第4話 作戦名「沼」
初レースの日の朝も、俺は五時に起きた。
ただし今日は三十分で切り上げた。試合の日は練習を軽くする。セオリーだ。回復B78の俺に必要かは怪しいが、こういうのは験担ぎも兼ねている。
御影はいつも通り、霧の中をフルで走っていた。験も担がない男だった。
朝食のあと、掲示板に組分けが貼り出された。
競走訓練、七十一人を記録会の成績順に六つの組へ。一組が最上位。御影は当然そこだ。
俺は、六組だった。最下位組。記録会総合ドベの男として、むしろ筆頭での選出だ。安定のドベ組。ここで負けたら立つ瀬というものが完全に消滅する。
熊井は五組だった。
「片瀬ぇ、俺たち別々かよ」
「お前、千メートルのタイム俺より上だったろ。パワーの暴力で」
「柔道百キロ級なめんな」
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五組のレースが、先だった。
俺は走路の外から観戦した。四百メートルバンクを四周、七人。残り一周半で鐘が鳴り、そこからが本当の勝負——というのが、教官の説明のすべてだった。ルールはそれだけだ。あとは走って覚えろ、という顔をしていた。
五組は団子のまま鐘を迎え、最終コーナーの入り口でもつれた。
内側の選手がバランスを崩し、肩から熊井に倒れ込んだ。
接触。観ていた全員が息を呑んだ——が、熊井は、一ミリも動かなかった。
百キロ超の巨体が、傾いた走路の上で、まるで地面から生えているみたいに揺るがない。よろけた相手の方が熊井に触れて体勢を戻し、レースは何事もなく流れた。熊井の着順は四着。ただ俺は、着順よりそっちに目を奪われていた。
レース後、本人に聞いた。
「お前、最終コーナーでぶつかられてたろ。あれ、何ともないのか」
「ん? ぶつかった?」
気づいてすらいなかった。俺は手帳にメモした。熊井、接触に対する強さ、目測でB以上。柔道十年の体幹は、自転車の上でも柔道をやっているらしい。数値化できないのが惜しい。俺の画面は、俺しか映さない。
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六組の招集まで三十分。俺は検車場の裏で画面を開いた。
【片瀬 湊 17歳】
スピード F 34
瞬発 F 24
パワー D 55
持久 C 69
回復 B 78
技術 F 22
さて、作戦会議だ。相手は六人。俺の画面には映らないので、データは自分の分だけ。それで十分——だと、このときの俺は思っていた。
まず、確定事項から。
瞬発F24。スタートダッシュは全員に負ける。
スピードF34。最高速の勝負でも全員に負ける。
つまり、鐘が鳴ってからの残り一周半——全員が全力を出す「普通のレース」をやったら、俺は百パーセント負ける。数字がそう言っている。反論の余地がない。
だったら、普通のレースをやらなければいい。
俺の持久は69。落ちない。俺の最高速は遅いが、「最高速が続く距離」だけは、たぶんこの組の誰よりも長い。
なら答えは一つだ。全員がまだ勝負を始めていない場所から、俺だけ勝負を始める。
残り二周。八百メートル。鐘よりずっと手前から、全開で行く。相手は二択になる。無視すれば俺は逃げ切る。追えば、八百メートルの全力に付き合うことになる。ラスト二百の切れ味で勝負したい連中を、長い長い消耗戦に引きずり込む。
土俵っていうか、沼だ。
俺は実験ノートに書いた。作戦名、「沼」。
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六組、七人、発走機に車輪を預ける。
俺は五番。右隣の七番が、矢部という技能組の男だった。赤カバー。高校は自転車部だったらしい。バンクの上での身のこなしが、俺たち適性組とは明らかに違う。
号砲。
予定通り、出遅れた。瞬発F24は今日も正直だ。一周目、俺の位置は七人中六番手。前の団子は、誰も先頭に出たがらない。互いの出方を窺いながら、ぬるい速度で回っている。
そうだよな。全員、最後の勝負のために脚を貯めてる。
悪いが、その貯金、今日は使わせない。
二周目のホームストレッチ——残り二周、ちょうど八百メートル。
俺は、外に持ち出して全開で踏んだ。
「はっ!?」
誰かの声が後ろに流れた。走路の外の観戦組からも、笑い混じりのどよめきが聞こえる。「早ぇよ!」「自殺だろ」——その中に一つだけ、腹を抱えて笑っている声があった。御影だ。あいつ絶対楽しんでるだろ。
団子を外から抜き去って、先頭に立つ。
その瞬間、世界の質が変わった。
風だ。
風なら知ってる。朝練で毎日浴びてる。六番手の団子の中でも、頬には当たっていた。
——別物だった。
レースの速度で先頭に立った瞬間、見えない壁が正面から胸に貼りついた。ペダルをひと踏みするごとに、押し返してくる。速度は、さっきより一割ちょっと上げただけだ。なのに風は、一割じゃ利子を取ってこなかった。倍で来た。時速五十を超えた空気は、もう気体じゃない。ぬるくて分厚い、質量のある何かだ。
思えば、朝練でいちばん速く走るとき、俺はいつだって御影の背中の後ろ——無風の中にいた。本気の速度の、本物の風。正面から食らうのは、これが初めてだった。
脚が、削れる。一周目の倍の速さで、持久のゲージが燃えていくのが体感でわかる。
いい。燃やせ。燃やして、燃やして——それでも俺のタンクは、この組で一番でかい。
三周目。背中に、気配がついた。
ちらりと肩越しに見る。矢部だ。俺の真後ろ、車輪半個分の距離にぴたりと張りついて、離れない。
——おい。
気づいてしまった。俺の後ろ、風が、ないのか。
俺がこの壁を全部胸で受けている間、あいつは俺の背中を盾にして、涼しい場所を走っている。俺が作った無風地帯で、脚を貯めている。
計算に、なかった。
俺の作戦は「全員を沼に引きずり込む」だった。でも、俺の背中に隠れた奴は、沼の上に浮かんでいられる。俺の方程式には、俺しかいなかった。他人という変数が、丸ごと抜けていた。
——後で実験ノートに書くことが増えたな!
