第11話 壁の越え方
先週の借りを、返す週が来た。
昇組戦の週、真壁は静かだった。
観察ノートの真壁のページには、こういう記録がある。レース前、必ずバンクの縁を一人で一周歩く。歩く速さは、その日の気迫に比例する。
昇組戦の朝、真壁の一周は、今までで一番ゆっくりだった。
「片瀬。真壁、今日はヤバいぞ」
朝食で、K指数が発動した。
「根拠は」
「飯のスピード。いつもの倍速で食ってた。あれは、腹をくくった男の食い方だ」
「……柔道にもいたのか、ああいうの」
「団体戦の大将は、みんなあの食い方になる」
飯のスピードと覚悟の相関。K指数の観測網は、今日も俺のストップウォッチの外側を捉えている。
つまり今日の真壁は、読み合いを捨ててくる。
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五組最終戦。昇組のかかった一戦。七車。
号砲——真壁が、行った。
鐘どころか、一周目から。誰の様子も窺わず、何の駆け引きもなく、五組の主は自分の巡航最速でバンクの先頭に立ち、そのまま、ただ踏み続けた。
力の早駆け。俺の「沼」の、パワーによる翻訳。小細工なしで、ついてこられる奴だけついてこい、という宣言。
五組の面々が、みるみる千切れていく。矢部が食らいつき、熊井が食らいつき、それでも一周ごとに車間が開く。俺は——最後方で、待った。
身体は今日も「前に行け」と喚いている。黙ってろ。今日は、計算の日だ。
観察ノート、真壁のページ。垂れ始めの兆候: 右肘が、開く。
あの男の巡航は完璧だが、燃料が残り三百メートルを切ると、右の肘がわずかに外へ逃げる。四戦ぶんの観察で拾った、本人も知らないインジケーターだ。
残り二周。まだだ。肘は、閉じている。
残り一周半。バックストレッチ。まだ。俺の発射に必要な距離は、実験値で約六百五十。焦るな。式を信じろ。
残り一周と少し——真壁の右肘が、開いた。
発射。
外に持ち出して、長い長い追撃が始まる。加速の借金を、分割で、しかし一度も途切れさせずに払っていく。鐘が鳴る。前を行く大きな背中との車間が、数式の予告どおりの速度で、縮んでいく。五車身。四車身。
最終コーナー。二車身。
真壁が、振り向かずに応えた。開いていた肘を、意地で閉じ直して、もう一段——出るのか、そこから!? 数式の外の粘りに、車間が一瞬、縮まらなくなる。
最終直線。並んだ。
風の中と、風を抜けてきた側。削れきった巡航と、計算どおりに残した持久。最後は、タイヤ半分——写真判定みたいな差で、俺の前輪が前に出て、
ゴール。
一着、片瀬。二着、真壁。三着、矢部。四着に、大外を回ってきた熊井。
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「……最後まで、計算かよ」
芝の上で仰向けになった真壁が、天井のない空に向かって言った。悔しさより、確認に近い声だった。
「半分な」俺は隣に座り込んだ。まだ肺が笛を吹いている。「最後の一段は、計算の外だった。あそこからもう一回出るのは、ノートに書いてなかった」
「……だろうな。俺も知らなかった」
真壁は身体を起こして、それから、ずっと聞きたかったらしいことを聞いた。
「俺の垂れ、なんで分かった」
「肘。右肘が開く。垂れる三百メートル前に、必ず」
「————」
真壁は自分の右肘を、化け物でも見るような目で見下ろした。
「……直す」
「直されたら、書き直す」
「一生やってろ」
吐き捨てて、それから真壁は、ほんの少しだけ笑った。壁は、越えても壁のままだった。むしろ、越えたあとのほうが、いい顔で立っている。
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翌朝、掲示板。
四組昇格: 片瀬、真壁、矢部、熊井。
四人まとめての昇級だった。熊井は掲示の前で「俺も!? 俺もか!?」と自分を三回指差し、矢部は無言で手帳に何かを書き、真壁は掲示を一秒だけ見て歩き去った。
掲示の隣には、全組の今期成績一覧も貼ってある。俺は職業病で、上から順に目を通した。二組の欄の一番上に、知らない名前があった。檜山。全種目の数字に、気持ち悪いくらい、減点がない。強いというより——間違いがない。妙に引っかかる並びだったので、頭の中のノートに名前だけ書いておいた。
廊下の向こうから、聞き覚えのある声が飛んでくる。
「片瀬ー!! 四組かよ! 待ってろ、秒で行くからな!!」
三好だ。六組から叫んでいる。秒の定義が独特な男だが、あの充電式の執念なら、案外本当に来るかもしれない。
そして掲示板には、もう二枚、新しい紙が貼られていた。
一枚目。「宝輪観音祭のお知らせ」——養成所の敷地にある観音様のお祭りで、来月、つまり八月にやるらしい。候補生主体の、数少ない娯楽行事だそうだ。
二枚目。「英会話講習 開講のお知らせ(男女合同)」——開講、来週。
「ご、ごうどう……!!」
隣で熊井の鼻息が最大風速を記録した。
「熊井。落ち着け。授業だぞ」
「合同だぞ!? 女子と!? 俺たち、入所してから女子と喋ってないんだぞ!? 廊下ですれ違うのも階段が別なんだぞ!?」
「知ってる。で、それが俺の何の数値に関係ある」
「お前なあ!!」
俺は掲示板に背を向けて、午後の練習に向かった。祭りと、英語。どちらも俺のステータスには一ミリも関係のない行事だ。
——と、このときの俺は、本気で思っていた。




