第12話 フォー・マネーの女
土曜の朝、熊井が髪を三回セットし直した。
「熊井。相手は英語だぞ。髪は関係ない」
「第一印象は関係ある!」
英会話講習、開講日。会場の教室は、真ん中の通路を境に、右が男子、左が女子。入所以来、階段も廊下も別だった二つの世界が、初めて同じ部屋に収まった。教室の空気は、酸素より緊張の割合が高かった。
講師はエマ先生という陽気な人で、開口一番、この授業の目的を説明した。プロになれば、短期登録で来日する外国人選手と同じレースを走る。海外遠征だってある。英語は、装備品だ。
「では、自己紹介から! お名前と——Why did you decide to become a keirin racer? 競輪選手を目指した理由を、英語でどうぞ!」
男子側から順に立つ。
「マイ・ドリーム・イズ……ナンバーワン」
「アイ・ウォント・トゥ・ビー……ストロング」
模範解答が続く。熊井の番が来た。巨体が直立して、真剣な顔で言った。
「アイ・ライク・ライス」
教室が沸いた。嘘は言っていない。あいつの入所理由の三割は白米だ。
俺の番になった。立ち上がって、考えるまでもなかった。理由なんて、最初から一個しかない。
「カタセ・ミナト。——For money」
教室が、静まった。
エマ先生が、苦笑いと感心の中間みたいな顔をした。
「……Oh. Honest!」
正直で結構。着席しようとした、そのときだった。
「——Me too」
通路の向こう、女子側から、声が上がった。
教室中の首が、一斉にそっちを向いた。
立っていたのは、背筋が定規みたいにまっすぐな女子だった。短めの髪。競技者の肩。物怖じのぶの字もない目が、まっすぐ前を向いている。
「カザミ・ミオ。I will be rich by keirin」
私は競輪で金持ちになる。
一切の照れなしで言い切って、着席した。エマ先生が今度こそ噴き出した。
「Very honest!! オーケー、では今日のペアワーク——同じ目標を持つ者同士、組みましょう! ミナトとミオ、ペア!」
教室が、二回目のどよめきに包まれた。隣で熊井の魂が抜ける音がした。
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ペアワークのルールは「日本語禁止」。俺と風見は、机を挟んで向き合った。
「……ナイス・トゥ・ミート・ユー」
「ユー・トゥー」
定型文の弾が切れたところで、風見が単刀直入に来た。
「ユー・セッド、フォー・マネー。……Do you know girls' prize money?」
ガールズの賞金を知っているか。
知っている。俺は入所前の検索の夜に、男子だけじゃなく女子の賞金体系も調べてある。金で競技を選んだ人間が、隣のリーグの相場を調べないわけがない。
「アイ・ノウ」俺はつたない英語で、数字の骨子を返した。男子は一番下のクラスでも平均八百万。女子は——リーグ全体の平均で見れば、その男子の一番下と、ほぼ同じ数字だ。
風見の目の色が、変わった。
「……調べてるんだ。男子なのに」
日本語だった。エマ先生が別のペアの指導に行った隙の、小声の日本語。
「相場は全部調べる主義だ」
「いい主義ね」風見は少し笑って、それから、通路の窓の外——バンクの方角へ、顎をしゃくった。「片瀬湊。六組から四組まで、二か月。適性組。仕掛けの位置が毎回違う」
「……なんで知ってる」
「女子フロアの窓から、男子のバンクが見えるのよ。私、強い奴の走りは全部見る」
観察者だ。こいつも、見る側の人間だ。
風見は頬杖をついて、値踏みするみたいに俺を眺めて、それから、爆弾を落とした。
「あんた、鐘の前で行くとき——ちょっと笑ってるわよ」
「…………は?」
「自分で知らないんだ。ふうん」
知らない。知るわけがない。俺は自分の数値なら小数点以下まで知っているが、走っている俺の顔は、一度も見たことがない。画面には、表情の項目なんてない。
俺の知らない、俺のデータ。
それを初対面の女が、窓の向こうから、勝手に観測していた。
チャイムが鳴った。風見は教材を閉じて立ち上がり、去り際に一言だけ置いていった。
「Interesting」
どっちの意味だ。俺がか、この状況がか。
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「片瀬ぇ!! お前だけ女子と喋ってた!! ずるい!! 何を話してた!!」
教室を出るなり、熊井に襟首を掴まれた。後ろで真壁が「あの女、女子の技能組トップ格だぞ」と補足し、矢部が無言で手帳を開いた。お前、女子まで記録する気か。
「賞金の話だ」
「初対面の女子と!? 賞金の!?」
「あと、俺の知らない俺の話」
「余計わかんねえよ!!」
説明する語彙を、俺はまだ持っていなかった。
その夜、消灯後。俺は暗闇で天井を見ながら、妙なことに気づいた。
来週の土曜が、少しだけ、気になっている。
……商談的な意味で、だ。商談的な意味で。




