第37話 茶封筒は重さでできている
六月二十一日、朝。玄関に、初めての遠征鞄が据わっていた。
中身は装具一式と、三月からずっと出番を待っていた選手手帳。五桁の登録番号は卒業式の日にもらったが、番号が仕事をするのは、レースがあってこそだ。今日からこの手帳は、身分証明書ではなく、商売道具になる。
朝飯の席で、母がしげしげと俺を眺めた。
「で、湊。あんたは何の人なの」
「競輪選手。——今日から、レースのある」
三か月越しに、この質問への答えが受理された。母は「はいはい」とだけ言って、俺の茶碗の白米を、黙って大盛りにした。開業祝いは、それで全部だった。うちらしくて、いい祝いだった。
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同じ日の昼、前検日。いわき平競輪場。北へ三時間。
正門をくぐって選手管理課に出頭すると、プロの最初の仕事は「預けること」だった。携帯と、貴重品ぜんぶ。開催が終わるまで、選手は娑婆から切り離される。公正のための、合法的な缶詰である。養成所の山で十か月鍛えた俺に、死角はない。
預ける直前、取引先に一通だけ送った。
『これから三日、圏外になる。制度だ』
『知ってる。私ももうすぐ同じ制度の中だから。いい報告、待ってる』
珍しく素直だ、と思ったら、三秒後にもう一通。
『あ、「待ってる」のは受信箱の話ね。競争では待たないから』
いつもの取引先だった。安心して、電源を切った。
検車場で自転車を組んで、車体検査を受けて、バンクで指定練習。いわき平は四百バンク。海の近い風が、ゆるくホームを撫でていた。
検車場の壁という壁に、モニターが下がっていた。前売りオッズ。——明日の新人戦、俺の頭は一番人気だった。
人気の表、というやつだ。世間はまだ、俺の走りを一秒も見ていない。見ないまま、卒記の配信と、ご祝儀と、話の種で、俺に値を付けている。最初の見積もりとしては悪くない。あとはこの値段を、走って裏書きするだけだ。
宿舎は四人部屋だった。四畳半に、カーテン一枚で仕切られた寝床。同部屋の新人は、俺と目が合うと、会釈して、カーテンを静かに閉めた。警戒されている。悪くない。俺も十か月、そうやって強い奴を見て育った。
午後は大広間で参加式。新人紹介で名前を呼ばれ、立って、頭を下げた。拍手はまばらで事務的で、それがかえってプロだった。ここでは新人は、毎年の消耗品なのだ。……覚えられる側に、なりに来た。
参加式のあと、記者に選手コメントを求められた。前検日のコメントは、明日の出走表に載る。「自力で」「◯◯君の番手」——その節、自分がどの役をやるのかを、走る前に世間へ申告する欄だ。買う側は、これを読んでから金を出す。
新人戦は全員が単騎だから、今節ばかりは七人が七人、同じことを言う。それでも俺は、自分の口で言った。
「単騎で」
言ってみて、思った。この三文字は、たぶんこの先ずっと、俺の欄に並ぶことになる。値札の前には、まず品名がいる。
消灯前、大部屋の隅のテレビが、他場のナイターを流していた。寝床のカーテンの隙間から、それを黙って見ている目が、いくつもある。俺は観察ノートを開いて、画面の中の知らないプロの仕掛けどころを、二人ぶん書き取った。どうせいつか、どこかのバンクで会う人たちだ。仕込みは、早いほどいい。
二十二時、消灯。山と同じ時刻に、灯りが落ちる。違うのは、明日の対戦相手が、同じ屋根の下で寝ていることだけだった。
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六月二十二日。デビュー戦。
ルーキーシリーズ——新人だけで争う、ラインなしの特別競走。並びの相談も、番手の貸し借りもない。七人が七人、単騎。おまけに反則の基準はガールズケイリン並みに厳しくて、押し合いも蓋も削られている。個の脚だけの、養成所の続きみたいなレース。
——俺のために作られた開幕戦か?
