第7話 仕掛けの消えた日
月曜の朝礼で、戸倉教官が言った。
「月末の競走訓練の結果をもって、組の入れ替えを行う。上位は昇組。……以上だ」
六組がざわついた。つまり今月末のレースは、ただの訓練じゃない。昇級試験だ。
その夜、俺は熊井とノート会議を開いた。議題、六組最終戦の予想。
「全員、お前対策を仕上げてくるだろうなあ」熊井が白米をかき込みながら言う。五組の男は今回関係ないくせに、俺のレースを自分事のように楽しんでいる。「矢部は後ろ。三好は潰し役。浦部は様子見からの後ろ。他は……お前が動くまで動かない、だろ」
「だな。全員の対策の共通点は一個だ。『片瀬が動いてから、動く』」
「詰んでない? お前が動いたら全員動くんだろ」
「だから——動かない」
熊井の箸が止まった。
「……は? お前の競輪、動いてなんぼだろ」
「動かない、ように見せる。正確にはな」
俺はノートに、今週の作戦を書いた。今回は名前を付けない。名前を付けられないタイプの作戦だからだ。
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六組最終戦。七人。
号砲。
誰も、動かなかった。
全員が全員を待つ、超のつくスローペース。俺が仕掛けるのを、六人が待っている。俺はと言えば——スローのまま、するり、と先頭に上がった。
誰も警戒しない。当然だ。スローの先頭は、ただの的だから。風を受ける係を自分から引き受ける馬鹿はいない。前を歩く俺を、六人は「あとで料理する獲物」として、のんびり泳がせてくれた。
だが、ここにひとつ、観測済みの事実がある。
風の壁は、速度の二乗で殴ってくる。
逆に言えば——遅い先頭は、ほとんど殴られない。時速三十キロそこそこの巡航なら、先頭にいたって脚は削れない。俺はぬるい風の中で、無料で主導権だけを預かった。
そして、ここからが本番だ。
俺は残り三周から、ペースを上げ始めた。
一気には、上げない。一周ごとに、少しずつ。時速三十が、三十五に。三十五が、四十に。呼吸を一段深くするみたいに、なだらかに、切れ目なく。
どこにも「仕掛けの瞬間」を作らない。
腰も浮かせない。フォームも変えない。ただ、加速の曲線だけが、静かに右肩上がりを続ける。後ろの六人は、俺のペースに乗ったまま、ゆっくりと沸いていく鍋の中にいる。
鐘が鳴ったとき、誰かが気づいた。
「——おい、これ、いつから始まってた!?」
答え: 三周前から。
もう遅い。速度は五十を超え、風の壁は本気の質量になり、俺の後ろの六人は「いつの間にか早駆けに三周付き合わされていた」ことに、たった今気づいた。降りる場所は、もうどこにもない。
仕掛けの消えた早駆け。ゼロ距離の沼。
最終周。矢部が来た。読んでいたのはやはりこの男だけで、俺の真後ろを最後まで守り抜いていた。最終直線、外から、七冊分の執念で——あと前輪半分、届かない。
ゴール。
一着、片瀬。二着、矢部。三着、三好——本当に充電を二本にしてきたらしく、直線で二回踏んだ。方法は不明。人体の神秘だ。
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翌朝、掲示板に組分けが貼り出された。
五組昇格: 片瀬湊、矢部——二人。
三好は六組残留だった。掲示を睨みつけて、それから俺に人差し指を突きつけた。
「覚えとけよ片瀬! 秒で追いつくからな!」
「充電、三本目指せ」
「言われなくても!」
目指すのかよ。六組の連中が笑った。ひと月ちょっと一緒に走っただけの組なのに、離れるとなると妙に湿っぽい——空気になりかけたところで、浦部がぼそりと言った。
「つーか、片瀬いなくなったら、来週から予想が楽になるな」
「それな」「乱数消えるの助かる」「沼も消える」
湿っぽさ、五秒で消滅。いい組だった。
そして、掲示板の前で、上から野太い声が降ってきた。
「片瀬ぇ!! お前、五組!? 俺と同じ組!?」
熊井だった。掲示と俺を三往復ほど見比べて、巨体が固まっている。
「よろしくな、これから毎週対戦相手だ」
「ちょっと待て、待て待て。俺、K指数の人だぞ!? 観察係が敵になるのおかしいだろ!?」
「安心しろ。お前のページ、もう作ってある」
「作ってあんのかよ!!」
利益相反というやつだ。だが仕方ない。観察に、聖域はない。
解散間際、掲示板の隅に、小さな貼り紙を見つけた。
——英会話講習(男女合同)、開講のお知らせ。日程は追って掲示する。
ふうん。英語。プロになったら海外の短期登録選手と走ることもあるらしいから、その準備だろう。俺は素通りしかけて、隣の熊井が貼り紙に顔を近づけているのに気づいた。
「ごうどう……」
「熊井。鼻息」
「合同って書いてある。片瀬、合同って書いてあるぞ」
「読めてるから落ち着け」
その日の午後、俺は初めて五組の走行練習を、当事者として見た。
速い。ペースの基礎値が、六組と一段違う。俺のスローの沼は、この速度帯でも掘れるのか——検証項目が、一気に増えた。
夜、観察ノートに新しい章の見出しを書く。
「五組」。
一行あけて、最初の観察対象の名前を書いた。
熊井(K指数の男)。歩き方が前のめりの日は攻めてくる——本人談。




