第29話 頂上の音
決勝の日の朝も、俺は四時五十分に目が覚めた。
霧のバンクに下りると、当然のように、タイヤの音がした。
御影は、いた。決勝の朝も、いつもの朝だった。
俺たちは、何も言わずに回った。俺が前を引き、御影がなぞり、途中で入れ替わって、御影が引き、俺がなぞる。半年間で何百回もやった、いつもの周回。今日の午後、敵として殺し合う二人が、朝は同じ霧の中で、同じ練習をしている。
上がり際、御影が一言だけ言った。
「片瀬。今日、朝メシ何杯にすんの」
「五杯」
「……そっか」御影は、にっと笑った。「じゃ、俺も五杯にするわ」
それだけだった。それで、十分だった。
---
決勝、七車。御影、真壁、矢部、俺、熊井、ほか二名。
発走機に車輪を預けながら、俺は今日の方針を最終確認した。方針——全部出す。温存も、様子見も、なし。相手はこの期の頂点で、俺の朝の師匠で、俺に「初めての敗北」を宣言した男だ。出し惜しみは、礼儀に反する。
号砲。
俺は、開幕から仕掛けた。
ゼロ距離の沼。スローの隙間から先頭をもらい、切れ目のない加速で、レース全体を俺のペースの鍋に沈めていく。真壁が食らいつき、矢部が番手に潜り、熊井が三番手で踏ん張る。鍋は、煮え始めた——
一人を、除いて。
御影は、最後方にいた。
鍋の外に、涼しい顔で。俺のペースに、一ミリも付き合っていない。
振り向かなくても分かる。あいつは俺の沼の前提を知っているのだ。沼が成立するのは、「無視すれば逃げ切られる」から。全員、それが怖いから付き合う。だが御影には、その恐怖がない。
いつでも、どこからでも、一瞬で追いつける男に、沼は掘れない。
俺の全戦術の土台が、あいつ一人の地力の前で、静かに無効化されていた。
いい。知ってた。知ってて、俺は前を引く。だったら残る勝負は一つ——俺の「落ちない」と、あいつの「追いつく」の、真っ向の物理だ。
鐘。
俺は、持っている全部を、路面に叩きつけた。持久B79。回復A85が今朝までに満タンにした、三日目とは思えない脚。バンクの空気が壁になり、壁を割って、割り続けて——後ろの気配が、一つずつ千切れていく。真壁が落ち、名前を知らない誰かが落ち、それでも矢部と熊井が食らいつく。いいレースだ。最高のペースだ。今日の俺は、間違いなく、入所以来で一番速い——
残り半周。
音が、来た。
後ろから。大外から。空気が裂ける、あの音。松戸のスタンドで聞いた、プロの風の音。それが今、俺の後ろで鳴っている。
御影が、発射した。
俺は上げた。上げているのに——横を、通過された。
一瞬だった。金色のヘルメットカバーが視界の右端に現れて、並んで、前に出て、離れていく。俺の脚は落ちていない。今この瞬間も、俺は自己ベストのペースで踏んでいる。落ちていないのに、離される。
速度の絶対値が、住んでいる階が、違う。
最終直線。前を行く背中に、俺は残りの全部を注ぎ込んだ。差は——縮まらない。ゴールラインを、金色が先に割って、二車身遅れて、俺が割った。
一着、御影迅。二着、片瀬湊。
完敗、だった。
---
流し走行の間、俺は自分の胸の中を観測していた。
変な感じだった。熱い。熱くて、痛い。悔しい——んだと思う。たぶん。俺は今まで、負けても「データが増えた」で処理してきた。五組で轢かれた夜も、檜山の名前を見た夜も、頭の中は次の実験の話をしていた。
今日のは、違う。データの話より先に、胸が痛い。
これが、本物の「悔しい」か。十七年と半年生きてきて、初めてかもしれない。負けて胸が痛むほど、何かを勝ちたかったのは。
……悪くない発見だ。痛みの分だけ、本気だったってことだろ。
「片瀬」
バンクの上で、優勝者が待っていた。息を弾ませて、汗だくで、それでも、まっすぐ立って。
「俺、今日——競輪で、初めて本気出した」
「……それ、負けた側に言うことか」
「褒めてんだよ」御影は笑った。刃の混ざった、あの笑い方で。「六十九人いて、俺に本気を出させたの、お前だけだ。お前が、出させた」
それから御影は、拳をこっちに突き出した。
「二車身。……覚えとけよ、片瀬。今日のあれが、俺とお前の、今の距離だ」
俺は自分の拳を、そこに合わせた。
「ああ。今の、な」
二車身。約七メートル。時間にして、コンマ数秒。
遠い。震えるほど遠い。でも——測れた。今日、初めて、頂上までの距離が数字になった。
距離が数字になったなら、話は早い。俺の人生は、ずっとそれの詰め方だけやってきたんだ。




