第41話 無料の風
「深夜の化け物」。
検索結果の一番上で、俺はその六文字と対面した。
切り抜き動画、再生数二十四万。まとめ記事。スレの勢い。俺の知らないところで、俺の屋号が決まっていた。
『見たか』と大和。
『見た』
『どうよ』
『屋号としては悪くない。深夜は主戦場だし、無料で看板を作ってもらった』
『感想が個人事業主のそれなんよ』
『事実そうだ。商標の出願を検討する』
『するな』
母には夕飯の席で報告した。「あんた、化け物って呼ばれてるらしいわよ」「回復だけな」「そう。ほどほどにね」。うちの台所は今日も、世間より三割涼しい。
ちなみに「回復だけがバグっている」という俺の申告は、正確には嘘じゃないが、全部でもない。持久はもう目盛りの外にいる。ただ、世間の観測はいつも大雑把で、大雑把なくらいで、ちょうどいい。手の内は、少ないほど高く売れる。
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A級2班、初戦。八月、京王閣競輪場。
前検日の検車場で、空気が変わったのが分かった。見られている。ただの新人への警戒じゃない。「例のやつ」を見る目だ。すれ違いざま、若手が小声で「……深夜の」と言いかけて、隣の先輩に肘で止められていた。止めなくていい。屋号は、呼ばれてこそだ。
オッズモニターの前で、自分の値段を確認する。頭、一・八倍。一番人気。チャレンジを九個抜いてきた新人への、世間の見積もりだった。
「兄ちゃんが、例の化け物か」
振り向くと、三十半ばの選手が立っていた。細身で、姿勢がよくて、目が笑っている。出走表で名前は覚えていた。刈谷。東京のA級2班、脚質・追込。決まり手の欄に、「差」の字がきれいに並ぶ男。出走表の数字を辿るかぎり、三年前まではS級にいて、落ちて、それから戻れずにいる。今の得点はA2の上のほう——あと少しで、帰れる位置だ。だから毎日、一着が要る人だ。
「片瀬です」
「知ってる」刈谷さんは、にこ、と笑った。「明日から三日、兄ちゃんの後ろ、もらうよ」
「……予約制じゃないんですが」
「そうだよ。早い者勝ちで、強い者勝ち」笑ったまま、すっと離れていく。「いい風、期待してるわ」
いい風。
その言い方が、妙に耳に残った。
翌朝の出走表で、刈谷さんの欄を見た。『片瀬君の後ろ』。宣言どおりだった。俺の欄は今節も三文字で、『単騎で』。買う側は、この二行を並べて読んでから、金を出す。俺の商売は、走る前に、もう始まっている。
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初日。
脚見せの一周で、いつもの絵ができた。二つの塊と、一台。地元の三車が縦に連なり、別の三車がその後ろに続いて、最後に、どこにも属さない一台が間隔を空けて回る。俺だ。
選手紹介の一周は、並びを客に見せるためにある。見せる並びのない人間は、一人で回るしかない。プロになってから、俺はこの一周をずっと一人で回っている。もう慣れた。慣れたが、慣れたと思うたびに、ほんの少しだけ、長い一周でもある。
俺はいつもの営業をした。
誘導が外れて、全部踏む。A2の相手は、チャレンジより脚が一段重かった。同じワット数で踏んでいるのに、後ろの気配が薄くならない。チャレンジでは二周目に千切れていた音が、鐘を過ぎても背中に残る。プロの級班は、ちゃんと階段だった。一段上は、一段ぶん、ちゃんと高い。
それでも最後は、押し切った。一車身——のはずが、ゴールの瞬間、俺のすぐ後ろに影がいた。
二着、刈谷。
スタートからゴールまで、俺の真後ろから、一度も離れずに。
最終直線で、一度だけ外へ持ち出したのは見えていた。出て、伸びかけて、届かなかった。差しには助走がいる。俺のペースには、助走を作れる緩みがない。
