第13話 あんた、仕掛ける前に後ろを見る
「笑ってる」問題は、一週間かけても検証できなかった。
走行中の自分の顔は、物理的に見えない。画面にも表情の項目はない。鏡の前で仕掛けの動作をしてみたが、静止した俺は真顔だった。当たり前だ。時速五十キロが出ていない。
検証手段が、土曜のあの教室にしかない。
週に一度、一時間だけ。男女交流厳禁のこの山で、あの通路の向こう側と口をきける時間は、制度上、そこしか存在しない。電話は奇数日が男子で偶数日が女子、日曜の外出は隔週で男女交互——設計した奴は天才か悪魔だ。同じ建物に住んでいる人間と、教室の外では永遠にすれ違う。
土曜が、遠かった。……検証的な意味で。
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二回目の講習。エマ先生は「ペアは固定です!」と宣言した。熊井が天を仰いだ。
着席するなり、俺は単刀直入に切り出した。
「風見。Business」
「……いきなりね」
「取引がしたい。俺の分析力と、あんたの観測を交換する」
風見は頬杖のまま、続きを促す目をした。俺は条件を並べた。
俺が欲しいもの——外から見た俺。俺の画面は俺の中身しか映さない。レース全体の絵の中で俺がどう見えているかは、窓の向こうの観測者しか持っていないデータだ。
俺が払えるもの——分析。養成所は走行フォームを撮影して、本人がすぐ確認できる仕組みがある。その映像を、俺の観察眼で解剖する。
「私の映像を、あんたが解析する意味ある? 私、自分のフォームくらい分かるけど」
「フォームの話じゃない。あんた、女子で勝ちすぎて、全員に研究されてるだろ」
風見の頬杖が、外れた。
「……なんで分かるの」
「窓から見えるのは、そっちだけじゃない。強い奴が包囲される絵は、遠目でも分かる。全員があんたの仕掛けだけを待ってる。違うか」
「————」
「それ、俺が先月ぜんぶ通った道だ。I solved that last month」
全員に見張られた状態での勝ち方。乱数。フェイント。仕掛けの消失。六組で書いた答案を、俺は身振り混じりの怪しい英語で講義した。エマ先生が遠くから「素晴らしいディスカッション!」と親指を立てた。内容は賞金と戦術の商談である。
講義を聞き終えた風見は、しばらく黙って、それから、ふっと笑った。
「……成立。Deal」
差し出された手を、握った。同盟締結。この山に来て初めての、レースの外の握手だった。
「じゃ、前金」風見は手を離すと、事務的に続けた。「レポート第一号。——片瀬。あんた、仕掛ける前に、一回だけ後ろを見る」
「……は?」
「毎回よ。腰を浮かせる直前、首が左に二十度くらい回る。ほんの一瞬。フォームじゃないから、たぶん自分で気づいてない。でも窓から見てると、『あ、行くな』って分かるの。百発百中」
全身から、音を立てて血の気が引いた。
真壁の肘だ。
垂れる三百メートル前に開く、あの右肘。本人だけが知らないインジケーター。俺はあれを見つけて壁を越えた——そして俺自身の首が、同じものを、ずっと発信し続けていた。
画面は身体の癖を教えてくれる。踏み出しの遅れも、コーナーのロスも。だが視線は、出ていなかった。盲点。俺の観測網の、穴。
「……その情報、四組の連中に知られてたら」
「知られてるでしょ、たぶん。あの手帳の子とか」
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四組初戦の招集前、俺は矢部を捕まえた。
「矢部。俺の首の癖、知ってたか」
矢部は一瞬固まって、それから観念したように手帳を開き、あるページを俺に向けた。
——片瀬。仕掛け前、左後方確認。首、約二十度。
「……四冊目から書いてある」
「四冊目!? 待て、俺は自転車の競技経験がない。お前の対戦相手だったことは、一度もないぞ」
「対戦相手の頁じゃない」矢部は目も上げずに言った。「高校の頃、朝練で毎朝すれ違う男がいた。ママチャリで、県道を十二キロ、本気で飛ばしてる。三年間、一度も乗り換えなかった。……観察対象として、書いておいた」
俺は、膝から崩れそうになった。
あの十二キロは、俺にとっては交通費の節約だった。ついでに脚も育ったが、育てるつもりで漕いでいたわけじゃない。その毎朝を、県道の反対側から三年間観測していた男が、いま、俺の首の角度の頁を開いている。
しかも、二十度の出どころまで分かってしまった。通学だ。ママチャリで車道を走る人間は、進路を変える前に必ず後ろを見る。三年間、毎朝繰り返した安全確認が、そのままバンクに持ち込まれていた。
以前、この男は言っていた。「中学の自転車部からつけてる。対戦相手、全員」と。全員、とは言ったが、全員だけとは言っていなかった。
敵は、教えてくれない。当たり前だ。武器なんだから。矢部は悪びれもせず手帳を仕舞って、「今日から使えなくなるのか。惜しいな」とだけ言った。
教えてくれるのは、敵じゃない奴だけだ。
だから——取引先が、要る。
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四組、初戦。七車。顔ぶれの半分は昇組組——真壁、矢部、熊井。観察ノート済みの男たち。残り半分が初見の四組古参。
号砲。展開が煮詰まって、残り二周半。俺は勝負に出た。
まず——首だけ、回した。
左に二十度。いつもの、無意識のはずの動作を、今日は意識して、偽物として。
周囲の空気が、張った。真壁が腰を浮かせ、矢部が車間を詰め、古参の二人が外を締める。「片瀬が来る」の号令が、声もなくバンク全体に走った——
行かない。
俺は巡航のまま、何食わぬ顔で半周を流した。身構えた六人の硬直が、じわりと解ける。なんだ、来ないのか。警報の空振り。集中の糸が、半拍だけ、緩む——
そこで、行った。
今度は首を回さずに。予告なしの、無音の早駆け。
半拍の遅れは、時速五十キロの世界では数車身の遅れだ。飛び出した俺の背中を、慌てて追う音が聞こえる。だがもう、風の壁の中は俺の領分だ。鐘。最終周。粘る。粘る。差されない。
一着。
癖は、消すものじゃなかった。偽装して撃つ、弾だった。
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夜、観察ノートを開いた。
俺はページを一枚めくって、新しいカテゴリの見出しを書いた。
「取引先」。
その一人目に、名前を書く。風見澪。特記事項——観察眼、俺と同型。ただし観測対象に、俺が含まれる。要注意。
書き終えて、少し笑った。
このノートに、敵じゃない他人のページができたのは、初めてだった。