鐘が鳴った。残り一周半。
考えている時間はない。速度を落とせば追いつかれて終わり。上げる以外の選択肢が、そもそもない。上等だ。選択肢が一個なら、迷う時間もゼロで済む。踏む。壁を押す。腿の奥が熱を持ちはじめる。それでも——回転は、落ちない。落とさない。俺の持久は十年間、一度も俺を裏切っていない。
最終コーナー。背中の気配が、外へ動いた。
来る。矢部が、貯めた脚で、外から——
視界の端で何かが並びかけて、伸びずに、沈んだ。
ゴール線を、俺の前輪が先に踏んだ。
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一着。
流し走行に入って、俺は初めて、自分の肺がバグった笛みたいな音を出していることに気づいた。ハンドルに突っ伏したい。突っ伏さないのは、意地というより、指を離す握力が残っていないからだ。
半周回って戻ると、矢部がバンクの内側の芝に、大の字に転がっていた。
「……おい……」
矢部が、荒い息の底から俺を見上げた。敵意じゃなかった。もっと切実な、幽霊でも見たような顔だった。
「お前……最終周……なんで、落ちねえんだよ……」
「……落ちない、のが……取り柄なんだ……」
答えながら気づいた。俺の息が、もう整い始めている。矢部はまだ芝の上だ。回復B78。レースが終わってからも、俺の数字は残業している。えらい。
走路の外から、熊井が両腕を振り回しながら何か叫んでいた。たぶん「すげえ」だ。あの巨体のジェスチャーは五十メートル先からでも読める。
「片瀬」
戸倉教官が、走路の縁に立っていた。手元のストップウォッチを一瞥して、鼻を鳴らす。
「一着。だが、タイムは平凡だ。上の組なら、あの逃げは鐘の前に潰される」
「はい」
「それから——最終コーナー、外から並ばれかけたのに気づいてたか」
「……いえ」
気づいていなかった。並びかけて沈んだ「何か」を、俺は今の今まで、景色だと思っていた。
「矢部は正しく走った。お前の後ろで脚を貯めて、最後に差す。教科書通りだ。届かなかったのは、お前の速度が最後まで落ちなかったからだ。落ちない先頭に付き合えば、後ろにいても脚は削れる。……つまりお前は、自分がなぜ勝てたのか、半分しか分かっていない」
半分も分かってたのか、俺。もっと少ないと思っていた。
「相手がお前の脚を知らなかったから通った勝ちだ。次から六組の全員がお前をマークする。同じ手はもう食わん。——次はどう勝つか、考えてこい」
宿題を置いて、教官は次の組の招集に歩いていった。厳しいことしか言わなかったが、最後、口の端がわずかに動いていたのを、俺は見た。あれはたぶん、この山でいちばん値段の高い表情だ。
入れ替わりに、一組のゼッケンをつけた男がにやにやしながらやってきた。
「片瀬。お前、遅いのに、競走になると面白いな」
「褒めてるのかそれ」
「褒めてる。鐘より前に行く奴、俺、初めて見た」御影は本気で愉快そうに笑って、それから、当然の予定を告げる口調で言った。「早く上がってこいよ。一組。お前の後ろ、走ってみたい」
天才が、俺の後ろを。
……悪くない響きだった。この男の後ろは日本一の教科書だが、俺の後ろは、日本一の無風地帯になるかもしれない。
賞金ゼロ円、タイム平凡、次はもう通じない、生まれて初めての一着。
なんだ。取れるんじゃん、一着。今までのは全部、レースの距離が足りなかっただけか。
……噛みしめようとしたら、腹が鳴った。
今夜の白米は、五杯いこう。