「ごちそうさん」検車場で、刈谷さんはドリンクを受け取りながら言った。「いい風だったわ。明日も頼むよ」
二日目、俺は手札を替えた。
早駆けをやめて、中団から鐘で大外——捲りだ。相手が変わればノートも変わる。仕掛けの絵柄を変えれば、番手の商売も崩れるはず——だった。最終直線、獲って、振り向くと、影がいた。
二着、刈谷。
今日も外へ出ていた。今日も、届いていない。
早駆けの後ろにも、捲りの後ろにも、あの人はいた。手札を替えても、風は風らしい。本人は涼しい顔で「よくできてるわ、あんた。どの絵でもペースが振れないんだもの」と褒めてくれた。褒められているのに、収支のどこかが合わない。俺は二日連続で一着で、二日連続で、何かを無料で配っている。
その夜、宿舎の寝床で、俺はノートに刈谷さんの頁を作った。
差し。俺の手札に、一枚だけない絵柄だ。番手で差し損ねて「お前は前の人間だ」と査定された日から、俺は前の人間として生きてきた。前の人間の背中は、後ろの人間の教材になる。なら、後ろの人間の呼吸は——前の俺の、明日の教材だ。書けることは全部書いた。書けないことが残るのは、明日、身体で確かめるしかない。
三日目、決勝。
俺の後ろで、戦争が起きていた。
周回中から、番手の取り合いだ。刈谷さんと、別ラインのマーク屋が、俺の真後ろの一枠を巡って押し合い、張り合い、牽制し合う。俺は先頭で、自分の尻の後ろの席が競り落とされていく音を聞いていた。何なんだ、この市場は。
競りの勝者は、刈谷さんだった。
誘導が外れる。踏む。付いてくる。鐘。踏む。付いてくる。最終コーナー。踏む。付いてくる——最終直線、俺の右隣に、すっ、と影が並んだ。
初めて見る角度だった。プロになってから、最終直線で俺の隣に人がいたことは、一度もなかった。
刈谷さんの差し脚は、教科書より静かで、檜山より柔らかくて、そして俺の「まだ伸びる」を、正確に上から塗り潰した。
四分の一車身、前に出られて、ゴール。
——負けた。
プロ初黒星。連勝は、十一で止まった。
一拍遅れて、場内が、どっと沸いた。歓声というより、どよめきだった。一・八倍の頭が飛んだのだ。電光の配当を見上げると、二車単から三連単まで、軒並み景気のいい桁が並んでいた。俺の初黒星は、車券的には、ちょっとした事件らしい。負けてなお車券を荒らしていくのか、俺の営業は。
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検車場で、刈谷さんがドリンクを配って回っていた。
一着の仕事だ。俺の番が来て、差し出された一本を、両手で受け取った。
「……どうも」
「ん。いい飲みっぷり、期待してるわ」
もらう側の一本は、初めてだった。寺で聞いたとおりに、ちゃんと受け取って、ちゃんと飲む。味は——普通のスポーツドリンクだった。当たり前だ。ただ、喉を通るときに一つだけ分かった。これは、授業料の領収書だ。
「刈谷さん。一つ、聞いていいですか」
「ん?」
「俺の風は、いくらでしたか」
刈谷さんは目を丸くして、それから、今日一番楽しそうに笑った。
「タダだよ。あんたが勝手に吹かせてる風だもの」ペットボトルのキャップを閉めながら、刈谷さんは続けた。「あんた、三日目が一番強いんだってな。……今日、新品だったの、あんただけだと思ってた?」
息が、止まった。
三日目は、この一年、俺の主戦場だった。朝いちばんに点呼を取って、どこにも昨日がないことを確かめて、それを商売にしてきた。だがその武器は、周りが目減りしてくれて初めて値段になる。——三日間、俺の真後ろで、風を一度も食っていない人間は、目減りしない。
