第36話 水に流すための一本
六月。俺は京都府宇治市の山門の前に立っていた。
黄檗山萬福寺。日本競輪選手会の、新人研修の会場だ。山を下りて二か月半、こんどは寺である。競輪選手への道は、どうも標高の高いところを通りたがる。
「片瀬ぇ!!」
門前の石畳を、見慣れた巨体が駆けてきた。熊井だ。三か月ぶりの再会は、挨拶より先に俺の両肩を掴んで前後に揺さぶってきた。
「聞いてくれ片瀬、調べた。ここの朝飯、お粥らしい」
「三か月ぶりだな。元気そうで何よりだ」
「お粥なんだ片瀬。米が、液体なんだ」
「固体の米は昼に出るらしいぞ。麦入りだが」
「麦……」
巨体が石畳に膝をつきかけたところで、後ろから聞き慣れた声がした。
「相変わらずだな、お前ら」
日野だった。その後ろに大峰が「うす」と片手を上げ、瀬川が無言で頷く。適性組が、寺の門前で揃った。全員、ちゃんと生きて娑婆を越えてきた顔をしていた。
少し離れた石段の脇には、もう手帳を開いている男がいた。
「矢部。もう書くことあるのか」
「門の高さと、風向き」矢部は顔も上げずに言って、それから手帳をぱたんと閉じた。「冗談だ。研修の予習だよ。……久しぶりだな、片瀬。帳簿は持ち越したままだぞ」
「いつでも精算に来い。うちは年中無休だ」
真壁は集合場所の一番前に黙って立っていて、目が合うと顎だけ引いた。あれで挨拶は成立している。檜山は俺を見つけると、正しい角度で会釈をして、正しい発音で「宿題は進めてるよ」と言った。卒業して三か月、全員、何も変わっていなくて安心する。
山門をくぐる前に、俺は一礼した。今週世話になる相手だ。挨拶はしておく。
「片瀬、寺にも挨拶すんの……」
「当たり前だろ。宿泊先で取引先だ」
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研修初日、朝五時起床。五時半、坐禅。
ここで競輪選手という生き物の構造的欠陥が発覚した。腿が太すぎて、足が組めない。
結跏趺坐——両脚を組んで腿に乗せる正式な座り方は、俺たちの腿の上では物理的に成立しなかった。特に熊井は、自分の脚と三分格闘した末、僧侶に「無理はしなくてよろしい」と真顔で言われた。柔道で崩せなかった男が、正座の国に崩された。
坐禅そのものは、静かだった。
「呼吸を数えなさい。一から十まで。十まで行ったら、一に戻る」
言われたとおり、数えた。三巡目あたりで、俺の悪い癖が出た。自分の呼吸のついでに、隣の熊井の呼吸を数え始めていた。浅い。回数も多い。腹が減っている呼吸だ。その隣の瀬川は綺麗な等間隔——さすがだ——そして向こうの矢部は、たぶん俺と同じことをしている。呼吸の集計屋が、堂内に二人いる。
肩に、ぱしんと乾いた音が乗った。警策という棒だった。
「雑念」
「集計です」
「それを雑念と言います」
二発目はなかった。慈悲深い寺だった。
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飯は、予告どおりだった。
朝はお粥と漬物。昼は麦飯一杯に味噌汁と菜。食事中は私語厳禁、それどころか音も禁止だ。たくあんを噛む音すら立ててはいけない。最後は器に白湯を注いで、残しておいたたくあんの一切れで器を清めて、その白湯まで飲む。洗鉢という作法だそうだ。
俺は感心した。皿洗いの水と時間が、構造的に浮く。合理の塊みたいな食器管理だ。あとで僧侶に「あの作法は年間でどれくらいの節水に」と聞いたら、そういう話ではありませんと言われた。そういう話でもあると思う。
適性組では、明暗が割れた。
瀬川は無双した。等速で、無音で、一定量ずつ食う男の飯は、禅の作法と完全に一致した。僧侶が一度、瀬川の食事だけ二度見して、小さく頷いたのを俺は見た。十八年の等速飯が、初めて公式に正しかった瞬間だった。
