第8話 俺も観察されていた
五組の走行練習に初めて混ざった日、俺は開始十分で理解した。
ここは、水位が違う。
六組の「流し」は、五組の「準備運動」だった。六組の「本気」は、五組の「巡航」だった。同じバンク、同じ自転車、同じ人間のはずなのに、流れている速度の基礎値が、まるごと一段高い。
そして、その先頭を悠々と引いているのが、真壁という男だった。
五組の主。パワー型の先行屋で、練習でもレースでも、気づけば必ず前にいる。観察ノートに新規ページを作って、俺は初日の所見を書いた。
真壁。巡航速度、俺の目測で組内最速。風を受けながらのペースが、明らかに周りより一段上。癖、まだ不明。弱点、まだ不明。というか——あるのか?
ノートに疑問符を書いたのは、初めてだった。
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「片瀬ぇ、言っとくけど、俺、手加減しないからな」
競走訓練の朝、熊井が仁王立ちで宣言してきた。
「するなよ。したら書くぞ」
「何に!?」
「K指数の信頼性の欄に」
「俺の指数を人質に取るな!」
やり取りは通常運転だが、事実として、今日から熊井は敵だ。観察係が対戦相手になる日が、来てしまった。
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五組、七車。号砲。
まず、位置取りで詰んだ。
スタート直後の隊列争い。俺は内の三番手あたりを取りに行った。そこに、熊井がいた。肩と肩が、軽く触れる。六組なら、これでどちらかがラインを譲る。
熊井は、譲らなかった。譲らないどころか、存在に気づいた様子すらなかった。
百キロ超の柔道体幹は、時速四十キロの上でも柔道をやっている。俺は触れた側から弾かれて、外へ外へと押し出され、結局七番手。最後尾。友達の背中が、こんなに硬いとは知らなかった。
中盤。俺は先週の必勝パターン、スローの沼を掘りにいった。
掘れなかった。
五組は、スローに付き合わない。俺がペースを落として先頭に立った瞬間、真壁が「邪魔だ」とばかりに外から普通に前へ出て、普通のペースで主導権を持っていった。沼は、相手の水位より深く掘れて初めて沼になる。五組の水位では、俺のスローはただの水たまりだった。
残り二周。仕方ない、正面突破だ。俺は真壁の横に持ち出して、全開で踏んだ。
真壁が、並んできた。
涼しい顔で。
俺の全開の横に、あいつの「ちょっと本気」が並んで、そのまま離れない。速度差が、つかない。速度差のつかない早駆けは、早駆けじゃない。ただの、風を浴びに行った人だ。
鐘。俺と真壁の我慢比べ——になるはずが、ならなかった。俺が削れるより先に、後ろの連中が俺たち二人をまとめて飲みに来た。最終直線、ずるずると番手を落として、五着。
一着、真壁。三着に、熊井。
完敗、というやつだった。
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「片瀬、今日は早く行くと思った」
レース後、水を飲みながら熊井が言った。悪気ゼロの顔で。
「……なんで分かった」
「朝メシ、白米四杯だったろ。お前、四杯の日は仕掛けが早いんだよ。三杯の日は様子見。俺、ずっと数えてた」
俺は、固まった。
白米。俺の白米が、情報漏洩源。
観察していたつもりが、観察されていた。しかも計測項目は、俺が三好にやったのと完全に同じ理屈——食事量と行動の相関。K指数は、双方向だった。柔道十年の男は、組む前から相手を読む競技を、十年やってきていたのだ。
「……熊井。お前、それ他の奴に言ったか」
「言ってない。企業秘密だろ」
「よし。今後、俺の白米の情報は互いに門外不出とする」
「じゃあ俺の納豆理論も門外不出な」
同盟は、こうして守秘義務契約に発展した。
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消灯後。ベッドの中で、久しぶりに敗因分析の画面を開いた。
【片瀬 湊 17歳】
スピード F 34
瞬発 F 24
パワー D 57 ↑0.2
持久 B 72 ↑0.8
回復 A 80 ↑0.4
技術 F 27 ↑0.6
……回復、A。
十七年間、俺の画面に一度も存在しなかった文字が、完敗の夜に、初めて灯った。よりによって今日か。俺の一番の相棒は、主人の凹みに付き合う気がないらしい。
数字は、今日も全部伸びている。
でも、真壁には轢かれた。
六組で俺は、戦術で勝ってきた。乱数、フェイント、ゼロ距離の沼。全部、相手と自分の速度差を前提にした細工だ。そして五組では、その前提が消えた。真壁の巡航は、俺の全開に並ぶ。速度差ゼロの世界では、細工の入る隙間が、ない。
相対値の勝負に持ち込む前に、絶対値で殺される。
入所前の夜、俺が競輪を選んだ理屈が、初めて牙を剥いてきた形だ。相対値の競技といえど、絶対値の差にも限度というものがあるらしい。
スピードF34。ここが伸びるのを待つ? 駄目だ、遅すぎる。俺のスピードの成長は年単位だ。組の入れ替えは月単位で来る。
なら、いま持ってる数字で撃てる、別の弾が要る。
前で受ける以外の、風との付き合い方が。
……心当たりが、一人いる。毎朝五時、霧の中にいる男だ。
明日の朝、聞くことができた。




