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俺だけ自分のステータスが見える 〜回復だけバグった最弱候補生、時速70kmのプロ競輪で年収二億を目指す〜  作者: 猫の飼い主
第一部 養成所編

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第2話 天才のアドバイスは擬音でできている

 養成所に入って最初に鍛えられたのは、脚ではなかった。


 声帯だ。


「こんにちは!!」


「こんにちは!!」


 ここでは、すれ違う全員に大声で挨拶をする。教官にも、事務の人にも、掃除のおばちゃんにも。廊下の端と端でも、だ。入所二週間で、俺の「こんにちは」は人生で一番いい声になった。ステータスに発声の項目があったら、たぶん今ごろBはある。


 朝六時半、起床。点呼、ストレッチ。午前は学科。


 プロアスリートへの道の、記念すべき最初の授業は——法律だった。


「自転車競技法、第一条」


 教官が黒板を叩く。競輪選手は国家資格である。だから法律を覚える。試験もある。赤点なら退所。プロスポーツ選手になりに来て、六法とにらめっこする日々が始まるとは、正直思っていなかった。


 隣の席で、熊井の巨体がゆっくり船を漕ぎ始める。


「熊井。寝たら退所」


「起きてる。目を閉じて起きてる」


 柔道では通じた言い訳らしい。ここでは通じない。


---


 午後、実科。バンク。


 今週の俺の課題は、はっきりしている。コーナーだ。


 競技用の自転車——ピストには、ブレーキがない。ペダルと後輪が直結していて、脚を止めれば車輪も止まる。つまりブレーキは、俺の太ももだった。この事実を知った初日、俺は自分の太ももを見下ろして、いろいろと謝った。


 で、コーナー。


 バンクの走路は、コーナーで壁みたいに傾いている。速度が足りないとずり落ち、姿勢が悪いと外へ膨らむ。俺は毎回、外へ外へと膨らんで、最後は青い芝生に片足を突っ込む。


「片瀬ァ! 視線が下だ! 三十メートル先を見ろ!」


 戸倉(とくら)教官の声が飛ぶ。視線。姿勢。進入のコース。言われたことは全部メモした。


 そして、その夜。俺はベッドの中で気づいたのだ。


 ——待てよ。俺、人類で初めてのことができるんじゃないか?


 練習の効果を、その日のうちに、数字で測れる人間。


 どの練習が効いて、どの練習が効かないか。誰も証明できなかったことを、俺だけが実測できる。コーチも、スポーツ科学者も、誰も持っていない計測器が、俺の視界には最初から付いている。


