第6話 教科書の男もノートを持っていた
観察ノートの運用を開始して、養成所の景色が変わった。
いや、景色は同じだ。変わったのは解像度だった。
午後の走行練習は、望遠の観察タイム。四番の三好はダッシュ型で、二百メートルの切れは組で一番——ただし一回踏むと、次に同じ出力が出るまで約二分かかる。充電式だ。五番の浦部は後方からの観察型。俺と同じ人種の匂いがする。
食堂は、回復力の推定所になった。走行日の夕食で飯の減りが遅い奴は、内臓まで疲れてる。競輪の情報戦は、米櫃の前で行われている。風呂は疲労の確認場——だったが、「片瀬、お前さっきから人の脚ばっか見てるだろ」と包囲されたので、以後は目を閉じて気配で数える方式に改めた。難易度が上がっただけだった。
一方、熊井の「肌感覚担当」は、予想外の戦力だった。
「五番の人、今日は攻めてくるぞ。歩き方が前のめりだった」
「三好、昨日フラれたっぽい。電話のあと壁見てた」
数値化は一切できないのに、当たる。俺はこれを「K指数」としてノートの隅に記録し続けた。本人には内緒だ。指数化されていると知ったら、たぶん照れて精度が落ちる。
ちなみにこの頃、俺の仕掛けは六組で「片瀬の乱数」と呼ばれ始めていた。心外だ。乱数じゃない。毎回、その相手が一番嫌がる距離を選んでいるだけで、俺の中では全部理詰めだ。サイコロを振る勇気なんて、俺にはない。
---
そして、気づいてしまった。
検車場の隅。次のレースを待つ矢部が、小さな手帳を開いていた。
角が丸くなるまで使い込まれた、黒い手帳。俺が通りかかると、矢部はごく自然にそれを閉じた——閉じるのが、一拍だけ速かった。
「……矢部。それ、何のノートだ」
「別に」
「俺のこと書いてあるだろ」
矢部は数秒黙って、観念したように手帳の背表紙をこちらに向けた。背に小さく「7」。
「七冊目だ。中学の自転車部からつけてる。対戦相手、全員」
全員。こいつ、筋金入りだ。俺が先週発明したつもりのものを、この男は五年前からやっていた。教科書通りに走る男は、教科書を自分で書いていたのだ。
「お前も書いてるんだろ、俺のこと」矢部は言った。「先週から、飯のたびにこっちを見てる」
「気づいてたのか」
「気づくさ。……見るなら、見てると気づかれるな」
プロの助言だった。素直にメモした。矢部が、少し嫌そうな顔をした。
---
週に一度の、競走訓練。三回目。
朝食で、K指数が火を噴いた。
「片瀬。三好、今日は最初から来るぞ。納豆、二個食ってた」
「……納豆?」
「あいつ、いつも一個なんだよ。二個の日は気合いが入ってる」
納豆の個数と戦意の相関。俺のストップウォッチでは一生観測できない領域だった。ノートのK指数欄に「納豆2=戦意高」と記入する。自分が何の学問をやっているのか、少し分からなくなった。
発走。七人。俺と、真後ろの定位置を狙う矢部と、納豆二個の三好と、四人。
K指数は正しかった。残り三周、痺れを切らした三好が、単独で飛び出した。組一番のダッシュが、誰もまだ勝負していないバンクの空白へ発射される——が、誰も追わない。全員、知っているのだ。あの一発は、二分で切れる。
三好の背中が先頭で風を浴びて、みるみる膨らんで、垂れた。撃ち終えた一発屋は、ただの人だ。もったいない。あの切れ味、使いどころさえ合えば、組で一番怖いのに。
場が三好に気を取られた半瞬——俺は、外から先頭を奪った。
風の壁。もう三度目だ。殴られ方は覚えた。そして背中には、予定通りの気配。矢部。俺の真後ろ、車輪半個分。教科書には、こう書いてある——早駆けした先行は、最終周で必ず垂れる。だから番手で待て。垂れた瞬間が、差すときだ。
つまり矢部は、俺が「垂れる瞬間」を待っている。
なら、くれてやろう。偽物を。
残り一周と少し、バックストレッチ。俺は、ほんの半呼吸、ペダルを緩めた。
肩を落とす。上体を揺らす。腿が終わった男の、フォームの崩れ。十年間、自分の身体を観測してきた俺は、「垂れた俺」がどう見えるかを誰よりも正確に知っている。自分のモノマネだ。精度には自信があった。
背後の気配が、食いついた。
矢部が外に持ち出して、教科書どおり、俺を差しに来る——その鼻先が横に並んだ瞬間、俺は緩めていた半呼吸ぶんを、まとめて踏んだ。
垂れてない先行に並んでしまった番手は、どうなるか。
前には出られない。俺が落ちないからだ。後ろにも戻れない。速度が乗りすぎているからだ。矢部は俺の右横、遮るもののない外側で——風の中に、閉じ込められた。
風は、受けるだけのものじゃなかった。
押し付けられるんだ、これ。
最終コーナー、並走のまま。この並走を先に降りた方が負ける。降りない。俺は、こういう我慢のためだけに生まれてきた身体だ。最終直線、矢部の車輪が、じり、と下がった。
一車身。ゴール。一着、片瀬。二着、大外から意地で伸びてきた浦部。三着、矢部。三好は五着で、芝の上で天を仰いでいた。
---
「……垂れたの、演技か」
流し走行のあと、矢部は荒い息のまま俺の隣に並んだ。怒ってはいなかった。手帳を出して、その場で何か書き始めたのが、いっそ怖かった。
「悪いな。教科書を逆に読んだ」
「いや。……今のは、書く価値がある」
書き終えて、矢部は手帳を仕舞い、初めてまっすぐ俺を見た。
「片瀬。俺は同じ手を二度は食わない。垂れたフリも、もう食わない」
「知ってる」
「次は、俺が獲る」
「それも、もう書いた」
矢部の口の端が、ほんの少しだけ動いた。あれはたぶん、この男の笑顔の最大出力だ。
入れ替わりに、三好が突進してきた。
「片瀬ぇ!! 見たか俺のダッシュ!!」
「見た。二分で切れるところも見た」
「ぐ……っ、次は!! 充電、二本持ってくるからな!!」
「どうやって」
「知らん!! 考える!!」
知らんのかよ。でも、その意味不明な対抗心は、嫌いじゃなかった。ノートの三好のページに「充電短縮を画策中(方法未定)」と追記しておく。
走路の外から、聞き慣れた笑い声がした。フェンスにもたれた御影が、こっちに手を振っている。
「片瀬ー! 今の、面白かったぞー!」
フェンス越しに叫ぶな。手の内が全組に開示される。
その夜、観察ノートの矢部のページに、一行書き足した。
特記: こいつのノートは七冊目。俺のは、まだ一冊目。
——追いつくのに何年かかるかは知らない。でも幸い、俺は書く時間だけは、人より長く持っている。
あと、解散際に戸倉教官がぼそりと言ったのを、俺は聞き逃さなかった。
「……六組のレースが、いちばん競輪に近いな」
褒められたのかは分からない。ただ、悪い気は、まったくしなかった。




