第42話 百円の風
八月の終わり、次の斡旋書が届いた。
開催場の欄を見て、俺は箸を置いた。
「松戸だ」
「……あら」味噌汁をよそう手を止めて、母が言った。「地元じゃない」
松戸競輪場。家から自転車で行ける、俺の原点だ。一年前、おっちゃんに連れられて、百円払って初めてプロの風を見た場所。客席から「初見でそこ見るか」と言われた、あの立った傾斜を、今度は俺が下りる側になる。
「見に来るか?」
「行かないわよ」母は即答した。「配信で見る。生で見たら、心臓が営業しすぎるもの」
……台所のテレビの前が、母の指定席らしい。それでいい。うちは、それでいい。
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前検日。地元の検車場は、遠征と勝手が違った。
まず、知った顔が多い。五月から朝練で世話になっている千葉支部の先輩たちが、そこら中にいる。そして前検の手続きの合間に、その一人が寄ってきた。間宮さん。三十五歳、A級2班の中堅で、朝練で何度も後ろを走らせてもらった人だ。
「片瀬。地元同士や、明日、前後で組まんか」
来た、と思った。
「お前が前を張るなら、俺らも助かる。お前も番手に守られる楽を、今のうちに覚えとけ。地元のラインは、そういうもんや」
悪意のない、実務の誘いだった。むしろ厚意だ。分かった上で、俺は頭を下げた。
「すみません。単騎で行かせてください」
「……理由、聞いてもええか」
「俺、自分の風の値段を、まだ知らないんです」これは京王閣からの持ち帰り案件だ。「値段の分からない商品は、売れません。義理で貸すと、帳簿が曖昧になるので」
間宮さんは数秒、俺の顔を見て、それから吹き出した。
「変わっとるなあ、お前。……ま、若いうちは好きにやれ。地元の看板は、勝てば立つ」
離れ際、どこかから「単騎気取りが」と小声が聞こえた気もするが、聞こえた分だけノートに書いておく。単騎の家賃は、こういう小声で払うものらしい。
検車場のモニターの前売りは、一・五倍。地元の見積もりは、世間より少し甘い。甘さの内訳を、明日から三日で裏書きする。
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前検の朝、正門の前で、俺は一度だけ立ち止まった。
入場料、百円。一年前、おっちゃんが券売機に入れた百円玉の音を、俺はまだ覚えている。映画の二十分の一で生身のプロが見られる、安すぎる百円。今日からの三日間、あの百円の中身は、俺だ。安いと思わせたら、負けだと思う。
初日、敢闘門をくぐると、拍手が湧いた。
「おかえり!」の声が、いくつか混ざっていた。帰ってきたつもりはない。ここから出て行ったこともない。ただ、あの客席の音の中に、一年前の俺と同じ場所で観ている誰かがいるかと思うと、傾斜が少しだけ、優しく見えた。……見えただけだ。松戸の三百三十三は、走ると壁だった。
三百三十三バンク。四百より小さく、コーナーは急で、直線は短い。逃げ得と言われる小さいバンクは、俺の営業に向いている——が、今日の本題は、勝ち方のほうだ。
京王閣の宿題。風の売り方。三日間で、最初の実験をやると決めてきた。
名付けて、取り立てだ。
俺の後ろの席は、無料で風がもらえる特等席として、もう市場が立っている。なら、家賃を取ればいい。金は取れない。だから、脚で取る。
三日制の梯子は、予選、準決勝、決勝の三段だ。上るたびに人数が減って、最終日には七人だけが残る。実験には、ちょうどいい回数だった。
初日、予選。俺の番手には他地区のマーク屋が座った。俺は早駆けで出て——それから、ペースを刻んだ。上げて、少しだけ緩めて、また上げる。半周ごとに、不規則に。番手は俺が緩めるたびに車間を詰め、上げるたびに踏み直す。等速の風なら無料で乗れる席が、不規則の風だと、座っているだけで金を——脚を、払う席になる。
種明かしをすれば、緩急は俺にも高くつく。上げ直しのたびに、俺の脚にも利子がつく。ただし俺の利子は、数十秒で消える。回復S98。番手の利子は、消えない。同じ取引で、片方だけが複利で減っていく。
最終直線、番手の差しは、来なかった。来る脚が、もう残っていなかった。一車身半。二着には、後ろの争いを嫌って早めに外を回した別ラインの自力屋が入った。配当は、今日も景気が良かったらしい。
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二日目、準決勝。俺の番手には、間宮さんが座った。
「地元の験担ぎや」と本人は笑っていたが、目は本気だった。組まないなら、獲りに来る。正しい大人の距離感だ。
