第3話 天才の後ろは、日本一の教科書だった
朝五時に起きるにあたって、ひとつ問題があった。
目覚ましが使えない。相部屋だからだ。熊井たちを毎朝五時に叩き起こしたら、俺は退所より先に埋められる。
結論から言うと、いらなかった。
回復B76の身体は、修理が終わると勝手に起動する。四時五十分、パチッと目が覚めた。疲労の残りかすが一グラムもない。壊れかけの中古で生きてきた俺の身体が、毎朝、新品で納品されてくる。
こんな快感があるなら、もっと早く気づくべきだった。
着替えて、まだ薄暗い坂を下りる。山の朝は霧が出る。誰もいないバンクを独り占め——
と思ったら、タイヤの音がした。
霧の向こうを、影が一つ、走っていた。傾いたコーナーを、定規で引いたみたいなラインで、音もなく。
御影迅だった。
「……お前、なんでいるんだよ」
俺が声をかけると、御影は減速して寄ってきた。まったく息が乱れていない。
「それこっちのセリフな。お前こそなんでいんの」
「練習しに来た。お前は?」
「乗りに来た」
「同じだろ」
「違うね」御影は心外そうな顔をした。「練習ってのは、やりたくないことをやるやつだろ。俺は乗りたいから乗ってる。朝のバンクは貸し切りで、露で路面がちょっと重くて、最高なんだよ」
こいつは毎朝いるらしい。入所初日からずっと。
天才が、誰よりも乗っている。この世で一番タチの悪い組み合わせだ。神様は配分というものを覚えてほしい。
「片瀬はなんで急に朝練? お前、青カバーだろ。ノルマもないのに」
「二億のためだ」
「……お前、ほんっとブレねえな」
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せっかくなので、実験を持ちかけた。
「御影。お前の真後ろ、走っていいか」
「なんで」
「お前のコーナーのライン、後ろからなぞりたい。ぐっ、とバーンの実物を、至近距離で見たい」
御影は数秒きょとんとして、それから、めちゃくちゃ嬉しそうな顔をした。
「いいよ。ついてこれるなら」
ついていけなかった。
三十秒で車間が開き、一分で周回遅れの気配がした。スピードF34と瞬発F24は伊達じゃない。だてにクソステじゃない。
御影はバックストレッチで振り返って、あっさり言った。
「じゃ、流すわ」
天才は速度を落とした。俺はその真後ろについた。
——世界が、変わった。
コーナーの入り口で、御影の腰が数センチ沈む。あれが「ぐっ」だ。傾斜に身体を預ける角度、視線の高さ、ペダルを踏む脚のリズムが、一切乱れないまま出口へ抜けていく。あれが「我慢」で、最後のひと踏みが「バーン」。
擬音の正体は、全部そこにあった。言葉にできないんじゃない。言葉にする必要がないほど、身体が完成しているだけだった。
俺はその背中を、来る日も来る日も、なぞった。
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変化は、まず他人が気づいた。
「片瀬。……お前、芝を踏まなくなったな」
午後の実科で、戸倉教官が眉を上げた。二コーナーの出口、俺の定位置だった青い芝生を、俺はもう一週間踏んでいない。
「はい。バーンを覚えました」
「なんだそれは」
次に気づいたのは熊井だった。
「片瀬ぇ、お前、毎朝どこ行ってんの」
「朝練。バンク。お前も来る?」
「行く! 俺も行く!」
翌朝、熊井は来なかった。
その次の朝も来なかった。三日目の朝、布団の中から「柔道の朝練は……六時からだった……」という寝言だけが聞こえた。回復の数値は、たぶん人間の意志より強い。
朝練の唯一の誤算は、腹だった。
五時から九十分走ると、朝食の時点で世界が飢餓に見える。俺の白米は二杯から四杯になった。熊井が自分の記録を抜かれて悔しがっていた。そこは競うところじゃない。
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そして金曜の実科終わり、戸倉教官がバンクの真ん中で言った。
「来週から、競走訓練を始める」
整列した七十一人が、ざわりと揺れた。
「これまでは走らせるだけだった。来週からは、競わせる。班ごとに分けて、競走形式。順位をつける。——お前たちが十か月後に出ていくのは、タイムを測る世界じゃない。他人に勝つか負けるかの世界だ」
解散のあと、御影がにやにやしながら寄ってきた。
「片瀬。お前が競走でどう走るのか、俺、ずっと見たかったんだよな」
「俺のスピードじゃ、ダッシュ勝負になった瞬間に終わりだけどな」
「知ってる」御影は屈託なく頷いた。「でもお前、終わってからが長そうだし」
褒められているのか、けなされているのか、判定に困る日本語だった。たぶん、両方だ。
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消灯、二十二時。
熊井の寝息が丸太の倒れる音になったのを確認して、俺は画面を開いた。
【片瀬 湊 17歳】
スピード F 34
瞬発 F 24 ↑0.3
パワー D 55 ↑0.3
持久 C 69 ↑1.5
回復 B 78 ↑0.6
技術 F 21 ↑1.1
……ん?
目をこすって、もう一回見た。
技術。F。
Gじゃない。Fだ。
十七年間、俺の技術はGだった。八点だった。逆にどうやったら出るんだと自分で笑った、あの数字が——二十点の壁を越えて、ランクの文字を、生まれて初めて塗り替えた。
「……熊井。熊井、起きろ」
「んあ?」
「俺、Fになった」
「……知らねえよぉ……」
丸太が寝返りを打った。俺は暗闇で一人、拳を握った。
わかってる。Fだ。全然弱い。俺のスピードと同格になっただけだ。並ばれてどうすんだスピード。
でも、動いた。十七年間、床に張り付いて動かなかった数字が、この山に来てひと月あまりで、ランクごと動いた。
そして持久、69。Bまで、あと1。こっちも王手だ。
来週、初めてのレース。初めて、他人と競う。
ダッシュで負けるのは、決まってる。数字がそう言ってる。
だったら——数字が言ってないところで、勝負するだけだ。




