第43話 白紙の頁
斡旋と斡旋の間には、数日の「間」がある。
練習して、整備して、ノートを書いて、それでも半日くらいは余る。その半日の使い道を、俺は前の晩に決めていた。
同期の斡旋は、検索すれば分かる。熊井、西武園、チャレンジ戦。矢部も同じ節にいた。そして熊井の直近の成績は——三場所連続で、着外が並んでいた。
見に行く。決めて、ついでに一人誘った。
「あんたと観るんは、一年ぶりやなあ!」
西武園までの電車で、おっちゃんは遠足の顔をしていた。去年の夏、松戸の客席で隣に座った男と、今年は別の県の客席に並んで座る。違うのは、俺の職業だけだ。
「言うとくけど兄ちゃん、あんた車券買われへんのやろ? ワシの隣で見立てだけ言うてくれたらええから」
「それも駄目です」
「なんでや。買うのはワシやで」
「買えないだけじゃないんです。買う人に何か言うのも、駄目なんです」
去年の夏、この人は入場ゲートで俺に線を引いた。あんたはもうそっち側や、売り場には近づいたらあかん。あの時の俺は、まだ一円も稼いでいない候補生だった。いまは、登録番号がある。
俺が『二番から』と言った瞬間、それは俺の私見ではなくなる。選手が言った、になる。中身が出走表に印刷されている公開情報でも、関係ない。値札は、言葉の中身にではなく、言った人間のほうに付く。……値札の話を一年しておいて、自分に付いた値札を忘れるところだった。
「……ケチやなあ」
「同業者になったので」
「一年で偉うなりよって」
口をとがらせながら、おっちゃんはそれ以上は言わなかった。線の在り処を、俺より先に知っていた人だ。
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平日昼の西武園は、ゆるい人口密度だった。俺は売り場から一番遠い側の客席を選んで座った。去年の夏に引いてもらった線を、今日も跨がない。
客席に座って三分で、隣のブロックの視線に気づいた。数人がこっちを見て、小声で何か確認し合っている。「……深夜の、やんな?」「え、なんでおるん」「休みの日に競輪見に来るんか、あの人」
来る。同業の仕事を見るのは、仕事のうちだ。会釈だけ返したら、向こうも会釈してきた。競輪場の客はだいたい、礼儀正しい。
第三レースの発走前、おっちゃんが出走表を突き出してきた。
「ほい、見立て」
「言いませんて」
「言うてへん。ワシが言うから、兄ちゃんは聞いとってくれたらええ」
……それは、たぶん、セーフだ。たぶん。
「五番の先行、三日前に落車帰りやろ。ここ」おっちゃんの指が、出走表の隅の記号を叩いた。「こういう時は無理せん。番手の二番が漁夫で、外の七番まで」
俺は黙っていた。黙ったまま、頭の中で同じ三桁を並べていた。同じです、と言いたくなる口を、奥歯で押さえる。
二−七。千八百円。おっちゃんが吠えた。
「見たか! ワシの目や!」
「おめでとうございます」
「兄ちゃん、いま『同じこと思っとった』ちゅう顔したやろ」
「してません」
していた。去年の夏、この人の隣で百円の風を見た時と、同じ画だ。違うのは、今年の俺が黙っている側だということだけだった。黙っているぶん、目のほうが忙しい。……悪くない。口に出さなかった見立ては、全部こっちの在庫になる。
「ワシのこの目、百円で売ろかな」
「須田さんの縄張りです。やめてください」
第四レース、チャレンジ戦。発走機に、見慣れた巨体が着いた。
熊井だ。
号砲。熊井は、真っ先に前に出た。誘導の後ろを取り、鐘から早めに踏み上げて、押し切りにかかる——嫌な予感が、周回の途中から形になっていく。
あれは、俺の型だ。
早駆けで主導権を取り、ハイペースで沼に沈める。俺が九連勝で使った絵柄を、熊井は、熊井の身体でなぞっていた。そして三周目、あいつの上体が揺れ始める。俺なら揺れない場所で、揺れる。当たり前だ。あいつの持久はB、回復もB。俺の型は、俺のバグの上にしか建たない。
ただ——三コーナーで、一瞬だけ、別の熊井がいた。
外から他の車に被された、その半秒。揺れていた巨体がぴたりと安定して、肩と肘の輪郭だけで相手を押し返した。車体は一ミリもぶれない。接触の中でだけ、あいつの重心は完璧だった。畳の上で百戦してきた身体が、接触の半秒だけ、水を得ていた。
その半秒が過ぎると、熊井はまた、俺の下手なコピーに戻った。
最終周を待たずに、隊列に呑まれた。六着。
「……あの子、あんたの真似しとるな」
おっちゃんが、ぽつりと言った。観客歴四十年の目は、俺より先にそれを言葉にした。
「同期やろ。あんたが勝つもんやから、勝ち方ごと借りに行ったんやな。……ようある話や。売れとる店の真似して、潰れる店の話や」
胸の奥が、すっと冷えた。
俺の九連勝が、熊井の設計図を狂わせている。俺は風だけじゃなく、間違った教科書まで無料配布していたらしい。
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第七レース、矢部が出た。
矢部は、番手だった。同地区の先行の後ろに付き、道中は微動もせず、最終直線——相手エースの外側が空く一瞬を、定規で引いたみたいに差し切った。一着。決まり手の欄に、また「差」が一つ増える勝ち方だった。
美しかった。教科書は、プロの棚でも教科書だった。
