第28話 教えた技で殴られる
三日目の朝食は、静かな情報戦だった。
俺の白米、三杯。熊井の視線が皿の上に刺さる。四杯なら早駆け、三杯なら様子見——それが半年分の観測に基づく、あいつの中の俺の方程式だ。
だから三杯にした。データってのは、持たれた瞬間から、武器にも罠にもなる。
「……片瀬ぅ、お前、わざと三杯にしてるだろ」
「さあな。腹具合かもしれないぞ」
「ぐぬぬ……観測が汚染された……!」
観測の汚染。いい言葉を覚えたな。ノートに書いておこう。
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第一準決勝は、俺たちの出走前にあった。
御影対真壁。観戦エリアの最前列で、俺は一秒も目を離さなかった。
真壁は、真壁のまま行った。鐘の前からの、力の早駆け。五組の主の看板戦法を、この期の頂点に真っ向からぶつけた。潔くて、強い。並の相手なら、あれで千切れて終わる。
御影は、最後方で待っていた。
そして残り半周——消えた。
消えた、としか言えなかった。最後方にいた金カバーが、次の瞬間には大外を上昇していて、その次の瞬間には真壁の横を通過していた。俺はストップウォッチを握っていたのに、押すタイミングを二回見失った。俺の測定が、追いつかない。
ゴール。一着、御影。二着に粘った真壁との差、三車身。
戻ってきた真壁は、芝に座り込んで、しばらく黙っていた。それから俺を見上げて、一言だけ言った。
「……片瀬。あれに、明日じゃない、今日、お前が挑むのか」
「ああ」
「……肘、見つけてこい」
真壁なりの、最大級のエールだった。
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第二準決勝、発走。七車。俺と、熊井と、五人。
号砲直後、熊井の作戦は開幕三秒で判明した。
蓋だ。
熊井は俺の外側にぴたりと並んで、離れない。俺が外に持ち出そうとするたび、百キロの体幹が、壁として、そこにある。接触しても、押しても、一ミリも動かない。俺の早駆けは、発射台ごと封鎖された。
なるほどな!! 自分の武器(接触)で、俺の武器(仕掛けの自由)を消しに来たのか!! 半年間、俺の隣で俺のレースを見続けた男の、満点の答案だ。ノートに書きたい。今は書けないが。
残り三周。蓋は外れない。周回が減るほど、俺の選択肢が減っていく——ように、見える。
だが熊井。お前の答案には、一問だけ抜けがある。
蓋ってのは、前に出る俺にしか効かないんだ。
俺は、下げた。
位置を捨てて、するすると最後方へ。熊井は付いてこない。付いてこられない。あいつの戦法は「前の位置を守る」ことで成立している。捨てた俺を追いかけたら、蓋の意味がなくなる。
最後方、七番手。全員の背中が見える特等席で、俺は観察ノートの最終ページを開いた。頭の中でだが。
ロング捲り。御影の授業で生まれて、真壁戦で理屈が繋がって、まだ実戦で完成していない、俺の未完の必殺技。発射の式は書いてある——相手の垂れ始めから、逆算。
問題は、前を引く熊井が、垂れないことだった。
イーブンペース。打ち込み二十本の等速刻み。俺が二週間かけて、あいつの身体に埋め込んだメトロノームが、今、完璧に時を刻んで、俺の式の「垂れ始め」の項を空欄にしている。
……おい。教えた技で殴られてるんだが??
プロジェクト・クマイ、まさかの自傷。人に教えるときは、将来敵になる可能性まで織り込むべきだった。ノートの教訓欄が、今夜一行増える。
いい。垂れないなら、垂れを待たない式に書き換えるだけだ。
鐘。俺は最後方から、発射した。
残り一周半の、ロングの捲り。垂れ待ちの後出しじゃない。等速で回り続ける友人の背中を、真後ろからの純粋な速度差で、六百メートルかけて食いにいく。持久B79の、フルコース。
一人、二人、三人——外を回って全員を飲み、最終コーナーで、先頭の大きな背中に並んだ。
熊井は、粘った。接触しても曲がらない男は、並ばれても曲がらなかった。最終直線、真横で、百キロの巨体が咆哮しながら踏む。俺も踏む。半年分の朝飯と、二週間の特訓と、五か月の観察の全部が、横一線で——
ゴール。
前輪、四分の一。俺が、前だった。
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「片瀬ぇ!!」
流し走行から戻るなり、熊井が突進してきた。負けた男の顔じゃなかった。
「俺!! お前に教わったやつで!! お前を苦しめられたか!?」
「——一番苦しかった。今大会で、一番」
「っしゃあああ!!」
二着で決勝進出を決めた男は、バンクの真ん中で優勝者みたいに吠えた。俺はその隣で笑いながら、頭の中のノートに、さっきの教訓を書き直した。
人に技を教えると、いつか敵として返ってくる。——それは、損失じゃない。利子だ。
教えた技で殴られる日が来るってことは、教えた技が本物だったってことだ。プロジェクト・クマイ、想定外の場所で、最高の成果報告。
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決勝進出、七名。
御影。真壁。矢部——第一準決を三着で拾って、手帳の男もしぶとく残った。俺。熊井。ほか二名。
夕方、廊下の速報ボードの前で、女子決勝の結果も出た。優勝、風見澪。男女の決勝進出者が並んだボードの前で、俺はしばらく、一番上の二つの名前を眺めた。
女子の頂点は、もう決まった。
男子の頂点は、明日決まる。相手は、生まれて初めての敗北を俺にくれてやると宣言した、この期の天才。
望むところだ、なんて格好つける気はない。正直に言う。
怖い。ちょっと。真壁戦のあの捲り、俺の時計が二回止まった。
でも、それ以上に——早く走りたくて、今夜は寝られる気がしない。回復A85、頼む。寝かせてくれ。明日は、全部要るんだ。




