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俺だけ自分のステータスが見える 〜回復だけバグった最弱候補生、時速70kmのプロ競輪で年収二億を目指す〜  作者: 猫の飼い主
第二部 単騎の化け物

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第38話 五升半の約束

 六月二十六日、昼。俺は実家の居間で、正座していた。


 自分のデビュー戦でもしなかった正座を、画面の前でしている。今日は取引先の開業日だ。ガールズケイリン、デビュー戦。七車立ての発走機に、見慣れた定規みたいな背筋が並んでいる。


 号砲から、彼女は静かだった。


 女子卒記チャンピオンは、初日から当然のように包囲される。前を塞がれ、外に蓋をされ、七人の新人戦なのに、彼女の周りだけ人口密度が高い。養成所で見た景色と同じだ。実況の人が「厳しいマークです」と言い、解説の人が「これを抜けられたら本物ですが」と言った。


 抜けられるんだ、この人は。俺は画面の前で、勝手に断言していた。包囲は、彼女にとって初見の問題じゃない。秋のロードで解いて、卒記の決勝で解き直して、模範解答まで作った問題だ。


 その先は、俺の知っているとおりだった。フェイントなし。予備動作なし。最終周、包囲の呼吸がいちばん深くなる一点で、彼女はまっすぐ抜け出した。


 二車身。文句なしの、プロ初勝利。解説の人が「……本物ですね」と、ちゃんと言い直した。


 画面の中の澪は、ゴールの後も表情を崩さなかった。客席を埋める側の一人目は、初日から、埋めさせる走りをした。


 俺のスマホが震えたのは、その日の夕方だった。


『報告。プロ初勝利。デビュー当日、当日中の報告』


『受領した。報告速度では完敗だ』


『分かってるじゃない。……ところで車券は?』


『買えない。選手は車券を買っちゃいけない決まりだ』


『知ってる。——変なの。日本で一番私の勝ちを確信してる男が、一円も賭けられないんだ』


『代わりに白米を賭けてる』


『あれは賭けじゃなくて、伝票』


 こうして二人とも、デビュー節を勝ちで開業した。伝票は互いに一枚ずつ。執行日未定。貸借対照表の上でだけ、俺たちは定期的に会っている。


---


 初賞金の使い道は、最初から決まっていた。


 数日後、実家の玄関に、でかい段ボールが届いた。業務用炊飯器、五升半炊き。十二万円。母は伝票にサインしながら、じっとりと俺を見た。


「……本当に買ったの、あんた」


「約束の期日どおりだ。初賞金で買うと言った」


「五合炊きはどうすんのよ」


「予備機として現役続行だ。非常用電源みたいなものだと思ってくれ」


「うちは避難所じゃないのよ」


 台所の一角に、銀色の巨体が据わった。炊飯器というより、もう設備だ。母が「挨拶はしなくていいからね」と先回りしてきたが、遅い。もうした。


 初炊きの湯気が上がったとき、母は一杯目を、俺じゃなくて自分によそった。ひと口食べて、頷いた。


「……悪くないわね、業務用」


「だろ」


「これで、あんたの茶碗のおかわりを数えなくて済むわ」


 数えなくて済む、と言いながら、母はその日の俺のおかわりを数えていた。六杯。自己新だった。白米の杯数は俺の幸福度の単位だが、今日の六杯には、初賞金と、取引先の初勝利と、五升半の約束のぶんが入っている。過去最高値を、素直に更新した。


 その週のうちに、大和が白米を食いに来た。


「プロ様の飯、食わせろ」


 幼馴染は遠慮なく三杯食って、俺のデビュー戦の配信を、もう三回見たと言った。


「なあ湊。お前のレース、ゲームで言うと、開幕から全リソース全ツッパなんだよ。普通は途中で息切れして負ける戦法なの。なんで成立してんの」


「リソースが切れない体質だからだ」


「チート構成じゃん」


「持って生まれた仕様だ。文句は運営に言え」


 大和は冬に、格ゲーの全国大会がある。予選はとっくに抜けたそうだ。画面の中でフレームの数字を作る男と、バンクの上で着順の数字を作る男。職種は違うが、俺はこいつを同業だと思っている。帰り際、大和は台所の銀色の巨体を見上げて、「ラスボスの風格」と言った。


---


 数え始めて、一場所目。斡旋は伊東温泉競輪場。ミッドナイト競輪だった。


 開催時間、二十一時から二十三時過ぎ。観客はゼロ。車券は全部ネット。一年前、コンビニのレジ越しにおっちゃんのスマホで覗いた、あの深夜の世界に、今度は俺が出る。しかも場所は伊豆——養成所の山の、すぐ隣町だ。プロになって二場所目で、もう山の匂いのするところへ戻ってきた。