大峰も無双した。夜の勤行で経典の音読が回ってくると、あの男は「うす」以外の言葉を、突然、朗々と発した。声量、節回し、途切れない息。堂内の新人全員が振り返った。大峰の人生最長の発話は、お経だった。
熊井は、死んでいた。
そして二日目の夜、事件が起きた。
消灯後の大部屋。同期の寝息だけが並ぶ静寂の底で——ぺり、と音がした。
アルミ包装を剥く音だった。たくあんの音すら禁じられた食堂で二日鍛えられた俺たちの耳に、それは発砲音に等しかった。大部屋の闇で、いくつもの頭がゆっくりと持ち上がり、音源を特定した。
熊井が、布団の中で固まっていた。手にはカロリーメイト。
「……すまん。規則には『間食の持ち込みを禁ず』とあった。だがこれは間食ではなく、非常食で」
「その解釈は監査で通らない」
結局、熊井は観念して、持ち込んだ二箱を闇の中で配って回った。大部屋の全員はさすがに賄えないので、適性組と、なぜか近くの布団の矢部にも一本渡っていた。教科書の男は「……もらう理由がない」と言いながら、ちゃんと食っていた。
翌朝の坐禅は、適性組だけ妙に安定していた。僧侶が首をかしげていた。
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三日目、講話。
講師は選手会の理事で、元選手の爺さんだった。名前より先に経歴が分かる。スーツの腿が、はち切れそうだった。
「まず、ええ言葉をひとつ教えたる」爺さんは黒板に、でかい字で書いた。「——練習が仕事で、レースは集金や」
この世界に長く伝わる金言だそうだ。レースの結果は練習の成果でしかない。練習を仕事と思って積んだ人間だけが、レースという集金日に、きちんと回収できる。
俺は背筋が伸びた。いい言葉だ。俺の十か月は、全部「仕事」だったわけだ。そして今月末からは、集金日がある。手帳に書いた。太字で。
「次。君らが明日から売るもんの話や」爺さんは、教室をゆっくり見渡した。「君らが売るのは夢でも感動でもない。車券や。他人様の財布から出た、現ナマや。一レースの売上が、何千万、時に億や。それが全部、君らの背中に乗って、七十キロで走る」
俺は、皺くちゃの千円札を思い出していた。
夜勤明けの缶コーヒーを三日我慢して作られる、あの千円。デビュー節、全レース、頭固定。俺の頭に、あの千円が乗る。……売上が何千万と言われるより、あの一枚のほうが、俺にはよほど重い。
「それからな」爺さんの声が、一段、低くなった。「時速七十キロ。ブレーキなし。九人。プロになった以上、落車は『もし』やない。『いつ』や。せやから今日、身体で覚えて帰れ。君らの仕事は、金の重さと命の値段の上で成り立っとる」
教室が、静かになった。
俺は自分の画面の、回復の行を思った。S96。俺はたぶん、人より早く戻れる側だ。それでも、落ちれば痛いし、折れれば折れるのだろう。数字が保証しているのは戻る速さであって、痛くない権利じゃない。……覚えておく。
「最後にな」爺さんは、ふっと空気を緩めた。「この寺には、二回目に来る選手がおる」
重大な反則、違反点数の累積。度が過ぎた選手は「特別指導訓練」で、もう一度この寺に送り込まれるのだそうだ。五泊六日。今度は、費用は自腹。
「六万円や」
チャレンジ戦の一着賞金の半分強が消える計算だ。俺は即座に、二度と来ないことを決めた。爺さんは「その顔や。それでええ」と笑った。金額で規律を設計するあたり、この業界とは話が合いそうだ。
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講話の締めに、爺さんは黒板の字を消して、こう言った。
「よっしゃ、堅い話は終わりや。最後にひとつだけ、規則やない話をする」
