第44話 五十メートルの圏外
九月半ば、前橋。
バンクに、屋根があった。
グリーンドーム前橋。日本初の屋内バンク、三百三十五。入った瞬間に分かる。音が、逃げないのだ。タイヤの音も、整備の音も、ドームの天井にぶつかって、降ってくる。
「雨、降らないんですね。ここ」
前検の列で思わず呟いたら、隣のベテランが「当たり前やろ」と笑った。当たり前だ。だが俺にとっては、アメカンという収入源が構造的に存在しない世界である。屋根とは、便利で、少しだけ売上の減る発明だった。
選手管理課で携帯を預ける前に、最後の一通を確認した。
『そっちも今日から前検? 同じ屋根の下で圏外って、新手の詰将棋か何か?』
『詰将棋なら解けば会える。これは制度だから解けない』
『解けないんだ』
『解けない。三日後に』
電源を切って、金庫に預けた。この瞬間から俺たちは、同じ建物にいて、圏外になる。
そして検車場で自転車を組んでいる時、それは起きた。
ガールズの検車エリアは、男子の検車場の向こう側にある。距離にして、五十メートル。部品の音と人の隙間の先に、見慣れた定規みたいな背筋が、自分の車輪を締めていた。
目が合った。
澪は工具を持ったまま、小さく会釈した。俺も会釈した。それで終わりだった。彼女はガールズの導線へ、俺は男子の導線へ。宿舎も、風呂も、食堂も、全部別。
連絡先を知っていて、同じ屋根の下にいて、持ち物は会釈一回。
……妙な設計だ、この業界は。
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初日、二十一時台。俺のレースは七つ目だった。
ドームの夜は、外の夜より静かで、密度が高い。観客はゼロ。音は全部、選手のものだ。
その静かな夜に、俺は初めて、表彰台から落ちた。
相手は地元・群馬のライン三車。番手は峰岸さん、三十九歳。前橋の畳の目まで知っているベテランだ。
彼らは、俺の後ろに座らなかった。
誰も、座らなかった。
周回中、群馬の三番手が俺の外にぴたりと張る。前は群馬の先行と番手。俺は中団の内に、丁寧に、丁寧に、閉じ込められた。取り立ての効く客が、一人も店に来ない。
レースの間、俺はずっと出口を探していた。前に出る——前が詰まっている。外に出る——外に張り付かれている。緩めて下げる——下げた先で、また同じ形を組まれるだけだ。全部の扉に、先回りで鍵が掛かっている。脚の問題なら、踏めば解ける。これは脚の問題ではなかった。三人が三人の脚を、一つの構造に変えている。単騎の俺には、構造がない。
鍵が開いたのは、群馬の先行が仕掛けた後だった。つまり、開けてもらったのだ。用が済んだから。
最後方から大外をぶん回して、届かず、四着。
着外。プロ入り後、初めての、表彰台の外。
脚は残っていた。悔しいくらい残っていた。残った脚ごと、配置で負けた。梶さんの予告と、間宮さんの宿題が、群馬の三車で実物になって出てきた形だった。
《ドームの化け物、初日から着外》
《番手が誰も座らんかったんやが》
《↑座らんかったんやない。座らんでええ形を先に作ったんや。群馬うまいわ》
《ところで今開催、ガールズにもやべえ連勝おるよな》
《男女で化け物を併催するな。車券が忙しい》
最後のコメントには、俺も同感だった。忙しいのは、こっちも同じだ。
検車場に戻ると、勝ち上がりの掲示が出ていた。予選から準決勝へ上がれるのは、三着までと、四着のうちの上位二人。俺は、二人目だった。
自分の帳簿では、今日は負けだ。制度の帳簿では、まだ生きている。……初めて、制度に拾ってもらった。次の椅子は、俺が獲ったものじゃない。
検車場で、峰岸さんがすれ違いざまに言った。
「兄ちゃん、悪う思うなよ。……単騎はな、強いほど楽に殺せるんよ。強い単騎は一人で全部やってくれるから、こっちは人数で栓をするだけでええ」
強いほど、楽に殺せる。
ノートに書く手が、少しだけ重かった。俺の強さが、そのまま俺の殺され方の設計図になっている。
問題は、その後だった。
クールダウンでローラーを回していると、検車場のモニターに次のレースが映った。ガールズ戦。三番手の内に、あの背筋がいた。
俺はローラーの上で、ペダルを止めないまま、画面だけを観た。
包囲は、今日も彼女の周りにだけ人口密度を作っていた。プロのガールズは研究が早い。デビューから全部の相手が、女子卒記チャンプを警戒して走る。それでも最終周、集団の呼吸が一番深くなる一点——彼女はそこを、正面から抜けた。
十連勝。
モニターの音声は小さい。実況が何を言ったかは聞こえない。ただ、ゴールの瞬間、うちの検車場のベテランが誰かと「ガールズの新人、えぐいな」と言い合うのが聞こえた。
えぐいのは同感だ。俺は五十メートル先の勝者に、心の中でだけ「見てた」と送信した。圏外なので、届かない。
俺が沈んだ夜に、五十メートル向こうでは、連勝が一つ増えている。同じ屋根の下で、上りと下りが同時に走っていた。