 前検日の検車場には、大人の顔が並んでいた。


 ルーキーシリーズと違って、チャレンジ戦は実戦の海だ。三十代、四十代のベテランに、俺みたいな新人が混ざる。同県の並びで、ラインもできる。単騎は、俺くらいのものだ。


 世間ではこっちを「本デビュー」と呼ぶらしい。新人戦は前座で、大人の海に出てからが本番、という値付けだ。異論はない。


「卒記チャンプか。新人戦とここは、別の商売だぞ」


 指定練習で隣に並んだ四十代が、悪意なく言った。経験者の常識として、正しい。新人だけの三日間と、飯を食うための大人のレースは、別の競技だ。


「はい。なので今夜、開業二店舗目です」


「……変な奴だな、お前」


 検車場のモニターに、前売りが出た。俺の頭は二番人気。一番人気は、地元ラインの先行屋だった。世間の見積もりが、ちゃんと「大人の常識」側に寄っている。


 いい。荒れる準備は、整った。


---


 二十一時半。無観客のバンクは、稽古場の音がした。


 客席に人はいない。あるのは照明と、虫の声と、七人ぶんのタイヤの音。だが画面の向こうには、深夜の観客がいる。レース映像の横を、コメントが流れていくのだ。


《出た、卒記のやつ》

《いわき平で新人狩りしてた子でしょ》

《チャレンジは大人の世界やぞ。揉まれてこい》


 号砲。青板の周回から、地元ラインが前を固めて、俺は最後方の単騎。定石なら、ここから隙を待つ。


 待たなかった。誘導が外れて、みんなが息を整えたその呼吸の頭で、大外から全部踏んだ。


《はい早駆けwww》

《早すぎ早すぎ残り2周やぞ》

《新人にありがち。どうせ垂れる》


 鐘。ラインの先頭が慌てて追ってくる。番手が千切れて、隊列が縦に伸びて、バンク全体が俺のペースに巻き込まれていく。残り半周、背中の音が薄くなる。


《垂れない》

《垂れないが???》

《おいおいおい》

《残った——じゃなくて突き抜けたwww》


 三車身。


 電光掲示板に着順が灯って、少し遅れて、配当が出た。三連単、十二万六千円。俺の頭は二番人気のはずだったのに、二着三着に人気薄が雪崩れ込んで、車券は大荒れになったらしい。俺の早駆けは、俺だけじゃなく、レース丸ごとをセオリーの外に連れ出すのだ。


《12万てwww》

《買えるかこんなもん》

《↑俺は買った。頭だけ信じた。焼肉行ってくる》


 検車場でドリンクを配って回ると、四十代のベテランが、受け取りながら苦笑いした。


「……新人戦の遊びじゃ、なかったわけだ」


「明日もこの営業でやります」


「言うねえ。明日は潰しに行くぞ、若いの」


 笑って言われた。敵で、仲間。寺で聞いたとおりの世界が、ちゃんとここにあった。


---


 二日目は、初日の映像を全員が見てきた。


 俺が下がれば前を固められ、俺が動けば内に蓋。大人の対応というやつだ。だから俺は初めて、早駆けをやめた。ラインの後ろで我慢して、鐘から大外——養成所で種だけ蒔いた、後出しの早駆け。捲りだ。まだ荒削りだが、届いた。一車身半。


《え、今日は待ったの!?》

《早駆けの新人が捲りやってきたんだが》

《手札二枚あるのかよ》


 三日目は、二枚目を見た上で、それでも俺の頭から車券が売れた。期待は裏切らない主義だ。真っ向から踏み合って、押し切って、半車身。


 完全優勝。九つのうちの、三つ。


《二枚目見せた翌日に、あえて一枚目で勝つな》

《読めてるのに止まらないの、いっそ清々しい》

《予想不能。車券的には最悪。視聴的には最高》


《この時間の楽しみができてしまった》

《深夜にやべえもん見てる自覚ある》

《なお車券は当たらん模様(頭以外)》


---


 帰り支度の前に管理課で携帯を受け取ると、受信箱でおっちゃんが三日分、吠えていた。


『兄ちゃん!!!! 見たか配当!!! ワシの千円が!!! 十二万になった!!!!』


『数えるのやめたわ!!! 明日も頭固定や!!!』


 受信箱の中では「明日」がとっくに昨日になっていたが、頭固定は三日間、律儀に続いたらしい。『おめでとうございます。缶コーヒー何本ぶんですか』とだけ返した。


 それから、ニュースの通知が光った。


『御影迅、S級初戦も圧勝——デビューから半年足らずでの特別昇級に、場内どよめき』


 あいつ、もう上の景色にいる。メッセージも来ていた。『こっちの風もうまいよ! 湊のぶん、まだ取っといてある!』。割り勘の口約束が、着々と現実の距離になっていく。


 夜、寝る前に、画面を開いた。


【片瀬 湊 18歳】

 スピード F 39 ↑0.6

 瞬発   F 27 ↑0.1

 パワー  C 64 ↑0.8

 持久   103 ↑1.4

 回復   S 97 ↑0.7

 技術   D 57 ↑1.9


 技術が、また走り出している。実戦は、効かない練習が一個もない山の、さらに上等なやつだ。娑婆の設計は、当たりだった。


 それと——回復の行が、動いている。三日走って三日全部戻す生活が、戻す力そのものを鍛えているらしい。S97。この数字の先に何があるのか、俺はまだ知らない。


---


 二場所目は、七月半ばの平塚だった。


 書くことが、あまりない。


 初日は早駆け。二日目は捲り。三日目は、相手が二枚とも警戒してきたので、警戒したぶんだけ遅れて出て、押し切った。三日とも、手札は同じだ。同じ手を三回出して、三回とも通った。


 完全優勝。二場所連続、六連勝。


 拍子抜けした、という話ではない。逆だ。通ってしまったことのほうが、少し気味が悪かった。ここまでの相手は、俺を「新人の飛び道具」として警戒していた。飛び道具は、正体が分からないうちは怖い。分かってしまえば、ただの、脚の速い単騎だ。


 最終日、検車場のモニターの前で、ベテランが二人、俺の初日の映像を巻き戻していた。研究が始まっている。今日の三日間は、明日から誰かの教材になる。


 ノートに一行、書き足した。


『通用した=まだ研究されていない、の言い換え』


 賞味期限のある商品を売っている自覚は、持っておいたほうがいい。


---


 三場所目の斡旋書は、もう届いている。九連勝まで、あと三つ。


 ついでに天気予報も見た。開催の三日間に、傘マークが、三つ並んでいた。

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