バンクへ出る門には、名前が付いていた。敢闘門。いい名前だ。くぐる時、俺は小さく頭を下げた。今日から世話になります。俺の、稼ぎ場です。
門を出たら、まず一周する。
選手紹介——通称、脚見せ。発走前に、その日の面子がバンクを回って、客に姿を見せる。ただの顔見世じゃない。誰と誰が連なって回るかで、今日の並びが客に伝わる。バンクの上で組む隊列を、走る前に一度だけ世間へ開示する一周だ。
新人戦の脚見せは、異様な絵になった。
七台が、七台とも、誰とも連ならない。等間隔に散らばったまま、黙って一周する。並びを見せるための周回で、見せる並びが一つもない。
……悪くない。俺の商売の形が、そのまま画になっている。
スタンドには、思ったより客がいた。平日の昼の新人戦を、わざわざ見に来る酔狂な人たちだ。発走機に車輪を預けたとき、どこかから声が飛んだ。
「兄ちゃーん! 配信で見たぞー! 買ったからなー!」
……買われている。俺の頭に、知らない誰かの昼飯代が乗った。寺の講話が、初日から効いてくる。いいぞ。重みは燃料だ。
号砲。誘導員の後ろに、七車が一列に並ぶ。
周回中、俺は誘導の真後ろにいた。定石なら、ここからは牽制だ。誰も早くは踏みたくない。風を受けたくない。全員がそう教わって、そのとおりに考える——なら、俺の仕事は決まっている。
誘導が外れた。その瞬間に、全部踏んだ。
背中で空気の割れる音がした。たぶん今、六人の頭に同じ文字が浮かんでいる。早い。早すぎる。残り二周を全部先頭で走る気か——そうだよ。それがうちの営業方針だ。
一周で車間が開いた。二周目の途中で、追ってくる音が薄くなった。ゴール前、振り向く必要はもうなかった。風の中に、俺しかいなかった。
二車身半。
プロ初出走、初勝利。場内アナウンスが俺の名前を読み上げて、まばらだった拍手が、ちゃんと拍手になった。
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検車場に戻って、俺は自販機に九百円入れた。
スポーツドリンク六本。同じレースを走った六人に、一本ずつ配って回る。寺で聞いた、規則じゃない方の決まりごとだ。
「お疲れさまでした。また明日」
六人目の新人は、受け取ってから、まじまじと俺を見た。
「……お前、これが初勝利だろ。なんで配り慣れてんだよ」
「予習した。配る側しかやらない予定なので」
「こっわ」
口は悪いが、ドリンクはちゃんと受け取ってもらえた。締めて九百円。配ってみて、見立ては確信に変わった。受け取った側の顔が、その場で「これで終わり」の顔になるのだ。九百円で、明日にはまた、ただの敵同士に戻れる。安い。
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二日目も、獲った。
初日を見た六人は、今度は全員で俺の番手を取り合った。単騎戦の正解だ。俺の真後ろは、この開催で一番風のない特等席——だから俺は、特等席ごと沼に沈めた。序盤から上げて、上げたまま、最後まで落とさない。二千メートル、切れ目のない加速。番手に入った男の呼吸が、鐘の前で一段深くなるのが、風越しに聞こえた。知っている音だ。あれは、家賃を払っている音だ。
最終直線、番手の男は懸命に伸びて、届かず、四分の三車身。ゴールの後、彼は俺の横に並んで、荒い息のまま言った。
「……あんたの後ろ、特等席じゃねえ。振り落とし装置だ」
いい表現だ。ノートにもらった。
三日目、決勝。
発走前、隣の新人が俺を、ちらりと見た。目つきで分かる。あれは対策を持ってきた目だ。初日と二日目の俺を、消灯前のテレビで繰り返し見た目——矢部と同じ種類の、教科書を作る側の目だった。どこの期にも、ああいうのが一人はいるらしい。
三日目の俺は、いつもどおり新品だった。それがどれくらい変なことかは、周りの消耗した顔が教えてくれる。決勝の六人は、もう完全に俺を軸に組み立ててきた。読まれて、囲まれて、車間で圧をかけられて——それでも最後は、同じ問いに戻ってくる。誰が一番長く、高いところで踏み続けられるか。
答えは、三日間、変わらなかった。
一車身残して、完全優勝。デビュー節三連勝。
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最終日の夕方、俺は「賞典室」の窓口に並んだ。
列には、同じ開催の別のレースを走った選手たちも並んでいた。窓口で手渡される封筒の厚みが、少しずつ違う。級班と着順が、茶色い紙の厚さになって、一列に並んでいる。名簿のどこにも書いていない順位表が、ここにはあった。
俺の番が来た。選手手帳と、判子。差し出すと、窓口の人が名簿と照らして、俺の名前を呼んで、茶封筒をひとつ、滑らせてよこした。
持った瞬間、分かった。
御影、正解だ。あれは厚さじゃない。重さだ。
中身は三日ぶんの賞金と手当。養成所の借金の返済ぶんが引かれて、それでも三十万と少し。十八年の人生で一度に持った最高額を、茶色い紙一枚が、あっさり塗り替えていった。時給千百円で割ると——やめた。今日からは、割る数のほうが変わったんだ。
封筒の重さの内訳を、俺は知っている。スタンドの「買ったからなー」と、おっちゃんの缶コーヒーと、知らない誰かの昼飯代。他人様の金が、着順の形に換わって、俺の手の中にいる。
重いのは、当たり前だった。
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管理課で携帯を受け取って、電源を入れた。三日ぶんの娑婆が、まとめてなだれ込んでくる。
おっちゃんから七通。要約すると「全部的中した」だった。ただし新人戦の一番人気なので配当は薄く、収支は「缶コーヒー二十本ぶんの黒字」。堅実で何よりだ。
御影から一通。『初日の配信見た! 誘導外れた瞬間のアレ、声出して笑った。で、封筒どうだった?』
『重かった』
三秒で返ってきた。『でしょ!!』。詩人と経理で見解が一致した。
それから、本命の一通を打った。宛先、風見澪(取引先)。
『報告。プロ初勝利。ついでに完全優勝』
一分後。
『知ってる。初日、リアタイで見てた。誘導が外れた瞬間に全部踏むの、正気じゃないわ』
『褒め言葉として受領する。で、報告競争は』
『……あんたの勝ちよ。白米一杯、伝票に載せとく』
『大盛りで頼む』
『調子に乗らない。執行は、会えた時ね』
会えた時。男子とガールズは、同じ日に同じレースを走らない。伝票の執行日は未定のまま、二人の帳簿に載った。まあいい。貸しは、腐らない。
帰りの特急で、窓に頭を預けて、俺は指を三本折った。
三連勝。——ただし、この三本は、勘定に入らない。
ルーキーシリーズの成績は、特別昇班には数えない。新人戦はあくまで前座で、大人の海に出てからが本番、という制度の値付けだ。点数は付く。連勝も連勝だ。ただ、数に入らない。チャレンジ戦を三場所続けて完全優勝——九つ続けて獲って、初めてA級2班になる。
折った指を、一度、伸ばした。
俺の帳簿では三勝。制度の帳簿では、まだ〇勝。同じ三日を、二つの帳簿が違う数え方で書いている。
あと九つで、事件になる。