最終レースまで観て、俺とおっちゃんは正門前に回った。選手の出待ちだ。立場が逆になると、待つ側の足の疲れがよく分かる。
最初に出てきた熊井は、俺を見つけて、露骨に「げっ」という顔をした。
「……見てたのか」
「六着まで全部」
「言うなよ」巨体が、バッグを担ぎ直して、目を逸らした。「分かってんだよ、自分でも。お前の走りは、お前のエンジンでしか動かねえって。分かってて、他にやり方が見つかんねえんだよ」
熊井は柔道の構えみたいに足を止めて、それから、絞り出した。
「養成所ではさ、お前の隣で走ってりゃ、強くなれた。プロは、隣がねえんだ。単騎ってのは、あれだな。……隣がねえんだな」
俺は、答えを持っていなかった。持っていない答えを、持っているふりで渡すのは、熊井への一番の失礼だ。だから、持っている分だけ渡した。
「熊井。俺の型は捨てろ。あれはバグの上にしか建たない違法建築だ」
「……おう」
「で、お前の型は、ヨーイドンの外にある。俺はそう見てる。何度見ても、そう見てる」
「ヨーイドンの外って、何だよ」
「まだ分からない。ただ、今日の四レース、お前が一番強く見えた瞬間は、仕掛けの場面じゃなかった。三コーナーで外から被されて、肩で押し返した、あの半秒だ。あそこだけ、お前は誰よりプロだった」
熊井は、目をぱちくりさせた。
「……接触かよ。競輪で反則ギリギリの、あの押し合いかよ」
「反則じゃない側の接触は、立派な技術だ。俺には真似できない。矢部にもできない。お前だけができる」
「…………」
「答えはまだ出てない。俺も自分の宿題で手一杯だ。ただ、俺のコピーで潰れるのだけは、やめてくれ。もったいないなんてもんじゃない」
熊井は長いこと黙って、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……お前に言われると、腹立つけど、効くわ」
「白米、食って帰れ。今日は俺が出す」
「伝票で誠意を見せるな」
言いながら、ついてきた。誠意は伝票で見せる主義だ。
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駅前の定食屋で、遅れて矢部も合流した。優勝の夜の男は、席に着くなり手帳を開いた。
「片瀬。八冊目の一頁目、見るか」
差し出された頁には、俺の名前と——京王閣の決勝の、敗因分析が書いてあった。刈谷さんの差しのコース取り、俺の最終コーナーの車速、差された瞬間の車間。映像だけでここまで書けるのかという精度だった。
「刈谷の差しは、三日目まで待つ必要がなかった。初日のお前でも、同じコースは空いてた。俺なら初日にやる」
「……参考になる」
「するだろうな。俺のノートは有料だが、今日は宣伝だ」矢部は手帳を閉じて、初めてまっすぐ俺を見た。「半年でA2に行く。精算は、そこからだ。逃げるなよ、片瀬」
「年中無休だと言ってある」
それから矢部は、白米を掻き込んでいる熊井に目を移して、事務的に付け足した。
「熊井。お前の敗因は、俺のノートにもう三頁ある。買うか」
「同期に売るのかよ!?」
「情報はタダじゃない。……が、一頁目だけ立ち読みさせてやる。お前は仕掛けの三十メートル前から、肩が謝ってる。謝りながら仕掛ける先行は、世界のどこにもいない」
肩が謝ってる。ひどい言い方なのに、熊井は箸を止めて、俺は唸った。教科書の男の観察は、今日も精度で殴ってくる。
教科書の男は定食を綺麗に完食して、先に帰った。ああいう男が半年と言ったら、たぶん半年で来る。帳簿の期日が、また一つ確定した。
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帰りの電車で、取引先から一通。
『九つ目、獲った』
連勝、九。宣言はしない主義の女は、達成だけを報告してきた。
『九月を待たずに九か』
『そっちの記録は十一。あと二つ……じゃなくて、三つ。抜くから』
『抜かれる前に伸ばしておく』
『あ、それと』少し間があって、もう一通。『次の斡旋、前橋のミッドナイトだった。ガールズ併催の』
俺は自分の斡旋書を思い出した。前橋、ミッドナイト。日付も——同じだった。
『同じ開催だ』
『知ってる。……変な感じね。同じ夜に、同じ屋根の下で、別のレースを走るんだ、私たち』
同じ開催、同じ夜、別のレース。
返事を打ちかけて、少しだけ手が止まった。会えるわけではない。男子とガールズは宿舎も導線も別で、おまけに前検日から携帯は金庫の中だ。同じ建物にいる三日間、俺たちは今より連絡が取れなくなる。……妙な設計だ、この業界は。
『白米の伝票、持っていく』
『執行は会えた時って言ったでしょ。会えないわよ、たぶん』
『知ってる。持っていくだけだ』
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夜、ノートを開いて、新しい頁を作った。
頁の頭に『熊井の型』とだけ書いて、その下は——白紙のまま、閉じた。
答えを知らない頁は、白紙で持っておく。埋めたくて焦った頁は、だいたい間違ったことを書く。これは十年、自分の手帳で学んだことだ。
熊井の頁は、いつか埋まる。あいつの「ヨーイドンの外」が形になる日に、たぶん一行で埋まる。それまで俺は、白紙を白紙のまま、持ち歩く係だ。
鞄の中で、ノートが少しだけ重くなった気がした。白紙の重さだ。悪くない重さだった。




