第2話 天才のアドバイスは擬音でできている
養成所に入って最初に鍛えられたのは、脚ではなかった。
声帯だ。
「こんにちは!!」
「こんにちは!!」
ここでは、すれ違う全員に大声で挨拶をする。教官にも、事務の人にも、掃除のおばちゃんにも。廊下の端と端でも、だ。入所二週間で、俺の「こんにちは」は人生で一番いい声になった。ステータスに発声の項目があったら、たぶん今ごろBはある。
朝六時半、起床。点呼、ストレッチ。午前は学科。
プロアスリートへの道の、記念すべき最初の授業は——法律だった。
「自転車競技法、第一条」
教官が黒板を叩く。競輪選手は国家資格である。だから法律を覚える。試験もある。赤点なら退所。プロスポーツ選手になりに来て、六法とにらめっこする日々が始まるとは、正直思っていなかった。
隣の席で、熊井の巨体がゆっくり船を漕ぎ始める。
「熊井。寝たら退所」
「起きてる。目を閉じて起きてる」
柔道では通じた言い訳らしい。ここでは通じない。
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午後、実科。バンク。
今週の俺の課題は、はっきりしている。コーナーだ。
競技用の自転車——ピストには、ブレーキがない。ペダルと後輪が直結していて、脚を止めれば車輪も止まる。つまりブレーキは、俺の太ももだった。この事実を知った初日、俺は自分の太ももを見下ろして、いろいろと謝った。
で、コーナー。
バンクの走路は、コーナーで壁みたいに傾いている。速度が足りないとずり落ち、姿勢が悪いと外へ膨らむ。俺は毎回、外へ外へと膨らんで、最後は青い芝生に片足を突っ込む。
「片瀬ァ! 視線が下だ! 三十メートル先を見ろ!」
戸倉教官の声が飛ぶ。視線。姿勢。進入のコース。言われたことは全部メモした。
そして、その夜。俺はベッドの中で気づいたのだ。
——待てよ。俺、人類で初めてのことができるんじゃないか?
練習の効果を、その日のうちに、数字で測れる人間。
どの練習が効いて、どの練習が効かないか。誰も証明できなかったことを、俺だけが実測できる。コーチも、スポーツ科学者も、誰も持っていない計測器が、俺の視界には最初から付いている。
俺は手帳の新しいページに、でかでかと書いた。
実験ノート、開始。
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検証その一。「教官の教科書」。
丸一日、戸倉教官の指導だけを馬鹿正直に守った。視線は三十メートル先。コースは外、内、外。上体は固めず、肘は柔らかく。
夜、画面。
技術 G 16 ↑0.6
……効く。効くけど、地味。
昨日までの伸びと大差ない。教科書は正しい。正しいが、俺の何かを踏み抜いてはいない。
検証その二の教材は、翌日の昼、向こうから歩いてきた。
「お前、コーナーで死んでるやつだろ」
食堂。白米を三杯積んだトレーの向こうに、御影迅が立っていた。
金カバーの男。技能組トップ。この期でただ一人のゴールデンキャップ。噂によると中学から自転車一筋で、高校では全国のトラックを獲り尽くしたらしい。
その天才が、俺の向かいにどかっと座った。
「毎回同じとこで膨らんでる。二コーナーの出口」
「……見てたのか」
「バンクにいる奴は全員見てる。俺、他人の走り見るの好きなんだよ」
悪気というものが一切ない顔だった。俺は箸を置いた。天才の目に映った俺の欠陥。これは聞くしかない。
「原因、わかるか」
「わかる」
「教えてくれ」
「あのな」御影は、真剣な顔で身を乗り出した。「コーナーに入るときにさ、ぐっ、てなるだろ」
「……ぐっ」
「そこでビビって、ふわ、ってなってんだよ、お前は。そうじゃなくて、ぐっ、と来たら、そのまま、ぐぅーっ、て我慢して——出口でバーン」
「バーン」
「バーン」
沈黙が流れた。熊井が隣で白米を噴きそうになっている。
擬音。全部、擬音。この男のアドバイスは、百パーセント擬音でできていた。天才の頭の中には言葉がない。感覚が直接、身体に配線されている。
「……参考になった」
「おう。あとお前さ」
立ち上がりかけた御影が、ふと俺の顔をまじまじと見た。
「なんで朝と同じ顔してんの?」
「は?」
「午後のこの時間、みんな死んだ顔してんのに、お前だけ朝の顔してる。二週間ずっと。……お前、疲れないの?」
俺は答えに詰まった。
回復B。それに気づいたのは、教官でも同期でもなく、擬音でしか喋れない天才が最初だった。
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検証その二。「ぐっ、からの、バーン」。
翻訳を試みた。「ぐっ」はたぶん、コーナー進入時に身体へかかる圧。「ふわ」は、俺がその圧にビビって腰が引けること。「我慢」は圧を受けたまま姿勢を保つこと。「バーン」は……出口で踏むこと、だと思う。たぶん。
午後の走行で、実行した。
二コーナー。圧が来た。ぐっ。——逃げない。腰を引かない。ぐぅーっ。壁みたいな傾斜に、身体ごと預ける。怖い。めちゃくちゃ怖い。出口。
バーン。
膨らまなかった。
生まれて初めて、コーナーの出口がまっすぐ前にあった。次の周は普通に膨らんで芝を踏んだが、一周だけ、確かに掴んだ。
夜、画面。
技術 G 18 ↑1.3
過去最高。俺は暗闇の中で天井に向かって呟いた。
「……バーンは、実在した」
「片瀬、うるさい」
熊井の寝ぼけた声が飛んできた。
教科書が0.6、擬音が1.3。この結果はたぶん、擬音が偉いんじゃない。教科書が土台を作って、その上で天才の感覚が刺さった。順番も含めて、全部データに残った。俺の実験ノートの、記念すべき最初の成果だ。
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消灯、二十二時。
部屋の暗闇に、同期たちの寝息が積み重なっていく。熊井は布団に入って十秒で落ちた。柔道上がりの巨体が、丸太のように動かない。当然だ。ここの練習量は、全員の身体を毎日ゼロまで使い切る。
その暗闇で、俺だけが、目が冴えていた。
疲れていないわけじゃない。夕方には俺もちゃんと死んでいた。ただ——もう、回復し終わっている。
画面を開く。
【片瀬 湊 17歳】
スピード F 34
瞬発 F 23
パワー D 54 ↑0.4
持久 C 66 ↑1.8
回復 B 76 ↑0.5
技術 G 18 ↑1.3
回復、76。
入所からずっと、俺はこの数値を「便利な体質」くらいに思っていた。違った。今日、御影に言われて、ようやく本当の意味に気づいた。
全員が同じ練習をして、同じだけ疲れて、同じ夜に眠る。回復が追いつく量までしか、人は練習できない。つまり練習量の上限を決めているのは、根性じゃない。回復だ。
そして俺の回復は——十年間、伸び率が一度も落ちていない。
入所案内の紙を、暗がりで引っ張り出す。日課表の一番上に、小さくこう書いてあった。
五時〇〇分〜六時三十分 早朝自主練習(希望者のみ)。
希望者のみ。今まで気にも留めなかった六文字が、今夜は光って見えた。
俺は、人より速く走れない。才能の初期値では、御影に百年経っても追いつけない。
でも、俺だけ——一日が、長い。
明日から、俺の朝は五時に始まる。