初日に届かなかった差しが、三日目に届いた理由が、それだった。俺が三日かけて新品でい続けたぶん、あの席の人も、三日かけて新品でい続けたのだ。俺の三日目の新品は、俺が自分で作った、もう一人の新品と並んで、直線に来ていた。
「ただし、あんたの後ろを取るのはタダじゃない。今日のは競りで一仕事だったわ。……分かるかい? あんたの風には、もう値段がついてる。市場もある。あんたに、集金の口がないだけ」
「……勉強になります」
「化け物が経済の勉強してるよ、こわ」去り際に、一言だけ付け足された。「悪く思うなよ。単騎の先行は、俺らの商売道具なんだわ。——嫌なら、風の売り方を覚えるこった」
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夜。実家の布団の上で、画面を開いた。
【片瀬 湊 18歳】
スピード E 40 ↑0.8
瞬発 F 27 ↑0.1
パワー C 65 ↑0.9
持久 104 ↑1.3
回復 S 98 ↑0.8
技術 D 59 ↑1.6
……おい。
スピードの行に、見たことのない文字がいた。
E。
十七年と少し、俺のスピードはFだった。小四の手帳の一頁目からずっと、あの行の頭文字はFだった。それが今夜、生まれて初めて、ランクの階段を一段上がった。E40。人生初の、スピードのランクアップだ。祝いたい。盛大に祝いたい——が、今夜の主役は、黒星のほうだ。
数字は、全部伸びている。全項目、キャリア最高値。なのに、負けた。
原因は分かっている。差されたからだ。ただ、その説明は画面のどこにも書いていない。俺の負けは今日、初めて、画面の外で起きた。
ノートを開いて、新しい頁の頭に書く。
『風の値段』
俺の先行は、番手にとって無料の風だ。無料どころか、あの席は競りが起きるほどの人気商材で、市場はすでに成立していて、集金の口だけが、俺に付いていない。
三日目に俺が新品なのは、周りが目減りするからだ。目減りしない席を、俺は自分で作って、三日間、無料で貸していた。俺の一番の武器は、真後ろの一台にだけ、効かない。
風の、売り方。
書いた瞬間、なぜか、この前熊井に送った言葉が頭をよぎった。お前の強さはヨーイドンの外にある——あれは熊井の宿題のはずだ。俺の宿題と、どこかで繋がっている気がするのに、繋ぎ目がまだ見えない。分からないものは、分からないまま書いておく主義だ。頁の隅に『熊井・接触・ヨーイドンの外(保留)』とだけ足した。
答えはまだ、ない。宿題の名前が決まっただけだ。……いい。経験上、宿題の名前が決まった日は、だいたい、いい日だ。
スマホには、不在着信が三件。全部、御影だった。折り返す前に、メッセージだけが届いていた。『湊が差された!? 映像どこ!?』『見た』『……あの差しは、しょうがない。けど次はないでしょ、湊なら』。慰めと断定が一往復で済んでいる。天才の労いは、燃費がいい。
おっちゃんからも一通。『初めて外れたわ!!』の後に、少し間を置いて、もう一通。『……なんやろな、ちょっとホッとしたわ。あんたも負けるんやなあ。よし、明日からも頭固定や』。負けても買うと即決している。最初のファンの帳簿は、俺の連勝では動かないらしい。
スマホが震えた。取引先。
『負けたわね』
『負けた。差された』
『映像見た。あの差し、綺麗だったわ。……で、連勝、いくつで止まったの』
『十一』
『私、いま六。——差、縮んだ』
……この取引先は、俺の黒星を、自分の帳簿に付けている。
『こっちの黒星で縮む差で、いいのか』
『よくない。次からは自力で縮める』
布団の中で少し笑って、画面を閉じた。
E40と、プロ初黒星と、風の宿題。今日の棚卸しは、荷が多い。
プロは、飽きない。