 俺は手帳の新しいページに、でかでかと書いた。


 実験ノート、開始。


---


 検証その一。「教官の教科書」。


 丸一日、戸倉教官の指導だけを馬鹿正直に守った。視線は三十メートル先。コースは外、内、外。上体は固めず、肘は柔らかく。


 夜、画面。


 技術 G 16 ↑0.6


 ……効く。効くけど、地味。


 昨日までの伸びと大差ない。教科書は正しい。正しいが、俺の何かを踏み抜いてはいない。


 検証その二の教材は、翌日の昼、向こうから歩いてきた。


「お前、コーナーで死んでるやつだろ」


 食堂。白米を三杯積んだトレーの向こうに、御影迅が立っていた。


 金カバーの男。技能組トップ。この期でただ一人のゴールデンキャップ。噂によると中学から自転車一筋で、高校では全国のトラックを獲り尽くしたらしい。


 その天才が、俺の向かいにどかっと座った。


「毎回同じとこで膨らんでる。二コーナーの出口」


「……見てたのか」


「バンクにいる奴は全員見てる。俺、他人の走り見るの好きなんだよ」


 悪気というものが一切ない顔だった。俺は箸を置いた。天才の目に映った俺の欠陥。これは聞くしかない。


「原因、わかるか」


「わかる」


「教えてくれ」


「あのな」御影は、真剣な顔で身を乗り出した。「コーナーに入るときにさ、ぐっ、てなるだろ」


「……ぐっ」


「そこでビビって、ふわ、ってなってんだよ、お前は。そうじゃなくて、ぐっ、と来たら、そのまま、ぐぅーっ、て我慢して——出口でバーン」


「バーン」


「バーン」


 沈黙が流れた。熊井が隣で白米を噴きそうになっている。


 擬音。全部、擬音。この男のアドバイスは、百パーセント擬音でできていた。天才の頭の中には言葉がない。感覚が直接、身体に配線されている。


「……参考になった」


「おう。あとお前さ」


 立ち上がりかけた御影が、ふと俺の顔をまじまじと見た。


「なんで朝と同じ顔してんの?」


「は?」


「午後のこの時間、みんな死んだ顔してんのに、お前だけ朝の顔してる。二週間ずっと。……お前、疲れないの?」


 俺は答えに詰まった。


 回復B。それに気づいたのは、教官でも同期でもなく、擬音でしか喋れない天才が最初だった。


---


 検証その二。「ぐっ、からの、バーン」。


 翻訳を試みた。「ぐっ」はたぶん、コーナー進入時に身体へかかる圧。「ふわ」は、俺がその圧にビビって腰が引けること。「我慢」は圧を受けたまま姿勢を保つこと。「バーン」は……出口で踏むこと、だと思う。たぶん。


 午後の走行で、実行した。


 二コーナー。圧が来た。ぐっ。——逃げない。腰を引かない。ぐぅーっ。壁みたいな傾斜に、身体ごと預ける。怖い。めちゃくちゃ怖い。出口。


 バーン。


 膨らまなかった。


 生まれて初めて、コーナーの出口がまっすぐ前にあった。次の周は普通に膨らんで芝を踏んだが、一周だけ、確かに掴んだ。


 夜、画面。


 技術 G 18 ↑1.3


 過去最高。俺は暗闇の中で天井に向かって呟いた。


「……バーンは、実在した」


「片瀬、うるさい」


 熊井の寝ぼけた声が飛んできた。


 教科書が0.6、擬音が1.3。この結果はたぶん、擬音が偉いんじゃない。教科書が土台を作って、その上で天才の感覚が刺さった。順番も含めて、全部データに残った。俺の実験ノートの、記念すべき最初の成果だ。


---


 消灯、二十二時。


 部屋の暗闇に、同期たちの寝息が積み重なっていく。熊井は布団に入って十秒で落ちた。柔道上がりの巨体が、丸太のように動かない。当然だ。ここの練習量は、全員の身体を毎日ゼロまで使い切る。


 その暗闇で、俺だけが、目が冴えていた。


 疲れていないわけじゃない。夕方には俺もちゃんと死んでいた。ただ——もう、回復し終わっている。


 画面を開く。


【片瀬 湊 17歳】

 スピード F 34

 瞬発   F 23

 パワー  D 54 ↑0.4

 持久   C 66 ↑1.8

 回復   B 76 ↑0.5

 技術   G 18 ↑1.3


 回復、76。


 入所からずっと、俺はこの数値を「便利な体質」くらいに思っていた。違った。今日、御影に言われて、ようやく本当の意味に気づいた。


 全員が同じ練習をして、同じだけ疲れて、同じ夜に眠る。回復が追いつく量までしか、人は練習できない。つまり練習量の上限を決めているのは、根性じゃない。回復だ。


 そして俺の回復は——十年間、伸び率が一度も落ちていない。


 入所案内の紙を、暗がりで引っ張り出す。日課表の一番上に、小さくこう書いてあった。


 五時〇〇分〜六時三十分 早朝自主練習(希望者のみ)。


 希望者のみ。今まで気にも留めなかった六文字が、今夜は光って見えた。


 俺は、人より速く走れない。才能の初期値では、御影に百年経っても追いつけない。


 でも、俺だけ——一日が、長い。


 明日から、俺の朝は五時に始まる。

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