ローラーを降りるとき、隣の若手に「片瀬さん、なんか楽しそうっすね」と言われた。自覚はなかった。走るとき笑っていると指摘したのは彼女が最初だったが、どうやら俺は、彼女の走りを観るときも、同じ顔をしているらしい。観測係が、観測されていた。
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二日目、準決勝。
拾ってもらった椅子で走るのは、思ったより背筋が伸びる。返さないといけない借りが、走る前から一つある状態だ。
俺の番手には、他地区のマーク屋が座った。座ってくれるなら、話は早い。いつもの取り立てで家賃を回収して、一車身半。決勝の椅子は、今度は自分で獲った。
《昨日の今日で通常営業かい》
《番手がまた終盤に消えたんだが。何が起きてるん》
《↑取り立てられたんやで。あの後ろ、家賃高いから》
座る客には、俺の商売は効く。座らない客のことは、まだ白紙のままだ。
そしてその夜のモニターで、澪は十一連勝目を獲った。
俺の連勝記録に、並んだ。俺が家賃を回収した夜に、五十メートル向こうで、俺の記録が並ばれていく。モニターの音声は、今夜も小さかった。
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三日目、決勝。
前夜、宿舎の寝床で、俺は群馬ラインの映像を頭の中で三十回再生した。
映像といっても、録画じゃない。記憶だ。閉じ込められていた二日間、俺は檻の中から、檻の作り方だけをずっと観ていた。誰が最初に動くか。誰が誰を見るか。三車が一つの構造になる、その繋ぎ目はどこか。……繋ぎ目は、あった。構造には必ず、組み立ての手順がある。手順には、順番がある。順番には——癖が出る。
峰岸さんには、癖がある。ラインを発進させる直前、右肩越しに後ろを二度、確認する。一度目は敵の位置。二度目は自分の三番手。二度目の確認から先行が踏み出すまで、平均で約二秒。初日は実物で、二日目はモニターで。合わせて六回、全部そうだった。三十九年の身体に染みた、安全確認の儀式だ。
正確さは、裏返せば再現性だ。雨の取手で覚えたことは、屋根の下でも通用する。
決勝、俺は位置の勝負を最初から仕掛けた。誘導の真後ろを取り、渡さない。群馬ラインは俺を閉じ込める形を作りたい。だが今日は、俺が前にいる。栓をするには、まず俺から前を奪わなくてはならない。
三周目のバック。峰岸さんの首が、右肩越しに一度、回った。
二度目が回る前に、俺は全部踏んだ。
二秒早い発進は、三車のラインを縦に千切った。先行は慌てて追い、峰岸さんは車間を詰め損ね、三番手の蓋は、栓をする相手を見失った。あとはいつもの営業だ。屋根の下の空気は逃げ場がなくて、俺の巻き上げた風の音が、ドームの天井から自分の背中に降ってくる。生まれて初めて、自分の風を上から聞いた。悪くない音だった。
最終直線、半車身。
優勝。ただし、完全優勝ではない三日間だった。
《決勝は獲るんかい》
《一昨日の四着はなんやったん》
《↑あれは群馬がうまかった。今日は化け物が二秒早かった。それだけの話や》
《二秒て。二秒で全部変わる世界こわ》
流し走行で、峰岸さんが並んできた。
「……二秒、早かったな」
「肩の儀式、いただきました」
「化け……いや」ベテランは言い直した。「兄ちゃん、あんた、嫌な目ぇしとるわ。ようある強い新人の目やない。番組屋と予想屋の目や」
勲章としてノートの表紙裏に貼っておく。ただ、宿舎に戻って頁を開いて、俺は自分に正直な行も足した。
『今日は読み勝った。読み合いは五分の勝負。構造は、読みより強い。単騎の天井は、この上にある』
取り立ては、座った客にしか効かない。読みは、癖のある相手にしか効かない。癖のない構造に人数で栓をされたら——その答えは、まだ白紙だ。白紙の頁が、また一枚増えた。
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最終日の夜、管理課で携帯が返ってきた。
電源を入れて、三秒で一通目が着弾した。
『抜いた』
二文字だった。十二連勝。俺の十一を、超えていった。
『検車場のモニターで見てた。三日とも』
『知ってる。私も見てた。……あんたの四着も』
手が、一瞬止まった。同じ屋根の下で、俺があいつの記録更新を音の小さいモニターで見ていた三日間、あいつも同じ画面で、俺の初めての着外を見ていた。
『あれは配置で負けた。次は別の答えを出す』
『知ってる。あんたはそういう人。……で、白米の伝票は』
『持ってきてた。三日間、鞄の中にいた』
『……ね。今度こそ会えると思ったんだけど』
少しだけ間があって、続きが来た。
『まあいい。利子つけとくから。大盛りが特盛りになるだけ』
『複利か単利かだけ教えてくれ』
『複利に決まってるでしょ』
ドームの外は、九月の夜風だった。同じ屋根の下より、モニターの中のほうが距離が近い。俺たちの業界は、そういうふうにできている。当分は、それでいい。伝票は腐らないし、利子は複利だ。楽しみは、増える一方だった。