レースが終わると、一着の選手が、同じレースを走った全員にドリンクを配って回る。スポーツドリンクでも水でもいい。誰が決めたのでもない。規則のどこにも書いていない。
「——せやけどな、やらん奴は、おらん」
爺さんは、遠くを見る目になった。
「ええか。三十秒、殺し合いみたいなことをする仕事や。転ばせる寸前まで押して、押し返して、怒号も飛ぶ。それで夜には、同じ宿舎の風呂で背中を流し合うんや。……その間にな、一本、挟むんや。バンバンやり合うたけど、これで終わり。全部、水に流そうや——の、一本や」
着順で金を取り合う世界が、自前で発明した精算の儀式。相対値の競技の、絶対のマナー。俺は手帳に書いた。これも太字で。
帰りの廊下で、俺は熊井に言った。
「七車立てなら配るのは六本。一本百五十円として九百円。一着賞金十一万に対して、経費率〇・八パーセント」
「講話の直後にお前はァ!!」
「褒めてるんだ。あんないい儀式が九百円で買えるなら、この世で一番安い九百円だ」
熊井は何か言いかけて、やめて、ため息をついた。
「……で、お前のことだから、どうせもう決めてるんだろ」
「ああ。配る側しか、やらない」
もらう側には回らない。つまり、全部勝つ。そういう宣言として、熊井は正しく受け取ったらしい。「お前のそういうとこだよ」と言った。褒め言葉として受領した。
そういえば、御影は電話で茶封筒の話はしたのに、ドリンクの話は一度もしなかった。……もう配りすぎて、あいつの中では話題ですらないのか。五か月先を走る男の背中は、寺からだと、まだ遠い。
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最終日、山門を出る前に、俺は振り返って一礼した。
「世話になった。二度目は来ない」
「片瀬、それ寺への挨拶としてどうなんだ」と熊井が言った。最大の賛辞のつもりだったんだが。
帰りの新幹線で、日野がぽつりと言った。斡旋の希望が通れば、デビューは地元の場になりそうなのだという。
「親父とお袋、俺のレース、初めて生で見るんだ」
「そうか」
「ああ。……初めての金の使い道も、決めてある」
日野は続きを言わなかった。言わないところが、日野だった。全員、それぞれの初戦へ散っていく。矢部は別の場だと言っていた。『初戦から当たっても、精算が早すぎる』だそうだ。同感だ。帳簿は、もっといい舞台で開こう。
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数日後。松戸の実家に、封筒が届いた。
日本競輪選手会経由の、斡旋通知。指が、少しだけ震えた。開ける前に深呼吸をひとつ。開けた。
『六月二十二日〜二十四日 いわき平競輪場 ルーキーシリーズ』
新人戦のシリーズは五月の頭から始まっていて、節ごとに新人が振り分けられる。俺の番は、最後の節だった。研修と斡旋の巡り合わせで、開店が一か月ぶんうしろにずれた勘定になる。……ずれた一か月ぶん、脚は仕上がった。帳簿としては、たぶん黒字だ。
いわき平。北へ三時間。三日間。ラインなし、新人だけの、全員単騎の初陣——個の力の続きで戦える、俺のための開幕戦だ。
スマホが震えた。取引先だった。
『デビュー決まった。六月二十六日から。そっちは?』
『六月二十二日から。いわき平』
三秒で返ってきた。
『四日早いだけよ。先に走っても、勝てなきゃ報告はできないんだから』
俺は少し考えて、返した。
『日程上、先に仕掛けるのは俺だ』
『それで差されたら世話ないけど』
……言うようになった。いや、最初からこうだったか。
俺はカレンダーの六月二十二日に、丸を付けた。丸の横に、小さく書き足す。——開業日。
先に仕掛けて、押し切る。レースも、報告も、やることは十か月前から変わらない。
先行は、俺の仕事だ。