そして間宮さんは、番手として一番手強い客だった。
何しろ、朝練で俺の後ろを何十回も走っている。俺の癖も、上げ方も、身体が知っている。初日の映像で取り立ての仕組みまで読んできたらしく、俺が緩めても、車間を詰めすぎない。距離で利子を値切ってくる。知っている風と、知られている俺。地元の朝練が、そのまま騙し合いの教材になっていた。
だから俺は、リズムの桁を一つ増やした。半周単位の緩急を、コーナー単位に。膨らむ傾斜と、落ちるバンクの高低まで請求書に含める。三百三十三の急な壁は、こういう時、貸主の味方をしてくれる。
結果から言うと、間宮さんは四着に沈んだ。
取り立ては、地元の先輩にも等しく執行される。レース後、間宮さんは太腿を叩きながら、検車場で唸った。
「……なるほどなあ。お前の後ろ、タダほど高い席はないっちゅうわけか」
「家賃、いただきました」
「言うわ、こいつ」笑ってから、少しだけ真顔になった。「けどな、片瀬。取り立てが効くのは、お前の後ろに座った奴だけや。座らんと、お前ごと蓋する奴が出てきたら——その時、単騎はどうする」
蓋。
いい質問すぎて、即答できなかった。間宮さんは「宿題や」と言って、ドリンクを受け取って行った。地元の先輩は、負けても授業料を置いていってくれる。
三日目、決勝。
相手は、準決勝を勝ち上がった六人。全員が取り立ての手口を二回ずつ見た後で、それでも俺の後ろは競りになった。手口を知って、なお座る。座らなければ届かないと、脚が分かっているからだ。市場というのは、こういうふうに正直にできている。
最後は正攻法で押し切って、半車身。三日で三様の相手に、三様の取り立て。地元凱旋、完全優勝だった。場内実況が「地元・松戸の——」と読み上げた瞬間の拍手は、初日の倍あった。一年前に百円で聞いた歓声の、内側に立った。音は、内側のほうが、少しだけ重い。
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最終日の夕方、賞典室で茶封筒をもらって、正門を出ると——見慣れた二人が、並んで待っていた。
おっちゃんと、須田さんだった。
「兄ちゃん!! 完全優勝や!! 地元で!!」
おっちゃんの収支は、聞く前に発表された。頭固定は三日とも的中、ただし地元人気で配当は薄く、「勝っとるのに儲からん」という新しい苦情が生まれていた。「あんたが強うなるほどワシの旨味が減る。この矛盾、どないしてくれるん」「知りません」「即答!」
「よう、片瀬」須田さんは、店じまいした台の横で、鉛筆を耳に挟んだまま立っていた。一年ぶりの再会だった。「立派になりよって。……ちょっと、これ見てみい」
差し出されたのは、今日の見立ての売れ残り——小さな紙切れだった。数字が二つ。俺の車番と、もう一つ。
「あんたの頭はな、書くまでもない。売り物にならん。皆が買うからや」須田さんは、にっと笑った。「ワシが今日売っとったのはな、あんたの後ろや。誰があんたの風に乗って、二着に残るか。その見立てが、一枚百円」
「……俺の風の、小売価格」
「そうや。卸値はタダなんやろ? ワシはそれを仕入れて、百円で売る。ええ商売やろ」
「完璧です。腹が立つくらい」
須田さんは、っはっは、と例の声で笑って、それから、ふっと目を細めた。
「片瀬。ワシは五十年、風除けの後ろに座る奴の顔を見てきた。あの席に座る顔はな、二種類ある。——借りとる顔と、盗っとる顔や」
「借りる顔と、盗る顔」
「そうや。あんた、今にそれを見分ける目が要る日が来よる。あんたの風は、これからどんどん高うなる。高い風の後ろには、両方の顔が来る」老予想屋は、胸ポケットの手帳をぽんと叩いた。「世間はあんたを化け物や何やと呼ぶがな。ワシの手帳では、あんたは片瀬湊や。名前で買う客が、ほんまの客や。覚えとき」
帰り道、おっちゃんの自転車と並んで、夜の松戸をゆっくり走った。一年前、時給千百円のレジへ通っていた道だ。おっちゃんは今日の払戻の使い道を延々と検討していた。俺は半分聞きながら、頭の中でノートをめくっていた。
取り立ては、効く。ただし、座った客にしか効かない。
蓋には、まだ答えがない。借りる顔と盗る顔の見分け方にも、まだ答えがない。
家に着くと、台所の母が振り向いて、「見たわよ、二班さん。地元のあんたは三割増しに映るわね」とだけ言った。指定席からの批評は、今日も短くて、ちょうどいい。
宿題が三つ。完全優勝の夜に、荷物がまた増えた。
……いい傾向だ。思えば青カバーの頃から、荷物が増えるたびに、俺は強くなってきた。宿題の在庫は、この商売の仕入れだ。




