垂れ始めを読む目が、そのまま照準器になる。発明品同士が勝手に合体するの、発明した本人が一番びっくりする。
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五組、三戦目。
真壁は、対策してきた。
号砲後、俺が後方に構えたのを一瞥して——早めに、上げ始めた。
鐘のずっと手前から、自分でペースを引き上げていく。狙いは明白だ。先に速度を上げてしまえば、後方の俺は「追いつくための速度差」を作れない。ロング捲りは、助走の距離ごと圧殺される。
的確すぎる対策だった。観察ノートの真壁のページに「学習速度: 速い」と追記が必要だ。
俺は後方で、選択肢を数えた。ロング捲り——死んだ。早駆け——もう真壁が先にやっている。席が埋まっている。
……待てよ。
席が埋まっている、ということは。
風を払う係は、もう真壁がやってくれている、ということだ。
俺は静かに位置を上げて、真壁の真後ろに——番手に、収まった。
生まれて初めての、特等席だった。初レースで矢部が座っていた場所。ずっと俺が「ずるい」と思っていた場所。目の前の大きな背中が、風の壁を全部受け止めてくれて、俺の周りだけ、空気がぬるい。
なるほどな。ここは、こんなに静かなのか。
真壁は早上げの代償を、一周ぶん先払いで削られ続けている。俺は無風で、満タン。鐘。最終コーナー。真壁の巡航が、わずかに緩んだ——
今だ。……いや、今か?
最終直線。俺は外に持ち出して、温存した持久を解き放った——つもりだった。
出るのが、半拍、遅れた。
いつ出る。どこから出る。内か、外か。無風の席で脚を残すところまでは、計算どおりだった。だが「残した脚を、どの一瞬で使うか」——その判断だけは、俺の頭のどこにも入っていなかった。迷った半拍のあいだに、真壁が最後のひと踏みで合わせてくる。並びかけた前輪が、届かないまま——
ゴール。
二着。
真壁が、勝った。
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「——どっちなんだよ、お前は!!」
流し走行で、勝ったはずの真壁が吠えた。涼しい顔じゃなかった。
「前から来たり、後ろに回ったり!! 勝っても気色わりぃんだよ、お前と走ると!!」
「奇遇だな。俺も今、自分の脚質を探してる最中だ」
真壁は深いため息をついて、吐き捨てた。
「……面倒くせえ。五組で一番面倒くせえ」
勝者からいただく賛辞は、二割増しで響いた。
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夜、ノートで敗因を解剖した。
番手は、静かで、ぬるくて、脚が残る席だった。そこまでは、計算どおり。だが席に座ることと、席で仕事をすることは、別の技術だった。矢部は七冊の手帳をかけて「いつ出るか」を磨いてきた。俺はそれを、即興でやれると思った。思い上がりだ。データのない領域で勝負した。俺らしくもない。
翌朝、俺は矢部に頭を下げた。
「矢部。差しのタイミング、どうやって測ってる」
矢部は珍しく、少しだけ得意げな顔をした。
「感覚だ」
「お前もか!!」
「……七冊ぶんの、感覚だ」
積み上げた者だけが使っていい言葉だった。
「なんで、そこまで書くんだ」
聞くと、矢部は少し黙って、遠くの手帳を思い出すような目をした。
「一冊目の一ページ目に、中学で一度も勝てなかった奴の名前がある。研究して、研究して、卒業まで一回も勝てなかった。そいつはもう、自転車を辞めた。……俺の帳簿には、あいつへの黒星だけが、精算されずに残ってる」
「……それで、まだ書いてるのか」
「ああ。二度と、精算できない負けを作らないためだ」
矢部は手帳をぱたんと閉じて、こう付け足した。
「片瀬。悪いことは言わない。お前は、前の人間だ。後ろの技術は、俺たちに任せろ」
前の人間。
妙に、腑に落ちた。番手の席は静かで合理的で——レースの間じゅう、俺の身体はずっと「前に行きたい」と喚いていた。俺の勝ち筋は、あの席にはない。風の中にある。
夜のノートに、戦法の棚卸しをした。
早駆け。沼。ゼロ距離の沼。ロング捲り(未完成)。差し(未遂)。
武器庫に、初めて「未遂」の棚ができた。いい。失敗のデータは、成功のデータより情報量が多い。今日の半拍の迷いは、丸ごと明日の設計図だ。
そして来週は、昇組戦。相手は、今日勝った真壁。あいつは今、俺の捲りを殺す方法と、俺の差しが未熟なことの、両方を知っている。
なら、教えてやろう。未完成のロング捲りを、一週間で完成させたらどうなるか。
借りは、利子をつけて返す主義だ。




